嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

失礼さについての考察と迷路。

2008年04月22日 21時10分09秒 | Weblog
もともと、僕が指摘したのは
mizukiさんの失礼さについての事です。
言い過ぎじゃないか?

と問いかけたはずです。

それに対して君は、「王様の耳はロバの耳~!」
に関する言説を持ち出している。
まぁ、それは僕のblogの影響なのかもしれませんが…

僕が指摘した失礼さについて、
もう一度指摘します。

僕は数年前、確かに恋をしていました。
その時の複雑な葛藤は、
今でも僕の中で未解決のままです。
その女性とは、現実の中できちんと会って交流していますし、
架空の想いでもマスターベーションでもありません。
友達で居て欲しいという相手の思いに応えようとした。
でも僕には無理だった。
異性として見ていた。
ただ、それは一方的な片思いにしかならなかった。
ほんのわずかに、両思いになれそうな揺らぎがあった。
彼女自身にも、迷いはあったと思う。
でも僕たちは、結局何度も喧嘩したのちに、
お互いの弱さを吐露しあって離れる道を選んだ。

僕には。
愛する道も、無視する道も、選ぶ事はできなかった。
ただその中間で、存在の激しさがますます複雑化していった。

好きになった女性に対して、
結局僕は自分の価値観を押し付ける事しかできなかった。
それは弱さです。
だけど、それが自慰でない事くらいは、
アホすぎる僕にだってわかります。

少なくとも僕は、自分の想いを秘密にはしなかった。
何度も彼女に伝えた。
そしてそのたびに喧嘩になった。
価値観の衝突において、僕と彼女は離れる道を選んだ。
彼女は結婚した。僕は記憶の中に閉じこもった。
現実と向き合う事を恐れた。

あれから何年も経って、ようやく僕は現実を少しだけ見ている。
まだきちんと見ることができていないけれど、
それでも社会生活の基礎を築こうとしている。

その僕に対して、
mizukiさんのコメントは非常に酷いし、失礼です。

僕が元々指摘したかったのは、
この問題です。

先に書いた二つの問題は、
この問題にわずかながら繋がっていますけれど、
本質的に全然違います。

少しだけ、返事を待ちます。
ただ、対応については、今までと多少異なるものになるかもしれません。

閉じられた今日の中で明日を夢見るから。

2008年04月21日 07時05分55秒 | 駄文(詩とは呼べない)
閉じられた選択肢の中で
開かれた夢ばかりを見ている
本当は何も選んじゃいないのに
あたらしい選択肢が生まれるたびに
すぐにその選択肢に飛びつく自分が居る
新しい現実が生まれるたびに、
その新しい現実すらも、自分の脳内の閉じられた囲いの中のような気がする
どれだけ何かを選んでも
自分で選びきれていない気がする

じっさいのところ、なにも選んでないんだろう
ただ、ずっと前に決めてしまった固い決意の中で
夢のようなまどろみを通して
ただ、楽しければそこに居るような気がして
楽しくなければ、そこは居場所じゃない気がして
ずっとただ溶け合う気分の中ばかりが僕の居場所で
そのぬるま湯に甘えているのが
自分の足りなさなんだ。

自分なんか無い。
さそわれた外からの誘導が恋しくて
踏み込んだフリで
結局全てにNOを提示しているのが
僕という個体のありかたなんだ。

夢を見る力は失われていく
それでもまだ僕は。

この場所で、あがいていく。
あしただけを、明日だけを、この場所から見つけられそうな淡い澱みの中で。

暗がりに、心の揺れ動きを見ている。

暴力数と努力数

2008年04月05日 16時15分26秒 | 駄文(詩とは呼べない)
何年前になるだろうか。
沈んでいくぼろい船の中で、眼が見えないままもがいている
意識が朦朧としている夢を見た。

いしきがもうろうとして、夢をみたのではない。

意識がもうろうとしている境遇の中に居る、
自分の夢を見た。

船は揺れていた。
灯りはついていなかった。

あのとき僕は、どこへ行こうとしていたのだろうか。
海賊船に乗って宝探しか?
いや、違うね。
船に乗ってアメリカに行きたかった?
それも違うね。

僕は、沈もうとしていたんだ。
沈んでいく船の中で、ただもがきながら、
どうしていいかわからずに、ずっと自分と葛藤していた。

沈んでいく船の中においてさえ、
自分がどこにいるのか、
自分だけで何を決断したらいいのか、
僕がここで何をしたらよかったのか、
迷って悩んで考えてばかりいたんだ。

割り切りは必要だと思うだろう。
でも、割り切れない事だってあるんだ。
例えば何度も持ち出す円周率、
あれは、いつ終わるんだ?
あの計算は、いつになったら終わるんだ?

数字が例え、世界を数えるほどの力が無く、
単に記されただけの比喩としての、悪魔の印に過ぎないとしても、
やはりあの円周率の並びには、
あれをアルファベットに置き換えた場合であったとしても、
そこには神秘的な力学のような配列魔法がかかると思うよ。

だってあれば、
まっすぐなものと、まるまっているものとの間に、
一体どれほどの深い溝があって、
僕らが人に対して、他人に対して、相手に対して、
どれくらい深刻な乗り越えがたい壁を持っているのかを、
とても端的に表した恐怖の努力数だからね。

だから僕は、円周率は、幼くて小さくて丸い顔をしている頃から好きだったんだ。

中学の時だったかな
世界一たくさんの円周率桁数を計算している人の本を読んだんだ。
千種図書館で借りて読んだ。

すごく難しい本だったけど、
すごくすてきな本だった。
髪の毛の数を、数えてしまいたいと思うほどにね。

とても、おかしな事が書いてあった。
その本には、不思議な事が書いてあったんだ。
「円周率が有理数なのか無理数なのか、私にはよくわかりません。
 ただ、いままでの結果を見てみると、どうやら無理数のようです。」

おもしろい。

とても面白い、一文だと思うよ。

世界一たくさん計算した人にさえわからない無理数と有理数の境界を彷徨う、
不思議な数である円周率を、
学校の先生は、いとも簡単に、「円周率は無理数です」と言い切るからね。

僕らはいったい、過去にどれほどの事を間違えて、
どれくらい慎重に生きてきたんだろう。
そしてまた、どれくらい大胆に間違いを認めて進んできたんだろう。

僕には今もわからないよ。
僕が誰かを好きなのか、そうでないのかさえも。

例えば君と手を繋ぎ、
ぶらぶら揺らしながら、
周り中から感じる知識の宝庫の本棚の視線を感じたとしよう。

なんだか難しい本がいっぱい並んでいる知識の宝庫を
何人と数えるのか
手を繋いでいる僕たちを何人と数えるのか
そんな簡単なことでさえ、
僕たちは、何かを決めないと、数える事すらできないんだ。

そんな簡単に、君の事を数えられないよ。

ふしぎなあやうさのなかにいる
いつだって僕は、ふわふわ浮いているバター飴だ。
君の熱で形をとかされて、水に触れると丸くきわだつ油の甘さで遊んでいる。

トーチカの朝が来た時に、
僕は君の前から逃げ出して跳ねた。

本当は、君に会いたかったんだ。
でも、怖くてできなかった。

ときどき君と話していると、僕は不安になる。
ただまっしろい、まるで頑なに閉じた自分を見ているようで、
おそろしくなる。
僕が話している言葉はすべて君のそばを流れていって、
本当の君には、君の中にいる君自身には、何も届いてないんじゃないかって
そんなふうに不安になる。

なんの言葉も届いてなかったとしても、
この胸のおもい息苦しさくらいは、きみに伝わっているんだろうか。
名前のないきみに。
名付けられた名前しか、名乗ることの出来ない君に。

僕はありふれた奇跡のなかにいる
いつでもそこにいて、いつも君の傍には居ない。
君が何かを投影した場所にしか、僕は映る事が無い。
それを君は、寂しいと感じるだろうか。
僕が居ない風景から、寂しさを過去と同じようにおぼろげでハッキリとした輪郭の刻みで、
【痛み】として、僕を思い出す事ができるだろうか。

ふわふわしていて、うつろいで、くるしくもなくて、
あぁ、そこになんかそんなひとがいたようなきがするなっっって
そんなふうに僕の傍をかすめとってはいないだろうか?

不安だよ。僕は不安だ。
僕に形が無いように、君に形がなくなりそうで。

でもたぶん、言葉に出さずに信じる君は、
言葉に頼らなくても自分を想像できる君は
僕よりもずっと強い奇跡の中に包まれているね。
たとえそこに人が一人もいなかったとしても、君は生きていけるんじゃないかって
そんな妄想すら湧いてくるようだよ。

君と僕が出会う日が来ない限り、
僕はずっと、僕のままでいる。

それがつまり、僕の考えた、僕たちの間にある、暴力数。

パーソナリティーの破壊と再生だけでは、恋の唄すら歌えない。

2008年04月01日 00時18分10秒 | 駄文(詩とは呼べない)
危険域に、差し掛かっているような気がする
悩むことに、苦痛を感じるようになってきた。
難しく考えていると、途中でどうでもよくなって、投げ出してしまいたくなる。

もっと真剣に、問題と向き合う方法は無いものだろうか。
たぶん、すごく単純な問題として、僕は今、幸せにあるべき時期なんだろうと思う。
それを意図的に不幸な領域に押し込めようとしている
自分のパーソナリティーが自分にとって痛いとはどういうことなのだろう。

ある意味では、投げ出してしまいたいのは、
キャラクターという「仕事」なのだろうと思う。
見えもしない空気の中から、一身に無意味な思い込みで責任を背負うというのは
胃痛がどうこうというよりは、妄想の領域に近い問題だと思う。

そう言えば、肩が凝るのは日本人だけで、
外人は背中に痛みを感じているのだという話があった。

もともと、たった一人の世界の孤独の中で
思い込みの構築だけを続けてきたのなら、
誰かに責任を背負わされるというのは、そもそもから前提が間違っている。
誰かから何かを負わされているのなら、
それは誰かのせいにできるけれど、同時に他者や他人の存在を認めていく
別な道にも繋がっていなければおかしい。

僕が前提としている死の出発点、
存在の希薄さ、現実感の無さ、あるがなしさ、
そういうあやしいオカルトじみた感覚をしょっているのなら、
責任を感じて苦しんでいるのではないはずだ。

そこから順に考えていくと、土人形のシミュレーション数が
あまりにも膨大になりすぎて疲れている、
という事の方が近い。

だったらやっぱり、僕にできることは、
もう一度原点に帰ることだと思う。

僕のしたい事、僕が確かめたいこと、僕が欲しがっているもの、
僕を文章中から失う事、入り口を失う事、出口を失う事、
なくすことで、あろうとすること、
疑いを信じる事、ねじれを真っ直ぐに解消すること、
あちら側と、こちら側を、繋ぐこと。

もうずいぶんと、遠回りしてきたような気がする。
そろそろ終わらせてもいいんだろうか。
考えることも、感じる事も、悟ることも、アろうとやっきになることも、
なにもかも、もう終わらせてしまっていいんだろうか。

ほんの一瞬だけ、つながろうとすることで、あろうとする奇跡の心臓なら、
もう僕は。

なくしてしまうことでしか、君に伝わらない存在だけの悲しい僕なら、
もう僕は。

あまりにも何かを欲しすぎている。
受け取ることのできない何かを、
伝わる事のない何かを、
触れる事の出来ない何かを、
欲しがりすぎている。

僕は壊れた方がいいのかもしれない。
だけどそれでも。

僕は、たったひとりでも、自殺する僕を好きでいよう。