嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

迷子の果てに

2010年06月28日 22時38分43秒 | 考え事



急に不安になることがある。
少し視野を狭めて考え事に集中していると、ふと、
自分がどこに居るのかわからなくなることがある。

人生迷路の迷子というような比喩の類の話ではなく、
実際に、自分が今、自宅の部屋に居るのか、
街に居るのか、学校に居るのか、外に居るのか中に居るのか、
北がどっちなのかわからなくなったり、
今、自分が部屋のどっち向きに座っているのかわからなくなったりすることがある。

たいして恋をしているわけでもないのに、
急に失恋するのが怖くなったり、
誰かに話しかけるのが怖くなったり、
嫌われるのが怖くなったり
謎の不安に襲われることが増え
 そんなときは
  たいがい
背筋や首筋のあたりがウゾゾっと寒くなってくる

決まっていることが一つある。
「働きたくない」ということだ。
これは、以前のようなNEET時代の発想とは少し違っていて
どちらかというと、働いたことの後悔からくるものだ。

まだ働いたことが無くて、働くことが恐ろしいというのは、
まだ女性を真剣に好きになったことがない頃の失恋恐怖状態に似ている。

実際には、僕にとって失恋はとても清々しい感情でいっぱいの、
そしてまた、葛藤と残酷な感動の連続だったのだけれど、
その話は今回ここでは省く。

今、自分の中にある不安は、
子供心に、夢いっぱいの希望を持っていて、
自分がいつかきっと凄い立派な人間になって、
社会や世の中で大活躍できるという、
半ばヒーローになりたいという幼い願望や、
勧善懲悪を信じていたら、この世界は善悪で計れないことに気付いてしまった喪失感や、
お金持ちになりたいと真剣に思っていたのに、
お金よりも大切なものを見つけてしまって自分が気が狂う感じにも似ている。

結局のところ、
怖いのは自分の形が変わることなのだ。
自分の殻を捨てたり、
ポリシーを捨て去って、
全く違う物差しで世界を測り直すことが怖いのだ。

いつも僕は迷子だ。
そして僕はこの迷子状態を心底気に入っていて、
もう自分探しが楽しくて楽しくてしょうがないくらいに、
ずっと馬鹿な子供のままで居たいのだ。

(『あるいは、子供のままで居たかったのだ』)。

ほどなく、終わりが来て、
強制的に大人になるか、
あるいは自決するかを選ぶ時が来る。

そのときに、
子供らしい生に無頓着な我が侭自分勝手の自尊心{プライド}と、
なんら絶望も希望もなく、生に執着する延命措置のような{本能的理性}と、
僕は、どちらを大切にするだろうか。

判決の日が来るのが、とても恐ろしい。
自分に自信がない

今の僕は、いつも不安だ。
でも、偽物のSOSしか、
僕は発信していない。

メンヘラーになんかなりたくない。

2010年06月21日 05時19分44秒 | 考え事
欲しいのはきっと鈍感さだと思う。
誰からどれだけ否定されても、自分の意志を貫いて努力できるような、
そんな鈍感さが欲しいんだ。

繊細さは褒め言葉として聞こえるけれど、
それが直接自分を満たすことは無い。

宿命の中で役目を果たせなかった僕は、
新しい神が降臨するのを待っている卑しい存在だ。

もっと早くに死ぬべきだった。
たとえこの2年間に、知り合えた様々な人との感動が得られなかったとしても、
僕は自分の決意のままに、この世界を消し去るべきだった。

果たせなかった想いは呪いに変わる。
約束は罪に変わる。

肉体の契約を交わすことの無かった僕は、
その無責任さを容認することで、生きている。

『摂氏零度の少女』(著者:新堂冬樹) を読んで思ったことなど。

2010年06月20日 02時16分18秒 | 読書
まず、帯にある宣伝文句から。
>「善悪ってなに?誰が決めるの?」
とある。

単純に答えを言ってしまえば、
善悪は良心と倫理観に従って、善と悪の線引きを信じるものが
勝手に引いた境界線であり、善、もしくは悪、あるいは両方を信じる者が
その采配を決めている。

もし、成長の人格形成過程において、その形質が歪に歪められてしまったのなら、
あるいは、真っ直ぐに純化されてしまったのなら、
もしくは、裏返って、違うものに変化してしまったのなら、
そこには新しい着眼点、新しいアイディア、新しい神が現れる。

つまり、視座が変わるということだ。

この物語において重要なことは、
少女が愛犬のリトルを失う行為を、
生物的な反作用の中で、何年もかけて理解しようとしている点だ。

つまり、彼女は犬が死ぬということを、瞬時には理解できなかったし、
また、我々人間の方に、大人とか子供とかのものさしを持って来る前に、
ひとつの孤独な生き物として、例えば「知恵を振り絞って考えることの出来る猿」
としての立ち位置だったとしても、目の前に起こっている【死】というひとつの出来事を、
そう簡単に解ることなど出来ようか?

もし、理解に行動や経験を伴なう必要性があるとしたら、
例えばそれがパズルのようなものだったとしても、
ぐるぐるとキューブを回転させることでしか解らない人も居るし、
バラバラに分解しないとわからない人も居るし、
回さなくても瞬時に解答を導ける人も居るだろう。

だが、残念なことに、死は生の向こう側にある。
こちら側ではない。
にも関わらず、少女は大人から「天国」という嘘を教わってしまう

それをまったくのジョークや嘘として処理できれば
ことはもっと単純で簡単に折り合いのつくものかもしれないが、
もし、ある種の無知と純粋さによって、
無垢な魂のありかを探し出すトリガーとなってしまったとしたら、
少女はもう、引き金をひくしかないのだと思う。
それは死が持つ暴力性や優しさによって達成されるものではないが、
人の物差しがその計測を邪魔する。
人を殺すことは決して暴力的でも優しくもなく、
もっと冷たい温度の無い現象に過ぎない。
だが、そこへは人が意味を介入させる。

「少女が親を殺すとはどういうことか?」
「子どもが大人を毒殺するとは何か?」
「主人公はいかにして母を殺すに至ったか?」

いわばもう、これは読者に向けて延々と説教のように語られる
オリジナルの供述調書だ。
現象を人が事件にする。
そして、事故にする。
踏みつぶした蟻に許しを乞うのは、蟻の命に人と等しい価値があるからではない。
許されたいという動機を持つ者だけだ。
蚊を殺すことと人を殺すことに差をつけるのは、
その、両者に価値基準を適用できる者だけだ。

もし、姉がリトルを殺したら、
彼女は豹を愛したか?
という問いが生まれる。

毒殺のオリジナルは、ライオンにあるのでも、
彼女にあるのでも、グルムグンシュにあるのでもなければ、
グレアムヤングにあるのでもない。
「白衣を着た男性獣医」にあるのだ。
この切り取った、小さなBookの世界観において言えば。

だけどそのことについては多くを語られない。
少女にとっては愛する母親から初めて教わった
「生き物を殺すということ」であり、
その恩を、愛情を、行動で示さなければならないのだろう。
これは優等生にありがちなパラノイアであり、
良い子で居ること と 権力者 との間で起こる葛藤なき
宗教的行為でもある。

もし、リトルという器に入った魂の意志が、
略奪されない秘密の部屋で行われる孤独な行為であったのなら、
きっとこうはならなかった。
自己が確立できない間に行われる「育てる」という行為の憑依試験の中で
あのふさふさした被毛を撫でながら、衰弱していく犬を見つめる行為の中に
新しい自分を発見したかもしれないのだ。

だが、残念ながらリトルは
そして少女の自己は、確立されるよりも前に、
ライオンの檻の中で育っていく忠実なモンスターの僕(しもべ)なのだ。
育った愛で飼い主を食い殺す新しい息吹だ。

ぼくは例の事件が起きた時、
glmugnshu -グルムグンシュ-
を読み漁った。
繊細な心を感じさせる文才と、
子供の中にある特有の闇の匂いを感じ取ることの出来る
貴重なサイトだった。

どうしても、僕はその少女と比較しながら、
桂木涼子(風矢信介)を見てしまう。
たぶん、僕はこの本の忠実な読者にはなれないだろう。
本を読む前に、多くのことを知りすぎて居る。

それでも、読んでいくうちに、ハッとさせられることは
何度かあった。

もし、この本を弱さで読み取ることの得意な人が見たら、
この少女の心を、弱いものだと勘違いするかもしれない。
もちろん、そうした読み取りはその本人にとっての
真実の供述調書となりうるものなのだと思うけれど。

最後に、この文章を読んでくれた読者のあなたに、
この言葉を捧げたい。

「――なんだよ。みるなよ! 足が一杯になるだろ!」

観測点に対する考察

2010年06月07日 10時36分50秒 | 
世界はすべて、肉体の形に歪んでしまう。
あらゆる認識は、肉体の個性に依存する。
ゆえに、同じ世界を直接観測することは出来ない。

だがもし、ハードウェアを使用せずに、
観測内容を伝搬する手段があるとすれば、
その超越的なインターフェイスによって、
同じ何かを観測できるだろう。