嘘の吐き方(うそのつきかた)
人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。
 



今日、食器洗い乾燥機(食洗機)を取り付けた。
ある種の恋愛における価値観のズレや、
他者とのコミュニケーションの失敗、
親しい女友達を幸せに出来なかったことの後悔、
様々な感情の入り組んだ迷路のような、
‥というよりは迷宮のようなセカイと心のはざまにある
カチカチした世界観を崩して、
あるいは崩れかかって(?)、
社会生活を営んでみようと試した結果

多くの時間を失った代わりに得た労働賃金で、
使うアテの無い初めてのボーナスで、
家族にプレゼントをしてみようと思ったのがきっかけの一つだ。
取付工事は滞り無く終わり、
(外部依頼)

さて、と我に返って久しぶりにブログを見た。
放置していた自分の場所。
頂上を目指しているかどうかもわからない登山のような場所で
ふと後ろだけを振り返るような、
そんな気分で放置ブログを見た。

珍しく読者らしい人が現れて、
痕跡を残していってくれたようだ。
過去に知っている人かもしれないと思ったのは
作りこまれた文章だったからなのか、
かしこまった文章だったからなのか、
疑り深い僕自身の性格によるものなのか、
意識は対象を「同じ」「同じ」と刷り込ませようとする
知らないモノを知っているモノだと誤解させる働きがあるためなのか、

あるいは、
僕自身が とあるブログに久しぶりに
うっかりコメントを残してしまったからなのか。

おそらくは、一番最後の理由が一番深く関係しているだろう。

言葉は他者を映し出さない。
言葉は鏡のように、いつも僕自身の不安を映し出す。
涙がでるような手紙も、
たった一人で読み耽るどうしようもないクズみたいな言葉の羅列も、
自分の残した排泄物のような記号の群れが愛しくて切なくて
たまらなく想いが込み上げてしまうのも、
きっと言葉の性質上、しかたないことなのだ。

そう、思おうとしても、
どこかで割り切れない。
メッセージが、どこかから、誰かに伝わるんじゃないかって
そう期待してしまう自分が居る。

それでも、一息でいっきに文章で書くエネルギーは薄くなった。
ただ想いだけを、溢れ出る思いのたけだけを一生懸命書き殴り、
どこにも届かない代わりに自分を痛めつけるような、
あの必死だった感覚はどこへいってしまったのだろう。

ほんの数年前、死ぬことのできなかった自分を思うだけで
どうしようもなく、自分が老化し続けているような気がしてならない。
自殺は若さを永遠に保存しようとする魂の抵抗だと、
どこかで誰かに教わったり、刷り込まれたりしたことがあっただろうか?

あるいは、
僕は僕自身の自殺という約束を、
ある意味 読者との約束を
破ってしまったという後悔の塊を背負ってるからなのだろうか?

僕は社会の中で考えることから逃げているような気がする
たんに自分の人生設計だけじゃなくて、
将来の夢とか希望とか、そんなありふれた歌にあるような
散財した奇跡じゃなくて、
もっと深刻に、命懸けで背負っていた使命感を放り投げてしまったような、
そんな気がする。

僕はなんのために生きているだろう。
子供だった頃の自分に脳内で会ったとき、
思春期の子供からの手紙をうっかり発見して魂の言葉と出会ったしまった時、
はたして僕の良心は耐えれるだろうか?

今は読者が居ない。
だけどもし、「読者」がこの先も僕の側に現れ、また消えることがあるのなら。

そのとき僕は、死 以外の、 なにをここに残すのだろう


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ただ黙々と、日々をこなしていけばいい。

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