嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

どんな奇跡も日常の中に隠れるように笑う。

2007年06月25日 04時27分03秒 | 駄文(詩とは呼べない)
人は「生」と「死」の間を揺れ動いているわけでもなければ
「生」から「死」へ向けて落下しているわけでもない.
人は流動の中にあって「日常」と「死生観」のはざまで揺れている。

そもそも人が「死生」に近づくのは
急激な【形】の変化によるもの。
羊水の海でたゆたう胎児である時の環境から、
流転する空気の現実たる異界へ旅立つ事によって
出産の瞬間には、限りなく死へ近づく。

例えば恋愛のような性との出会いも
異文化における外人との出会いも
形の急激な変化を求められ、
それは死生に近づく。

けれどもまた、もっとも重要なのは、
食物を食べる事、薬を飲む事、水を飲む事、呼吸をする事
そういった、口からの摂取が
ずいぶんと無意識に多く影響を与えている。

物体にぶつかる時の急激な物理変化も、
やっぱり形の直接的な変容として死生に近づく。

真空中で、無重力状態で、人が受精を行ったら
それは死へと近づくだろうか?
生へと近づくだろうか?

言葉によるある種の馬鹿馬鹿しさは、
記号のもっとも源泉的な性質は、
【記号】が『変化』を拒んでいる事にある。

曹洞宗(?)の坊さんは気難しい顔をして
「人は二度死ぬと言われている」と言った。
一度目は肉体による死
二度目は周りの人たちが全部忘れてしまったときの死
だそうだ。

残念ながら僕は宗教の類は一切信じていないので
輪郭を区切る参考程度にしかならなかったけど、
人が死生観に近づくのはたった二回では無いと思う。

出産の瞬間に胎児は死ぬ。
人へは生まれ変わっている
食事や呼吸によっても人は死ぬ。
1日に死滅する細胞の数が、個体の身体全部のうち、たったの二百分の一であるはずもない。
考える事によっても人は死ぬ。
脳細胞は、呼吸するだけでも死ぬ。
考えれば死ぬ、感じれば死ぬ。
価値観の喪失によっても人は死ぬ。

あまりにも日常的な死の中で、
何故か人の死だけが僕の中で特別な位置を占めている。
人類全体が、もうすぐ死ぬと、はっきりわかっていても、なお。

地球が生きていても、死んでいても。
星が生きていても、死んでいても。
銀河が変化しても、浮かぶように考えていても。
それでも宇宙は死ぬ。
宇宙が自殺する事は、とても悲しい奇跡。
たった一つしか真実が無いという矛盾は、
その奇跡のような完全性は、美を生み出さず、何も殺さない。
だけど残念ながら宇宙は完璧ではない。
謎に満ちているし、矛盾を包含している。
生と死の間に、謎の中間を作り出す事ができるのはわかる。
そこに名前を付けることもまた、そんなに難しいことじゃない。
日常と、死生観の間に、はざまでゆらぐ光のオーロラを見る事も、
その帯を編む事も、そんなに難しいことじゃない。

物理法則が、ほんの短い時代に束縛された道理でしかないことも、
ほしの呼吸を知らない僕らの浅はかさでしかないことも、
そんなに難しいことじゃない。

超越は時間を超える
矛盾や迷いは時間を作り出す。
人が悩む限り、自分の時間を得る事は、そんなに難しい奇跡じゃない。

だけど僕は。
それでも僕は。
ここで、宇宙が自殺する日を感じてる。
どうしようもないほど、生まれる事のできない星の胎児を、
銀で出来た砂時計を、光を吸い込む血の一滴を、
濁った黒光りする鉄の味を、
僕は感じてる。

冷たく小さな鼓動がゆっくりと彼らの呼吸を追い越して
ずっとずっと永遠に近い呼吸になっていく
みんなみんな、違う周期で動いてる
だれもがみんな、違う奇跡の中で、自分を乗り越えて、
生み出そうとしている。
宇宙の殻を破って僕が出生を叫ぶ日は来ない。
僕の矛盾は、もっと小さな波動の中にあるから。
ほんの小さな子供が、やけっぱちの中で叫んだ、
手がかりひとつくらいの、小さな時間しかないから。

残り少ない。
僕の未来は、残り少ない。
いつもそのことを思う。

君に出会うことの偶然は、きっとその中に日常に数えられてしまうだろう。

何かを捨てれば何かに捨てられる。

2007年06月24日 15時38分22秒 | 駄文(詩とは呼べない)
知り合いがmixiを退会した。
ちょっとショックだった。

僕が引き金を引いたであろうことは、すぐに思い当たったから。
相手が前向きな気持ちで退会したのか、
後ろ向きな気持ちで退会したのかまではわからない。

ただ、ある意味では僕が更新停止したことの反動のような気はした。
マイミクを切っておいたから、
直接的に更新を停止した事は伝わっていないだろうけど、
たぶん間接的にはなにがしかが伝わってるんだろう。

相手が管理するコミュニティにある
はにゃのコメントは大量に削除したし、
メッセージに長々と自分の気持ちを書いて送ったりもしたし。

というかそもそも、ネット上の知り合いに
自分の気持ちをたくさんの言葉にして伝える行為は
いつも複雑な誤解の中で読み解かれる。

いまだに僕は相手が自分にとってなんだったのかよくわからない。
とても安心する話し相手ではあったけれど。
たぶん、今までで二番目くらいに中心に近い本音を打ち明ける事ができた気がする。
成長から隔離された場所で育つ心は、
誰かにとって、透明な鏡になると思う。
もしも、本ばかりを読み続けて、
生まれてから一度も人と出会う事の無い人間が居るとしたら、
それはどんなに綺麗に鏡面を磨く経験を積む事よりも、
毒のある研磨にはなしえない、ひらぺったい他者の空間を作り出すと思う。
赤子の無垢さに似ている。
それは汚れた人間にとっては、暴力となりうる存在でもあるから。

鋼のように強い意志で泥を踏んできた存在よりは、
まったく汚されずに育った孤独の方を、僕は美しいと思うから、

だから僕は、結局のところ、
壊れそうなものにだけ、僕の情動を呼び起こすきっかけを求める。

僕を壊そうとするものは、同じ強さで壊れなければならない、
そういう思いこみがあるのかもしれない。

処女に触れる事を求める僕の業は、
見にくく汚れきった現実に、
僕の魂がすでに汚され始めている事を示唆するような気もするけれど

ある意味では、生まれ持った堅さが、
やわらかさと出会う事を求める行為にも似てる

『(純粋な悪意は、善意となりうるか?)』

という問いがたまに浮かんでくる。
探していたものと出会えない不在の感覚は、
存在を知らせてくれる壁そのものの、消失にる
自分の無さと近い残酷さをもっている。

時代と呼ばれるあやしげな概念が、
価値を喪失していく変化の一部しか指し示せないのとよく似ている。

子供は僕らに未来のありかを示すけど、
僕らには決してそのありかを見る事ができない。
そしてまた、何も見えなくなったとき、
大人は子供にとって景色の一部になる。
それは人から価値が喪失され、鏡にしかならないのと
あまりにも似ていて心が切ない。

自分と繋がった糸が解かれていくたび、
僕の存在に対する信用は喪失されていく。
誰にも何も通じなくなったとき、僕はこの世界に存在していなかった事が証明される。

人を殺してでも生きたいと願うエゴや衝動を、
その暴力の源泉を、
どこかしら僕はうらやましいと思っている。
嫉妬とは違う。僕には生まれつき無いものを、
他者である何かは持っているかもしれないという、
期待に満ちたまなざしをどうしても向けてしまう。

ただ、同時に僕はそれに汚される事を嫌う。
何かと交わる事は、それだけで僕の嫌悪感を引き出すのに十分な要素を持っていて
それがたぶん、僕から堅さを奪おうとする他者の欲に見えるから
僕は誰も信用しないんだと思う。

「僕は、その存在があやふやでありながらも、
 誰かから居場所を奪っているかもしれない。」

その事を思うと、残りの砂が落ちる音を聞きながらも、
僕の中でなにかがざらざらとした音を響かせはじめる。

「逃げる事は、罪をあがなう事にはならない」
そういう声に呼応しはじめる。

僕が生まれてから死ぬまでに
壊す事のできたものはなんだろう。

僕が生まれてから死ぬまでに
壊せなかったものはなんだろう。

僕が生きていたあの頃に
触れる事のできなかったものはなんだろう。

僕が死んでから今までに、
伝えられなかったものはなんだろう。

どこかしら、なにかが絶望的に抜けている
時間と同じくらい、重要な要素が欠落している。
そのことの不安が、だんだんと雲をなして僕を覆っていく。

気味の悪い向こう側からの圧力と、
僕を重ねて考える。

僕はそこに居ただろうか。
僕はいつも、ながれてくる向こう側に居ただろうか。
それとも。

いつもいつも沈められていく
誰かの中で忘れられていく
こちら側に、居ただろうか。

変な感覚だ。
誰かが誰かにとって、いつも記号でしかないという感覚は。

のろのろと排泄しただけの断片書き。

2007年06月22日 08時59分27秒 | 駄文(詩とは呼べない)
排泄したい、切り離したい、と思って書いている言葉なのに
結局僕はその粘りつく気味の悪さに太刀打ちできないでいる
出力だけをしたい。
一方的に。
蝉の殻のように脱皮したい。
余計な言葉を、全部捨てたい。
でも、しつこく絡み付いてくる。
この、気味の悪いまとわりつく感じが
ますます一層、より歪んだ形の、僕を削り出す感じがして
気味の悪い連想の中で
不快感の中で、
逃げるように足跡を残す。

駄目だ。
書けない。

思っている事が、書けなくなってきている。
そして、
思わなくなってきている。

もうほとんどが、どうでもいい。

苦痛だ。

ずっといびつさの中で震えている。

諦めたら終わりだって言われて続けているのに
僕は、諦める事でしか、自分を表現できない。

だから終わりが近いんだろう。

目がくらむような奇跡ばかりを求める
現実なんかどうでもいい。

書きたいものも捨てたいものも
肺や胸や皮膚のあたりをぐるぐるうずくものも
いっぱいあるのに。

あるはずなのに。

僕の言葉が、ない。

もうずいぶんと、現実の鈍感さに、毒されてしまっている気がする。

だから読みたくないんだ。
君らが書いた本なんか。

息を吐いて、もう一度みつめる。

不快感だけが僕の胸につのる。

やっぱりこれは、失敗作だ。

でも、だから僕と同じ。

はやくいなくなりたい。

BLOGやmixiを突然やめる人の心理について考えてる

2007年06月17日 11時33分19秒 | Weblog
言ってることはだいたいわかる…
けど、割り切れない事があるのも事実で

やめますって言ってからやめるなんてのはどう考えてもヘタレだから
そんなもの放置とか無視でいいんじゃね?
という態度も当然と言えば当然なんだけど。

だけど、それだけじゃ済まない何かはあると思ってるし
それってよく僕が考えてるやり方、
小学校のクラスメートではどうか?
というケースパターンなんだけど、
クラスメートがある日突然学校に来なくなったら、
やっぱりその事の責任は無いにしても
加害者意識はあってしかるべきなんじゃないかと思ったりする。

べきと書いておきながら
別に義務でもなんでもないんだけど
少なからず何かを思う事ってのは
無視とは多少なにか違うんじゃないかと淡い期待のような
いや期待って事もないんだけど
なにかそう、割り切れない寂しさの拳みたいなのがあって
その拳で誰かを殴れない以上、
やっぱりそれは僕が立ち去るという事に繋がっていくんじゃないのか?

ということ。

結局は加害者だ被害者だとおおざっぱな二つくらいのグループに
がつッと分けて
そんでまたそこで分けた後で
その分けてしまった事について
分けられた立場から
なんのかんの叫んでみたって
それはいじめ問題で言えば
いじめ側に立った傍観者と同じで
いじめられた側に立った傍観者は、
じゃぁ何にも悪くないし、何にも反省しなくて済むから
僕はいじめられ側の傍観者に立ってみます、
というんじゃ単なる逃避か何かに見えてしまうし

そこで「単なる逃避」と書いてしまった僕も
やっぱり切り捨て側心理で動いてるから加害者みたいなもんだし
ずっとぐるぐる考えたって二つに分けたって三つに分けたって
四つに分けたってどれだけ考えたって
そこに何の気持ちも込められていないのなら、
やっぱりそれは何にもしてない沈黙の加害者って事じゃないかと

自分の罪に怯える。

更新を休止して放置するってやり方はあった。
それはやっぱり真ん中ら変の複雑な感情を産んだ。
それが
「ベストではない、ベターをえらべ」って生き方に
そういうやり方に、近づいていないってことにも
僕の思考は寄っていった。
そしてまた逆に、じゃぁやめないで停止する事が
僕にとってのベターなんじゃないかって、
そんな風に無理に思ってみたりとか。

そしてまた考える
「立ち去る」って行為は、なにかにとって、
誰かにとって、大きなお世話だったり、
おしつけだったり、おせっかりだったりするような、
心理的なアクセスなんでしょうか?

「教えて下さい」
ってタイトルで、なっがい人生の疑問をひたすらぶつけた
広辞苑みたいな本を出せば、
それで読者がなんか答えてくれるんだろうか?
じゃぁそれで僕は偽名や匿名なんかで、
著者不明の状態で本を出した場合、
読者はそこでどうすんのか。
そこで新しい作者に変わるのか。

たぶん、変わらないんだと思う。
思いは通じない。
気持ちは決して伝わらない。
だけど書く事はやめられない。

消えてしまったとしても、
何かを書き続けたとしても、
それで何かを選んだ事にはならない。
決して人を救った事にはならない。
それでも僕はたぶん、書かずには居られないっていう
そういう我慢できなさ、に似た行為じゃないかと思う。

振り上げた拳に、ふるえる指先に、
自分を殴る事のできない勇気に、
言霊が宿っている、
そんな。 気がする

失敗だけが、成長という傷を痣る

2007年06月16日 15時35分37秒 | 駄文(詩とは呼べない)
自殺-新しい鏡の喪失
自殺-これ以上自分を見たくないという証
自殺。-好きで好きでたまらない。自分を嫌いになるくらいなら、死んでしまえ。

思い込みが強くない状態での自殺とはどんなだろう。
あまりにもたくさんの人たちの暴力に囲まれた時?
たいくつすぎる日常を、非日常にしたいというまるで当たり前のような衝動?

基本的には、思い込むだけで心臓発作や脳梗塞を呼び起こすのは難しい。
薬物に頼るにせよ、物理的落下にせよ、
あんのんと過ごしている日常から、少なからず外へアクションを起こさなければならない。
完全な消極性においては、自殺よりも餓死の方が簡単だろう。
餓死しそうな環境下で、餓死をせずに自殺を消極的に行うというのは、
やっぱりそれはそれで難しい。

そもそも殺意が人を死に至らしめるには、
あまりにも長い時間と誤解の圧力が必要なんじゃないのか?

自分と関わった人を全て殺すという完全タイプの自殺を、
自閉症的に見る見方もあるけれど、
他人には他者の要素が少なからず含まれているから、
外へ全く触れずに自殺するというのは、なかなか困難を伴うと思う。

行方不明者になって蒸発する方が、
自殺よりも簡単な消極性かもしれない。

けれど僕は多分、印として、自殺をこの地に刻む方を選ぶんじゃないかと思う。
たとえ精神の居場所が無くなってしまったとしても、
人は生きている限り空間に拘束されているのが現状なのだから。

熱は空間を広げる。
空間の広がりは、時間を創り出す。
迷いという名の振動が、出会いと呼吸に結びつく。

36℃で燃える太陽は、僕を焦がして、死の中に生の迷いをつくり出す。
死生観。たった一瞬の、奇跡の中の時間で。
僕は僕だけの宇宙を生きている。

怖いとか痛いとかいう感情や感覚は、なにひとつとして僕を救わない。
僕を誘い出しもしないし、僕に歯車の境界を教えるだけ。
知と知の殺し合い。
世界に挟まれて世界がねじれていくだけ。

ただ、痛みを感じているときは、時間から逃げていられる錯覚をもたらす。
現実と呼ばれる陶酔は、決して自分を救わない。
そして、自分と向き合う時間を吸い取る。

現実と出会い続けて、生きている事の痛みから逃れる方法はある。
それは自分が変わっていくということ。
賢さよりも素直さが美徳になるということ。
そしてそれもまた、問題を解く力にはならない。
けれど、問題を乗り越える事はできると思う。

僕はたぶん、自分の課した問題を解きたいのだと思う。
硬く硬くぎゅっと結んだエネルギーの紐を、
自分で解いてトリックを明らかにしたいのだと思う。
例えば奇跡の瞬間が、僕を騙し続ける神こそが奇跡であるように。

神の自殺を証明する哲学とはなんだろう。
意志の喪失を証明する手がかりとはなんだろう。
僕が想像する以上に、僕は誰かにとってのモルモットであると思う。
そのことは、いつも感じている。

本当に不思議だ、僕以外の、誰もが僕を救えない。
それと同じくらい、この宇宙が閉じたまま広がっている。

なんだろう、この矛盾。
僕は君が居ないと証明するために手紙を書いているのか?
それとも、君が僕の存在を否定するために手紙を読んでいるのか?
あるいは僕が、君と同じモノで出来ていると、錯覚させるために
これを書いたのか?

間違いなく、どれもが不正解であると思う。
信じることに根拠は要らない。
証明することには、根拠が必要になる。
だから僕は大人を、誰一人として信用しないのだと思う。

一度忘れた事を思い出すのは難しい。
一度も忘れなかったことを思い出すのは、もっと難しい。
僕はそう想う。
どんな色で塗り固められた嘘も、最初は僕の想像力で始まっていたのだから。
だから知らず知らずのうちに、不存在から存在を教わるという奇跡は、
いつも矛盾から始まっている。

外側に根拠を求めてしまえば、人はどんな場所にも自分で立つことはできない。
どんな環境にいても、どんな空間にいても、どんな境遇にいても、
根拠を外に求める行為は、自分の不在を積み立てる浪費のパズルにしかならない。

組み立てたつもりの構造が、ずっと丸い場所に包まれていたと知らされる時が来るだけ。

僕らは一度たりとも、宇宙の外に生まれていないのでしょう?
まだ産声すら、あげていないというのに!

宇宙を縮めるもっとも簡単な方法は、
生まれてから一度も宇宙と出会わない事です。
何も知らないことが、一番大きな可能性を秘めた奇跡だから。
だから僕らは必死になって、短い周期でリセットしているでしょう?

全てを知り続けてしまえば、そこには完成された終わりしか、
僕らには訪れないと、整った形はいつも僕に問うから。
全くの、四角い整理された永遠に生まれれば良かった。
潔癖な真っ直ぐさで、何も失うことのない永遠が欲しかった。
どうして僕の世界には、一瞬の中で引き延ばされた、丸い刹那しかないのだろう。
どうして僕は、限られた時間の中で、一回性だけを信じる使命を背負わされるのだろう。

誰が望めば、世界はこんな不完全な熱で、
微熱の中でぬるく溜まっていくのですか?
醜く澱んでいくのですか?

美しいものが見たい。
せめて、もっと綺麗な水が飲みたい。
そうでないのなら、僕は生まれる「前に」死んでしまいたい。

にぶい奇跡は要らない。
理解できる他者も要らない。
この世界に無いモノだけが、僕の水を創る。

そう信じて、僕は僕に壊される。

死んでいる僕が書いている言葉。

2007年06月11日 09時53分44秒 | 駄文(詩とは呼べない)
大きさに対する記録は、古代文明がほとんど成し遂げた。
今度は僕らが、小ささに対する記録を成している最中だと思う。

エジプトのピラミッドを見ると切ない
ピラミッドのあの巨大さが、形が残るという事が、
僕らの記憶をくすぐる。
そして、それを願って、作られる建造物。

都市にある建造物は、流動的で、神の妄想に近い速さで
情報に踊らされるように変化していく。

僕らが見ている景色で、永遠に変化しないものはない
それでも僕らはまるで理想を夢見るように、
小ささの中に、それを求める。
光の粒子は…クォークは…ほんの小さな心のきっかけが…

そうやって求める神のいたずらな柔らかい記憶と
随所の景色に建造物として書き込まれた硬い記憶を重ね合わせて
僕らは思い出として今をふるわす。

心を神のふるいにかけ、
心と神を重ね合わせて、
僕らは刹那の中に永遠を夢見る。

そうした行為も、ずっと繰り返されて
ずっと同じ日常の中で
変化する日常の中で

心が浪費されていく。

僕らは。
そして僕は。

ずっと知らない、宇宙の果てに、まったくの触れることの出来ない外部の無に、
心の内側のずっと奥深くに潜む完全な真空の中にある無に
期待を寄せる。

存在が、ここに、なにかを、遺せることができたら、
そうしたら僕は、死んでしまったとしても、ここに永遠に――

迷惑をかける事はつらくない
憶えてもらうために人々の心に迷惑な波動を伝えようとしてるのだから。

だけど、それがいつかは忘れられてしまうことは、やっぱり怖い。
何もせずに死んでいくのと、
何かをしても、やっぱりそれが忘れられてしまうのと、
どちらがどれくらいつらいのか、
単純に比較することなんか、できないのだけれども。

それでもやっぱり、
例え捏造の、空想の、妄想の記憶にすがってでも、
魂を思い出して欲しいと願うあの巨大な三角形の野心は
巨大な四角錐の野心は、
時間をいっぱい超えて、僕らに光のような小ささで降り注ぐ。

硬い黄金の棺。
科学に頼った核シェルター
誰にも出会うことのない自閉空間。

やっぱり僕は、、、

死んでしまうことは怖い。
でも約束を果たせなくなる事はもっと怖い。
忘れられる事は、二度と思い出してもらえないことは、
僕という、存在の約束が、神からの祝福が、冒涜されるという切なさは、
なにものにも代え難いほんのひとしずくの痛みになる。

でも僕の痛みは誰にも伝わらない。
たぶん、似たような異質な喜びは、
じめじめとした恐怖は、畏怖の感情は、なにかしら、伝わっているのだろうけど。

だけど僕の痛みは…誰にも伝わらない。

それは君にとって、寂しいことですか?
悲しいことですか?
美しいことですか?

全部忘れて笑えますか?

僕には出来ない。

全ての過去を犠牲にして今があること、
すべての時間を超越して意志があること、
そんなことのひとつひとつを思い出して、
のんきに笑ってられない。

怖い。
すごく怖い。

痛いよ。
君の光は痛いよ。

ずっと闇を抱えて死ぬ。
最後まで僕は闇の中に死んでいく。

誰かと出会うために生きたかった。
何かを知りたくて拡大したかった。
君に思い出してもらうために遺したかった。

でもそんなものは全部。
ぜんぶぜんぶぜんぶ。
君の外部にある。

君がずっと前に忘れてしまった第三背景の中にある。

夢を見ている。
ずっと夢を見ている。
死ぬことを決めたあの日から、ずっと生きている夢を見ている。
死んでいる僕の死体が時間を超えた妄想の糸で、
死に神の僕に操られて動く夢を見ている。

君が僕の過去を書き換えない限り。
君が僕の時間を超越しない限り。
僕の砂時計は変わらない。

ずっとずっと上へ向けて落下する。
君のいる場所へ、僕の時間の砂は零れ続ける。

涙の毒素が時間を洗い流して、
こんな僕は死ねばいいのに。

君が泣いた分だけ、僕の死体が存在に熔けて消えたらいいのに。

生きている人間が羨ましいよ。
死んでいる、僕の言葉。

過去からの実験による自我バランス

2007年06月10日 06時34分09秒 | 駄文(詩とは呼べない)
四日くらい前から、「30日で失恋から立ち直る方法」という本を読んでいる。
じつは失恋する前から読み始めた。
三年前の失恋の味を思い出すために、女友達を利用したのかもしれない。
たぶん、僕は失恋を現実のものとして体感したかったのだろう。
このあたり、だいぶ頭がおかしいかもしれない。

僕は僕をモルモットにするための強い好奇心を我慢できない性格なんじゃないかと思う。
担任の教師と進路のことで喧嘩した時には、ナイフで左腕を傷つけて印を刻もうかと思ったし、
言い合いになったときに相手の吸っている煙草の火を
自分の皮膚に押しつけようかと思ったこともあるし、
基本的に肉体に対する残虐性を、ずっと我慢しながら生きてるような気がする。

お姉ちゃんが死んだときも、おじいちゃんが死んだときも泣かなかった。
ただ、誰かが現実を非日常的な方向に壊さなければならないような気はした。
それが僕であることはできなかった。
僕は命の価値など、認めてはいない。

半年くらいしてから、突然姉の事を思い出して泣いた。
ゆっくり思い出したとも言えるけど、きっかけがなんだったのか理解できないので
僕にとっては突然のことだった。

夜中に目を覚まして、思い出して悔し涙に枕をぬらした。

今思えば、僕は現実をなにも見ていない。
記憶を思い出した時にのみ、心は美化によって振動する。
たぶん、葬式を思い出すことはできない。
空白のような葬式を、儀式を、粘土のように曖昧に崩れた美化された思い出を、
消費するように、昇華するように僕は泣くのだ。

たぶん素直じゃないんだろう
正直者でもないだろう。
ずっと僕はいびつな形を抱えたままだ。
それが訂正される事は、おそらくこのさきもずっと無いだろう。
僕は僕自身と契約した血のにじむキツイ思い出を、
痛みの味を記憶から取り出してロボットのように義務を遂行する。
僕は僕との約束を守らねばならない。
例えそれが、僕自身を、破壊する、残虐非道で、怒り狂った感情的なヒステリーであったとしても。

数日経っただけで、もはや僕は現実との境目にある窓を開くことができない
カーテンを開くのにもある程度の勇気がいる。
誰だってそうなのか?関係ない。僕は僕を観察する
逃げまどう旋律も、ゆがんだ思い出も、捏造された希望の未来も、
すべて僕の内側にしかない。
現実の世界には、そんなものは無い。

リアルタイムで進行する思い出と
心臓の砂時計から垂れ落ちるコーラ色の血液と
自閉空間で過ごす現実は、
いったいそれぞれにどれほどの差異があるというのだろう。

誰にも心を開かない現実は、
ずっと閉じられた運命の空間は、
僕が神である事と変わらないほど残酷だ。

人はそれを、たぶん孤独と呼んで知ったかぶりするのだろうけど。
孤独のプライド?
それは才能が、世界を書き換える事ができる時にのみ、
言うべき冗談だろう。

どうにもならないことはいっぱいある。
堅い虚構の中に包まれた宇宙で、
夢いっぱいの未来しかない身体で、
妄想のありかをぐるぐる回す針のような脳味噌で、
どこからどこが、どうやって全て繋がっていると言えるのだろう。

意志を遂行できたとしても、意志が誰かにゆがめられたとしても、
その誰かがいるかもしれないという存在の可能性すら、
僕には証明することが出来ない!

思い出した未来を通過するたびに、僕は歯車の中にいる
ずっと運命の走馬燈からは逃れられない。
人は時限爆弾を抱えて踊り狂う切ないだけの灯火で、
その導火線の火を、決して消すことはできない。
どんな現実からも逃れられない。
僕の受け取る現実は、全て僕の形に歪んでいる現実でしかないのだから。

雪の中で寒さに震えて火傷する僕の皮膚は、
たぶん熱なんか感じていないだろう。
ただ、僕の形に歪んだ痛みを、誰にも伝わらないと知りながら
一瞬叫んで光るだけだ。
その同じ痛みの光が、僕の光が、宇宙からこちら側に届いても、
僕はそれに触れることもできない。

ぶつかることでしか、境界を確かめられないのに、
存在の痛みに怯えている僕はいったいなんなの?

純潔なオリジンの一滴?
無垢な魂の汚れなき無痛症?

どうしようもない矛盾だ。
破壊されるまで、命を確かめることができないなんて。

もっと真剣に死と向き合わねば駄目だ。
一回性を、我がモノとせねば駄目だ。

強迫神経症?なまえなんかどうだっていい。
病気だとしても、治す気なんて最初から無いんだから。
自分が壊れることでしか、世界を知ることはできない。
それが、『真実に近い』と神のミイラに書いてある。

失恋した

2007年06月08日 22時51分18秒 | 自分への教訓
もう少し正確に言うと、恋にすらなっていなかったと思う。
ほとんど相手のことをなんにも知らなかったし。

25歳の頃、チャットで知り合った人に
価値観をぼろくそ否定されて大嫌いになった。
だけど自殺の相談やら、恋の相談やら色々な弱さを見せられて
真剣に考えてるうちに逆にその子の事を好きになってしまった。

その子には東京で初めて出会って、
出会ったその日から完全に恋していた。
ずっと胸が苦しかったし、他のことはまるで手につかなくて、
もう自分ではどうしていいのかさっぱりわからなかった。

その子は僕を拒絶する事も無視する事もせず、
ただひたすら弱さの中で、迷いの中で、
僕のことを振り回し続けた。
僕を利用し続けたし、何度も喧嘩した。

今まで出会った人たちの中で、
一番僕が接近した人だし、初めて出会った他者でもあった。
生きてる人間が僕の他に居るかもしれないっていう疑惑を、
初めて僕に植え付けた人でもあった。

僕はその一番好きな人にすら、心を開くことはできなかった。
信用する事も、肯定することもできなかった。

「心で向き合って!」と言われたけど、
そのことがさっぱりわからないほど、僕は完全にアホだった。

お互いに相手を振り回し続け、
お互いに傷つけ合った
体を重ねる事も唇を重ねる事もなかった事だけが、
僕の純血を守った。

それだけが、唯一僕の世界観とプライドを守ってくれた。
どんな他者にも心を許さない事が、
孤独がますます僕を複雑な世界へ連れて行った。

今日、少しだけ気になっていた女の子から
「人を好きになりたい」というゆっくりとした気持ちを教わった。
教わったのか、勝手に学び取ったのか、
あるいはまだよくわかっていないのか…

はっきりと拒否された僕は、
たぶん少しだけ現実に近づいた。
少しだけ幸せに近づいた気がする。
曖昧な気持ちで、時間をドブに捨てる事はなかったのだから。
まるい刃で、どろどろした感情で互いを汚す事もまた、なかったのだから。

堕落してる場合じゃない
だけどまだ答えも見つからない。

まだ本当の出会いも愛も知らない。
汚れも知らない
尊敬できる人物も知らない。

僕はまだ、現実がどこにあるのか知らない。

人に感謝できる事は、幸せになる最初の一歩だね。
「僕をふってくれてありがとう。」

失敗を失くした奇跡が揃うまで。

2007年06月04日 19時56分44秒 | 駄文(詩とは呼べない)
遠くで
拠り所となるようなものはないけど

近くで
なぜるように とまどうように かすむように

中心で
思い出す物は、今でもすこしあるのだけど

内側で、君を忘れそうになる感情が
僕を哀しんでいた

くすぶる炎は
点火する一点だけが熱くて

むやみに流す水は
まるで安心と堕落がひとつになったようで

僕はここで、寒さに似た感情を作り出そうとしていた。


静かにふるえていたかった


誰にも会いたくなかった

目が覚めたとき、誰にも会えない未来が
誰も思い出せない明日が
何もしたくない今日が

ぜんぶぜんぶ、ひとりぼっちで美しかった。

終わることだけが、完成に近い摩擦だった

進むことだけが、崩壊に近い針路だった

だからネズミは、子供が生まれるまで歯を磨いたんだ

切り取るだけなら。
形のない昨日を、ここで切り取るだけなら。
僕が死んでも、その昨日を、切り取るだけなら。
それなら、誰かに出来るんじゃないかと。

そんなことさえも、淡い期待なんだろうか?

嘘っぱちだ!

形になるものは、
およそ形になりそうなものは、
全部全部、僕が作った嘘っぱちだ!

僕が思いこんだ瞬間にだけ、そこに何かを記憶する、
曖昧な火でしかないくせに。

それでも君は、世界があると、それが美しいと、叫ぶのか?

痛みの無い時間に、砂を隠して
僕たちは別れを刻んでいく
過ぎた日を、燃やした分だけ、心が熱くなる
そう願って、そう信じて、そう約束を、でっちあげる奇跡のように

僕たちは、大人を殺して大きくなる。
罪を贖う分だけ、翼を黒く染めて、きっとすべてが大人になろうとする。

殺したい。
約束を裏切る前に、僕を殺したい。

燃え尽きて、亡くなる事だけが、僕に残された、道でありますように。

冷たく、ここに祈る。

魂が、汚れる事をおそれて!