嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

マルチポスト(mixi日記より)

2015年01月16日 23時51分58秒 | Weblog
久しぶりにmixiにログインして
みんな何してるんかなー?
とマイミク巡りなどしてみたら
ほとんどの人が最終ログインは3日以上となっていた。
もうmixiって全然流行ってないよね?
今は様々なソーシャルソフトがあるけど
みんな一体どこで活動してるんでしょうかね?

自分もアカウントだけは色々あるけど
あんまりメインで使っているものもないし
昔のようにICQやmessengerやskypeで
友達のオンライン状態を確認するようなことも無くなった。
そもそも、よほどの作業がない限りパソコンの前に座ることすらも無くなった。

毎晩パソコンの前に向かって
キーボードをガチャガチャ打って
色んな友達とチャットしまくっていた頃が懐かしい。

タッチパネル操作に世の中がシフトしてから、
僕は自分の気持ちをコンピューターに打ち込む時間が無くなってしまった。
キーボードが世の中から無くなる時、
僕の創作文も無くなっていく。

不思議な感じがする。
世の中が便利になっていくに従って、
ぼくは僕であることを忘れていく
あの日、真っ白なメモ帳に向かってセカイと対決していた僕はもう居ない。
友人が自殺した時の遺書をmixiで読んでショックを受けた僕もいない。
ぼくは文章を書かなくなってから、僕と出会う時間がない。

テキストの中でしか会えなかったもう一人の僕は、
今はいったいどこにいるんだろうか。

死によって培われていくセカイの尊厳

2013年01月14日 23時23分10秒 | Weblog
我々は【死】を許されている。
僕に尊厳死の自由があるのではない。
「死」によって私達の尊厳が守られている。

私は死ぬことを許されている
僕が自由に死ねるということではない。

私が生きたことによって選びとった罪を
自らの意志だと錯覚する業の炎を
焼きつくすことが許されているということ。

道徳を選ぶことは出来ない。
それでも、罪を選ぶことが出来るのなら。

死は僕たちに許されている。

魂の迷路は、いつも迷うことを許されている。

まさしさんへのオヘンジ

2010年09月04日 21時00分59秒 | Weblog
まさしさん、コメントありがとうございます。
なぜかわかりませんが、読解するのに時間がかかり、
2、3回読み直してようやく意味がわかりました。

親父とお袋のセックスの結果として、
僕という赤ん坊が生まれたって意味だったんすね。

残念ながらというか、なんというか。
小学校の時には、すでに僕たちは性の欲望の海に
無防備な状態で投げ込まれていたと思います。

僕が初めて他人のキスシーンを目撃したのは、
幼稚園の時でした。
同じクラス(クラスって言うんだろうか)の
女の子が男の子にキスしてたんです。
その頃にはすでに、女の子はラブソングを歌っていました。
これはもちろんメディアの影響やなんかで、
実際に内側から発露されたものなのかどうかは、
非常に疑問はあるのですが。

僕がいささか疑問であるのは、
性欲、食欲、睡眠欲、
それぞれを満たそうとすることによってしか、
僕らは何も成し得ないのか?
ということです。

社会からの経済的圧力によって
いわば去勢された状態にあるのが現在の自分の姿であり、
あるいはまた、そのような社会圧力が無かったとしても、
僕は僕自身の考え方の鉄格子によって
性に対する鍵をかけた人間です。

ただ、子孫を残すことだけを目的意識とするのであれば、
そこに特別な教育は必要無いと思うし、
子供達がよく質問する
「どうして勉強しなくちゃいけないの?」
という問いにまっすぐ答えることはできません。

また、進化のメカニズムの方に目を向けるならば、
原生生物の三すくみ状態が崩れて
今のような動物の進化があるのだという説もありますね。

しかし僕はそのようなものとはまったく異なる水準で、
哲学的な意味を満たそうとしなければならないと考えます。
問をたてるのが哲学だとすれば、
もしかしたら全く違う学問のジャンルになるのかもしれませんが。
僕はもっと、抽象的で万能な水準で、
いわば言葉のクスリのような形で、
どうしても、生きることに意味を与えないといけない時代が来ているような
そんな観念に駆られてしまうのです。

すべてが僕自身の個人的な懐疑と
コンプレックスの発露でしかないのならば、
単純に僕が死ねば解決する程度の問題です。
しかし、僕は僕が抱えている問題は、
現代の若者に通じる文化的問題、
共通の社会意識の問題のような気がするのです。
それらを解決せねば、今は僕の心が満たされないのです。

もし、暴力で問題が解決するのであれば、
社会の問題なんて戦争とレイプで弱肉強食にすればいいんです。
「弱い生き物は死ぬ。」ただそれだけの単純な原理でいいのです。
だけど僕らは秩序の中に生きている。
そしてその秩序のシステムは、
常に僕らを拘束しながらも、前へ歩かせようとする
暴力的性質を持っています。

クマムシという生き物は、
体から水分を排除し、自らを乾燥させることによって、
眠りではなく、仮死状態を作り出すことの出来る
独特な生き物です。
それに比べて、僕たちの生態システムはおそろしく軟弱で、
やはり食べ続け、眠り続け、老化(成長)することからは免れません。
そこに僕は意味を与えたいと思うし、
意味を勝ち取りたいと考えます。
それは一つの生きる価値となりうるものだからです。

長くなってしまいましたが、
>我々は所詮動物なのである。欲望のままに
>行動するのもありなんじゃないかと思う。

と、短く二行にまとめたまさしさんに、
楽観的で前向きな空気を感じて
少しだけ応援する気持ちの僕もまた、
ここにのんびり存在していることを付け加えておきます。

原点回帰のほころび

2010年08月12日 19時32分31秒 | Weblog
世の中の悪意に対して
「見て見ぬフリ」をするか、
「悪意と対抗して自分の正義を貫く」か、
あるいは
「毒を食らわば皿まで。」という構えで
悪意を我がものとし、もっと強い悪意を身につけるか、

また、もっと違う方法として、
「他者の悪意を受け入れずに、迷い続ける」
あるいは、
「全ての他者を許す」
というような様々な方法、構え方があるだろうと思います。

特に、性的な問題に関しては
それがある意味では成人の三大欲求であるところの
「食欲」「性欲」「睡眠欲」
の3つに含まれているため、
成長過程においてとてもややこしい問題を含んでいると思います。

では、性欲を否定して、子供の心を守り続ければ、
自分の老化や成長を止められるのでしょうか?

テリトリーの問題として捉えれば、
確かに自分の防衛ラインを必死で守り、
誰にも犯されることのないように、
他の領域にも出かけないように
自分を制御し続ければそれでいいような気もしますが…
つまり、「保守」を堅持するスタイルになるのかな?

僕は世の中の悪意を
自分の潜在的な欲望の種として捉えています。
それを成長させたくないと思い、
「臭いものに蓋をする」ような感じに
現実から目をそらしているのが実情です。
そこで開き直ることができれば、
僕はもっと強欲でアクティブに行動できるのだと思います。

ですが、僕はそう開き直ることができません。

いわばこの問題には、生を肯定できない自分と
性を肯定できない子供の心が燻っていることに原因があります。

たまにそういう状況で居る僕に対して、
「童貞を捨てろ」とか「風俗へ行け」とか
なかば強制的に現実の渦へ飛び込ませることを提案する人が居ますが、
僕はそのような提案に対しては「暴力」に近い悪質さを感じて
異議を唱えています。

僕はこの問題の本質は
マクロ経済と人口爆発の歪みが関係していると考えています。
右肩上がりの成長をし続けることができない資本主義経済圏
地球に閉じ込められて、増え続けるのが許されない人類。

日本はお金をたくさん持ちながらも、
人口の増加が無理に抑制された、ひずんだ国です。
性行為と成長からあぶれた者は、
みずからを檻の中に閉じ込めることでしか、
つまり子供の殻に閉じこもることでしか、
この国に生存できなかった者たちです。

それを僕は政治の責任だとは思っていません。
今は大人のせいだと考えているけれど、
それは僕の子供心の裏返しでしかありません。

無計画に子供を増やし、
【子孫繁栄】と「存続という名の延命措置」しか、
生きる目的を掲げられない哲学の堕落です。

人間の死生観を、もう一度問い直さねばなりません。

世界のゆりかごの中で時の波が出会う。

2010年05月19日 04時26分19秒 | Weblog
100%受け身の、空間時計の中で
生の代理人と死の代理人が出会うことで、
ぐにゃぐにゃとした、がちゃがちゃと死んでいく
成長の土粘土が
ごうごうと揺れる世界のゆりかごの中で
100年程度の生涯を閉じる。
その波動は世界を開くこともあるし、
世界を閉じることもある。

僕の中で死んでゆけ
僕の、成長の魂たち。
世界を開くために、今はただ、閉じてゆけばいいのだ。

荒れ狂う、ビッグクランチのように。

友達を殺したいとは思わないが、邪魔だとは感じている。

2008年05月26日 23時19分11秒 | Weblog
あまりにも、友達が多いことに悩んでいる。
もちろん、書くまでも無いことだけど、
僕にとって友達だったものが、もはや単なる空語でしか無くなってきているのだと思う。
友達と呼ぶにふさわしい人たちはたくさん居る。
親友と呼べる人も居る。
しかしもはや、それは過去の走馬燈の一つや、優しい思い出にしかならないだろう。

大学の友達も、高校の友達も、専門校の友達とも
十分にうまくやれている気がする。
くだらない会話、とりとめもない会話、感情的な会話、冷静な会話、
世間話、表面的なジョーク、少しだけの気遣い、わざと冷たいフリ。
聞き流す会話、受け流す会話、大切な相談、優しい友達、
楽しい会話、その場だけの会話、少しも動じない会話、
取り乱した会話、はしゃいだ会話…

もはや僕には、意思疎通できるような人は居ない。
それは幸か不幸か、僕が仮面を手に入れようとしている現在進行形の、大人びた嘘。

信じがたいことに、僕は八方美人であろうとしている
あるいは、八方美人でありたいと願いはじめている。

そしてたぶん、それと同じくらい、自分の事をどうでもいいと思い始めている。


何が流れ込んできたのだろう。
何が変わってきたのだろう
僕は僕以外に、何か大切なものが、少しでもあっただろうか?

確信の持てない、わずかばかりの思いはある。
自分に伺いを立てるような自信の無さで、
少しだけ、思い当たるフシはある。

たぶん、僕は人を好きになり始めているのだと思う。
そしてその濃度のアンバランスさに連れて、自分を失っていく。

誰にも言いたくない。
当の本人にさえ、好きだと言いたくない。
言ってしまえば、すべて嘘になって崩れ去るような自信がある。

だから僕は、すべてから遠ざかって、安全な位置で
自分らしい過去を築こうとするのだろうか。
安全な未来の目標を定めて、精一杯、今が崩されないように…

近いうちに、危険域に推移するだろうと思う。
自分と他者との境界線が崩れていくか、
僕の存在が崩れていく危機が訪れるだろう。

でもそのことを、僕はまだ悲しいと感じていない。
哀しさを、僕はうまく思い出す事ができていない。
実感の湧かない奇跡の中にいる。
遠くから眺めた子供の頃の自分の立っている扉が見える。
その視線に答えるために、精一杯、僕は僕のままであろうとする。

約束を、果たさねばならない。

ずっと昔に膨らまして閉じた約束を、
そこに世界の名前をつけねばならない。

今というありもしない奇跡の中で
僕は、僕の過去だけを見ている。

失礼さについての考察と迷路。

2008年04月22日 21時10分09秒 | Weblog
もともと、僕が指摘したのは
mizukiさんの失礼さについての事です。
言い過ぎじゃないか?

と問いかけたはずです。

それに対して君は、「王様の耳はロバの耳~!」
に関する言説を持ち出している。
まぁ、それは僕のblogの影響なのかもしれませんが…

僕が指摘した失礼さについて、
もう一度指摘します。

僕は数年前、確かに恋をしていました。
その時の複雑な葛藤は、
今でも僕の中で未解決のままです。
その女性とは、現実の中できちんと会って交流していますし、
架空の想いでもマスターベーションでもありません。
友達で居て欲しいという相手の思いに応えようとした。
でも僕には無理だった。
異性として見ていた。
ただ、それは一方的な片思いにしかならなかった。
ほんのわずかに、両思いになれそうな揺らぎがあった。
彼女自身にも、迷いはあったと思う。
でも僕たちは、結局何度も喧嘩したのちに、
お互いの弱さを吐露しあって離れる道を選んだ。

僕には。
愛する道も、無視する道も、選ぶ事はできなかった。
ただその中間で、存在の激しさがますます複雑化していった。

好きになった女性に対して、
結局僕は自分の価値観を押し付ける事しかできなかった。
それは弱さです。
だけど、それが自慰でない事くらいは、
アホすぎる僕にだってわかります。

少なくとも僕は、自分の想いを秘密にはしなかった。
何度も彼女に伝えた。
そしてそのたびに喧嘩になった。
価値観の衝突において、僕と彼女は離れる道を選んだ。
彼女は結婚した。僕は記憶の中に閉じこもった。
現実と向き合う事を恐れた。

あれから何年も経って、ようやく僕は現実を少しだけ見ている。
まだきちんと見ることができていないけれど、
それでも社会生活の基礎を築こうとしている。

その僕に対して、
mizukiさんのコメントは非常に酷いし、失礼です。

僕が元々指摘したかったのは、
この問題です。

先に書いた二つの問題は、
この問題にわずかながら繋がっていますけれど、
本質的に全然違います。

少しだけ、返事を待ちます。
ただ、対応については、今までと多少異なるものになるかもしれません。

君を巻き込んで起こる僕という運動

2008年03月12日 10時44分29秒 | Weblog
僕は自分でかなり偏った考え方の持ち主であると自覚しているし
それが欠点だとは思っていません。
自分の弱さも、情けなさも、すでに認めて開き直ってしまっているし
それを幾度となく、指摘し、僕を変えようとしてくれた人たちも居ました。
そのたびに、僕は自分を考え直しながら、
相手を批判してそれは今でも僕の中で複雑な葛藤の運動を繰り返して
迷いを生じさせているんだと思います。

ただ、僕は君の客観的な分析力は、
今後の僕自身に必要なものになるのではないかと考え、
それを取り入れようと今でも四苦八苦して
再考を続けています。

君から僕へは、ある種の尊敬の念に似た好意を感じるし、
それは今でも感じている。
そういう人に出会えた事は、僕にとってとても貴重な体験だし、
僕は理論専攻型の人間も、全然嫌いじゃない。
大事にして欲しい個性だと思います。

君と真剣な対話を続けられた事は
自分にとって誇らしい事だと思うし、
たとえ時々は弱さで暴走する事があっても
それも含めて正直なやりとりだったのではないかと思います。

少なくとも、その大半が嘘になってしまうような
いい加減なものではなかった。
でっちあげでも妄想でもなく、
僕らは自分と対話していたんだと思います。

僕が似たような対話を通して、自分の負けを感じた時、
僕は相手を呪いそうな弱さに打ちのめされました。
相手のために良かれと思ってやったことは、
結局単なる押しつけだったんじゃないかと、
今でも不安になる事はあります。

でも、僕は彼女の幸せそうな電話の声を聞いて
単純にそれを言い捨ててしまえるようなだけのものではないと思う。
たぶん、すべての過去は今に繋がっていて、
自分の過去を肯定できるような強さを身につける事が
誰かの言っていた自己愛に繋がるんだろうな、とぼんやり夢想します。

>言い捨ててしまえるようなだけのもの
ってずいぶん変な言い方のようにも感じるけど、
これも個性(笑)

テキストと向き合える事は楽しい。
でもやっぱりその楽しさは苦しさにも繋がっている。
僕はテクストの快楽がなんであるか、
そんなにハッキリと感じ取る事はできないけれど
快楽の知的媒体であるというバルトの主張も、
なんだか少し面白いな、と思います。
それは、自分と向き合う、心を追い求めて必死に感情をぶつけ合うような
特別な行為であったとしても、
一人の孤独な構造をも包含してしまうという両義性。
誰と向き合うのか、何と向き合っているのか、
その宛先がぐるぐる回転したとしても、
やっぱり僕らはテキストを楽しむ事ができるじゃないか。
という囁きにも似た、声を感じるからです。

わかりづらいかな。
でも、感じてもらえるといいな、と願ったりします。
いやもちろん、吐き気を感じた時は、
それは自己への押しつけにも近いんだと思うけどさ。
でも、テキストは自分の思い込んだ力でしか、自分を傷つけない。
だからとても優しい性質を含んでいると思うよ。

自殺に関しては、もともとが自分の問題であるし、
それを君に考えさせたのは、ちと、多少申し訳ないかな?
という気もする。でも、少なくとも僕はすべての悩みを
自分の力で悩み抜いて、答えを探し続けて今に繋いでいる。
答えがないと迷い続ける僕たちのために、僕は、
未来に答えを用意している。
それに期待してくれる人が居るというのは、
とても面白い孤独な構造だと思うのです。
だって僕らはもう、ずいぶんと小さい頃から、自殺という単語を聞かされて育った。
そんなもの、どこ吹く風で、未来に対して期待いっぱいで、
いつも明日を夢見てた。
人の死を理解しないままで、ぼんやりと中空に留め置きながら、
毎日幽霊とも、夢とも、科学とも会話していられたんだ。
それは、とてもステキに楽しい歪みじゃないかい?
ずっとすべてが孤独な妄想に過ぎないとしても、
それがなにがしかの未来の答えに繋がってるって事は、
自分にとって、ずいぶんと楽しいことじゃないかい?
僕は、そんな気がして、今を大事にしたいんだよ。
悩んで落ち込んで凹んでいる、今でさえ、
突然の来訪者にドキっとする、心でさえ、
全部ぜんぶ、巨大な自分という、マクロの運動に繋がっている、
そう思うことが、新しい選択肢を、呼び込んでくるから。

現実が、僕を呼び込んでくる。
少し、挨拶してくるよ。

なけなしの、ほんのちょこっとの空元気で、
また一つ、僕らは踏み出したんだ、
それを忘れないように、僕たちの心に、留め置きたいと思う。

また!

汚れが通過するトンネルを発見した。

2008年02月29日 03時54分33秒 | Weblog
業者の書き込み見て、なんかイライラするうちは、
結局僕もまだまだ人間わかってないんだな、って感じがする。
まぁ、仕方ないんだろうけど。
結局俺の中にも、許し難いものとかいっぱいあって、
ある意味では、2ちゃんのひろゆきとか、
ライブドアのホリエモンみたいな感じに、
黒い闇金融の網を自分の道具のように、
ビジネスパートナーのように、
自覚して利用できるようになれば、
それなりにいいのかもわからんけど、
僕はどうもそういう部分に対して何かしら敏感な怒りを感じるようだ。
あんまし接触したくない。
けれど、そこにずっと目を伏せて、
くさい物に蓋をするように、
やり過ごして逃げることは、いつかできなくなるのかもしれないな。
そういう時、結局僕は正しさの観念から、
道徳の折から、まったく抜け出す事は出来ていないんだな、って感じる。

どうしてホリエモン事件で、
ブラックマネーについての話が表に出てこないのか、
なんか最近なんとなくわかるような気がする。

社会が精神的に忌避してるもの、
潜在的に隠しているもの、
それは強欲な何かを規正するシステムのうねりで、
僕は社会から排除される事を恐れて、
そっちのゾーンに近づかないように逃げているんだと思う。

女性が子供を堕ろした事を積極的に誰かに打ち明ける事ができないのも、
こういった怯えの精神と、どこか繋がっているように思う。
私は何かから、許されない。
そういう後ろめたさを背負っているんだと思う。

アナログな時代に見えていなかった社会構造が、
デジタル化、IT化、構造化のうねりによって
パズルのキューブを回すように見えてきた。
今までずっと、僕はキューブの数色だけを見てきたんだろうか。
キューブの六面に無い色は何色なんだろう。
欠け落ちた、キューブに採用されなかった色は何色なんだろう。
そしてまた、CUBEの表に見えていない六面は
どうなっているのだろう。

僕は、強欲さを許せないからここにいるんだろうか、
僕は、強欲さを肯定できないからここにいるんだろうか。
僕が潜在的に隠して目を瞑ってきたものはなんだろう。
どうして僕たちは戦争から遠ざかろうとするのだろう。
どうして僕たちは、生を肯定する事すらできずに、
負け犬のように腐っていくのだろう。

どうして僕は、女性と交わる道よりも、
自分が自殺する道を選ぶのだろう。
こわい。
自分が何者か、知ってしまうのが怖い。
未来が怖いんじゃなくて、
自分の正体を知るのが怖い。

汚れを引き受けて大人になるのが怖い。
汚れから、子供を護る役を引き受けるのも怖い。
全部怖い。

僕はこんなところで何をしているんだろう

僕がどうして子供に何かを懇願したのか、
なんだかわかってきたような気がする。
今、少しだけ未来が見えた。
少しだけ、過去が見えた。
僕が自殺した理由が見えた。
なんで僕が、自殺を大切にしているのか見えた。
あの時僕は、飛び降りるべきだった。
今日、こんな簡単な事に気付くまで、僕は何も見ていなかった。

「僕は【子供】を『殺したい』!」

今、ようやくわかった。
僕は、11歳の子供を殺さないと、生きられない。
だから、僕はここで自殺を選んでいる。
僕は、子供を殺さないと大人になれない。

なんてことだ。
俺は気が狂っている。
こんな簡単な間違いにさえ、僕は気付いていなかった。

客観性に触れることのおそろしさがわかった。
KEI、君の心象風景に、正直に告白するよ。
君を許すと、僕は気が狂う。

はじめてだ。
こんなテキストがあったなんて。
今まで見たこともない選択肢だった。

KEI、君が僕を傷つけた事を、僕に謝るよ。
そして僕は、一度だけ、
アルエから生を許してもらった。
醜く汚く、みすぼらしい僕が、生きる事を許してもらった事がある。

KEI、いまここに、君の景色に、その札を使うよ。
KEI、いいか、よく聞け。
言い終わる、最後までよく聞け。

これは暴力だ。

「アルエの 名 に お い て 命ずる、最後まで 生 き ろ」

たぶん、このままだと俺は死ぬ。

デッドリンクの思い出

2007年12月09日 18時15分42秒 | Weblog
久しぶりにBLOGをいくつか渡った。
デッドリンクが多い事になんとなく情動をくすぐられるような、
淡く悲しいような気分になる。

自分の関わったコミュニティをいくつか潰してきた記憶はあるが
廃墟に残るわずかなシミを観察するような不思議な情景観察者の気分でいる。

更新を続けてるblogもあるのは少しホッとする。
それが憎たらしい人であるとか、
ほとんど接点の無い人であるとか、そういうことには関わりなく。

思えばブログを開設する前からわかっていたことだ。
会った事も無いネットの向こう側の人からいつぞや聞いたかすかな言葉を手がかりにしているから。

「本当に話したい言葉を持っている人は少ない。」
言っていたのはmott_ragedさんだったかな?
いつぞや漫画喫茶の一室から画面越しに話しかけたら、僕の事を憶えていなかった。

「…ですよね?」
「そうだけど、あなたは誰?」

死ぬ前に、家族からこう言われることを想像して少しウゾゾっとする。
あるいは、言うのは僕の役目なのか。

ほんの少しの切れる意識の前に、名前を呼ばれる人でありたいと思う事はよくある。
どんなに相手を酷く傷つけても、最後まで憶えていて欲しいと願ってしまう独りの悲しさはなんなのか。
誰にも心を許さない事が、誰かの何かを守るわけではないけど
自分らしくありたいと願わずには居られないから、
今日も僕は何かを諦めていく。

少しばかりの熱が形を変えて
今日も世界は美しさを忘れていく
沸騰する宇宙の中で、熔けないほど冷たい存在でありたい。
強慾も神名も呑み干して、
ただ、誰も知らないところへ行きたい。

少なくなったデッドリンクを数えて、
昨日の僕を、ただ失われた城壁に刻んでいく
なにかを読んでくれる人は居ないから、
僕の遺書は誰にも届かない。

くだらない傷ばかりをべらぼうに刻んだ。
つまらない人生の中で、墓だけをくりかえし作った。

なにも生み出す事が出来ずに、ただ僕は世界だけを見ていた。

古い事を思い出した喜びは、
生まれてくる何かに似ている。
ただ終わりを思い出すために、
ただ、最後へと還るために君たちがそこにいるなら、
何も見ないで何かを見ている僕は、
偶然君たちと同じ何かだ。

失われた背景の中に必死に意味を嘯いて、
今日もたちどころに運命は呪われていく

無くなったものだけを数えた。

それだけを、僕はそこで見ていた。

最後まで、僕は死体のままで在りたい。

BLOGやmixiを突然やめる人の心理について考えてる

2007年06月17日 11時33分19秒 | Weblog
言ってることはだいたいわかる…
けど、割り切れない事があるのも事実で

やめますって言ってからやめるなんてのはどう考えてもヘタレだから
そんなもの放置とか無視でいいんじゃね?
という態度も当然と言えば当然なんだけど。

だけど、それだけじゃ済まない何かはあると思ってるし
それってよく僕が考えてるやり方、
小学校のクラスメートではどうか?
というケースパターンなんだけど、
クラスメートがある日突然学校に来なくなったら、
やっぱりその事の責任は無いにしても
加害者意識はあってしかるべきなんじゃないかと思ったりする。

べきと書いておきながら
別に義務でもなんでもないんだけど
少なからず何かを思う事ってのは
無視とは多少なにか違うんじゃないかと淡い期待のような
いや期待って事もないんだけど
なにかそう、割り切れない寂しさの拳みたいなのがあって
その拳で誰かを殴れない以上、
やっぱりそれは僕が立ち去るという事に繋がっていくんじゃないのか?

ということ。

結局は加害者だ被害者だとおおざっぱな二つくらいのグループに
がつッと分けて
そんでまたそこで分けた後で
その分けてしまった事について
分けられた立場から
なんのかんの叫んでみたって
それはいじめ問題で言えば
いじめ側に立った傍観者と同じで
いじめられた側に立った傍観者は、
じゃぁ何にも悪くないし、何にも反省しなくて済むから
僕はいじめられ側の傍観者に立ってみます、
というんじゃ単なる逃避か何かに見えてしまうし

そこで「単なる逃避」と書いてしまった僕も
やっぱり切り捨て側心理で動いてるから加害者みたいなもんだし
ずっとぐるぐる考えたって二つに分けたって三つに分けたって
四つに分けたってどれだけ考えたって
そこに何の気持ちも込められていないのなら、
やっぱりそれは何にもしてない沈黙の加害者って事じゃないかと

自分の罪に怯える。

更新を休止して放置するってやり方はあった。
それはやっぱり真ん中ら変の複雑な感情を産んだ。
それが
「ベストではない、ベターをえらべ」って生き方に
そういうやり方に、近づいていないってことにも
僕の思考は寄っていった。
そしてまた逆に、じゃぁやめないで停止する事が
僕にとってのベターなんじゃないかって、
そんな風に無理に思ってみたりとか。

そしてまた考える
「立ち去る」って行為は、なにかにとって、
誰かにとって、大きなお世話だったり、
おしつけだったり、おせっかりだったりするような、
心理的なアクセスなんでしょうか?

「教えて下さい」
ってタイトルで、なっがい人生の疑問をひたすらぶつけた
広辞苑みたいな本を出せば、
それで読者がなんか答えてくれるんだろうか?
じゃぁそれで僕は偽名や匿名なんかで、
著者不明の状態で本を出した場合、
読者はそこでどうすんのか。
そこで新しい作者に変わるのか。

たぶん、変わらないんだと思う。
思いは通じない。
気持ちは決して伝わらない。
だけど書く事はやめられない。

消えてしまったとしても、
何かを書き続けたとしても、
それで何かを選んだ事にはならない。
決して人を救った事にはならない。
それでも僕はたぶん、書かずには居られないっていう
そういう我慢できなさ、に似た行為じゃないかと思う。

振り上げた拳に、ふるえる指先に、
自分を殴る事のできない勇気に、
言霊が宿っている、
そんな。 気がする

おへんじ?いやもうどうでもいいよ。

2007年03月12日 23時37分10秒 | Weblog
う~ん。
僕も追加の書き込みをしようかと何度も向かい合ったのですが
そのたびにたぶんchokoさんは悩みながら何かを書こうとしてる最中だろう、
と感じてやめたのですよね。

久しぶりに、震えながら文章を読みましたよ。
それが寒さのせいなのか、心の怯えのせいなのかははっきりとはわからないのは
まぁいつものことなのですけれど…。

大丈夫ですよ。
あなたは別に僕を嫌いにならないと思う。
そして僕を嫌いになるのは、結果として、30歳以上の僕がどうなっているのか、
目の前に現実を突きつけられた時でしょう。
それまでの間は、悩みながらも普通にふるまっていることができると思う。
もちろん、複雑な感情と、喜怒哀楽は無くならないのでしょうが。

人と人との対応は、ほんとうに難しいです。
意見の押しつけ、迷惑、そうしたことをいつも考えないといけないし
正直わずらわしいです。
表現を試みる者にとって、本当に、心底言いたいことを言うのが、
何よりも大事なはずなのに…
このキチガイじみた横暴さを前面に押し出す僕でさえ、
心の壁と闘いながら書いている、
書いているというのに…

本当に、書きたいことを書くことができていないんです。
いつも向かうべきところは、相手の居る向こう側ではなく、
僕たちのいる、こちら側なんです。
真っ直ぐに、読んでいる、書いている人を射抜くことの出来る、
ただ、こちら側へ向けて書くべきなんです・・・

BLOG-FRIENDSは、最初から、僕の甘えだったんです。
そしてそれは、僕たちの甘えでもあったんです。
二瓶さんは、本質的には悪くありません。
始まりを思い出せば、いかなる動機であろうとも、
相手の創り出した土俵の上で闘うべきではなかったんですよ。
それでは責任が取れない。
発言にも、表現にも、命がけになることはできない。
BLOG-FRIENDSは、リスクのほとんどを代表者に任せてしまっているから、
それがそもそものあやまちの始まりなんですよ。

だからこそ、あの話し合いには全員に参加して欲しかった。
みんなに、僕の問題を分けたかった。
僕が悩んでいる問題、BFがうまくいかない問題、
完成度が足りていない問題、
正しさがどこにあるか全く想像もつかない世界でも、
表現を試みようと、その動機がそこにあるのなら、
僕たちは同じ場所で話し合うべきだったんです。
今でも僕はそう思っています。
だからこそ、自分の顔に泥を塗りながらも、
あの場所に参加できた。

僕はBLOG-FRIENDSに全てを賭けてはいませんでした。
だからこそ、あの場所で暴れている僕は、
滑稽で、おかしくて、恥ずかしくて、そして愚かしい。
いつも、そこに後悔がつきまとっているからです。

べつに僕は、あの場所でみんながどうなろうと、
君がどう対応しようと、誰がお金を出そうと、本を出そうと、
本当はそんなことどうでもいいのです。
そんなことは、すごくつまらない、目の前に当面だけあるゆめまぼろしのような、
はかなくもろくつまらない微々たるお粗末な問題に過ぎないのだから。
そう、たぶん君が言う、おそまつな問題。

僕はね、書きたいことが書きたいんです。
ただ、書きたいと、思っている、そのことが、書きたいんです。
それを読んで、誰がどうなろうと、知ったこっちゃない。
文章でなくてもいい、音でなくても、絵でなくても、言葉でなくても、
空気でなくても、なんでもいい。
壊れたっていいんです。
腕が無くてもいい。
心臓が、もげたっていいんです。
でも、言いたいことは言いたい。
言いたい!
ただ、言いたいんです。

不可能ですよ。
うん、不可能。
たぶん、君が不可能だと言う。
僕も不可能だというところに、あくびまじりに、ためいきつきながら、
うんうん、無理だね。ニコッと、
うん、そんな感じに、うなづくふりも、間抜けなふりも、
ただどうしようもなく、するでしょうよ。

いいんです、そんなことは。
無理でも。
無茶でも。
無謀でも。
暴挙でも。
企みに似ていても、嘘ばかりの全滅意識でも。

けどね、今、ここで、こうやって、
書いて、書き込んで、訴えて、叫んで、
僕らが、こう、ここで、こうやる、
この、ばかばかしい、
まがまがしい、
この、ぼけかけた、
ぼやけた、
かすんだ、
曇りきった、
気が狂った人を好きになるような、
この、切実な想いを、
どうやって、君は、ここへ、伝えるんです?

やらないんですか?
それを?
あなたは?
きみも?ぼくも?
ただ、あきらめて?

いやなんですよ。

みんな死んでもいい

僕は、自分の弱さを、周り中に飛び散らせて、
迷惑きわまりない、この腐りきった自意識を、
ここで終わりにしたいんですよ。

みんなどうせ、自分のことばっかりが大事でしょ?
僕は違うよ。
自分なんて信じてない。
それゆえに、弱い。

呼吸なんかね、とまったっていいんだよ。
今、全て、思ってることを、ここにぶつけることが、できたなら。
本当に、真実のみを、取り出して、
ここにぎゅって、、、固く、
永遠の間違いとして、刻まれるような、心を、のこすことが、できたなら。
それはね、死んでも掬われるんです。

やりたいことをやって死んだって、
胸張って言えるんですよ。
何歳で死のうが、関係ない。

「君にわかるわけない」←こうやって

こうやって

あきらめて、壁を作って、知らないフリして、
なにもわかんないままで
それで、
それでもいいんですよ。
本当は、なんでもいいんだから。

だけどね、
だめなんですよ
僕だけは、ダメ。
だめなんだ
絶対に許せないんですよ
叫ばないで死んでいくなんて
怖くて怖くて。
だめ。無理。やだ。
やだやだやだやだやだ。

邪魔しないで欲しい。
手伝わなくていいんです。
僕の死を、願わなくてもいい。
けど、そこで、壁を作って、理解を諦めて、
私の思いが届きますようにって
他人に目配せしながら、遠慮がちに、
さめた倫理の中で、
ひえきった道徳の中で、

そうやって…
たのしいですか?

僕はキレイじゃない。
そんなこと、誰に言われなくても、わかってる。
純粋な悪意を取り出すことができたら、
きれいじゃなくても、僕を許せるって、解る。

我慢することには、慣れてる。
ずっと貧乏だったから
ただジッと欲望をひた隠しにして、我慢することは、慣れてる。

だけどやだ!
死ぬ前には、我慢せずに、僕の言いたいこと、
全部言いたい。

祈っててよ。
生き残る事じゃなくて、
僕が、思ってることの全てを、ここに、吐き出せる日を。

BLOG FRIENDSについて考えたこと

2006年11月27日 19時17分20秒 | Weblog
結局僕はあの低俗な同人誌の存在を許すことができないし、
あの本のために何かを頑張ろうという気はもう全然湧いてこなくなった。

ゲンさんが言ってくれた
>自分が不幸な理由を人のせいにして、人生をフイにするのも簡単な話で、心痛は察するけど前向きに行こう!!
>人生っていうやつぁ、人生を自分の手に取り戻す旅のことをいうんだぜ?(よくわかんねぇなw
という声のかけかたや

jumpさんの言ってくれた
>現状のBF4は頒布すべきではないという考えは変わっていません。
>残った本は関係者それぞれが物理的にも精神的にも「重み」として
>分担して保管すればいいのではないかと思います。
>そしてそれは決して世に出さないという事ではなく
>完全版として必ず再出版をするというモチベーションに繋げていかねばならず
>そのためにもBF5であったりその他のアイデアを出し合って
>痛みを抱えつつ前に進むという道もあったのではないかと考えるからです。

という冷静(?)で(?)個人的な意見については
なかなか有難いと思った。

僕は誰かにブレーキをかけられる事を嫌う。
たぶん、頒布を強行した人たちのそれにも、何か通じるものはあるだろう。
だけど僕はあの複雑な事情について、しっかりとした答えを出すことはできなかった。
また、成功へ向けて舵をきることもできなかった。

僕は僕自身がBF4開始当初からあまり前向きで無かった事を憶えています。
それゆえに、自分の書いた作品に対して、あまり熱を注ぐことができなかった。
それに対して、魔女さんの下書きを読んで泣いたという話には
半分煮えた怒りのようなものが沸き立ってきます。
「冗談じゃない、やめてくれ!」と。

そして編集サイドが確認を怠ったと同時に、
僕自身も確認を怠っているという事実は消せません。

それは元々は責任の話ではないんです。
BLOG FRIENDSに対する熱意の問題だったんです。
だから僕はみんなに対して、複雑な問いを投げかけました。
ずっと心を押し殺すように、意味不明でどん底のような意見を言い続けました。

それに対するみんなの反応はじつに様々でした。
反省して次の一歩を踏み出した人も居れば、
誤解を抱えて立ち往生した人もいるでしょう。
その事自体は、僕がかけた迷惑に対する情動として、理解できる部分ももちろんあります。

けれど僕がなによりも許せないのは、作品の完成度に対するみんなの意識の低さです。
もはや危機的状況だと言ってもいい。
本を作品だと思う人間には、印刷ミスを許容して欲しくない。
利益が作品だと思う人間には、赤字を許容して欲しくない。
文章が作品だと思う人間には、誤字脱字を許容して欲しくない。

君達になんらかのプロ意識があるのなら、
僕の作品としての完成度の低さをまず指摘すべきだったと思う。
掲載された下書き作品も、締め切り寸前に提出された縦書きの文章も、
どちらも完成された作品ではなかった。
それは校正作業を繰り返すたびに洗練されるという意味ではなく、
想いの全てを書き込んだものではなかった。
そしてまた、それらの品質を上げていこうという、僕らの気概が何よりも足りていなかった。
その事に対する怒りを、僕はまだ君達に伝えきっていません。

僕がBF4をもっとも嫌う理由のひとつは、
それが妥協によって作られた連続性の欠片であることを、
僕が知りすぎていることです。

あなたたちにとって、本はどこまでが本で、
そして自分の仕事はどこまでが仕事で、
自分の思いをどこまで反映すれば、
本を作ったと言えるのですか?

僕はこのことに対する、明確な答えをまだ持ち合わせていません。
ハッキリと断言できますが、
僕は文芸や著作権の類で食っていこうという生ぬるい業が、
決意の形で硬質化されていません。

それが読者に対する礼を欠いたことに繋がっているならば、
僕は本を出すべきではない。

また、僕が僕の拘りを徹底して作品を作り上げていくならば、
僕は話し合いなどすべきではない。
一人で、黙々と、自分の世界に没頭して一冊の本を完成させていくべきだと思う。

それゆえに、あの本はやはり君達との共同作業だったと思っています。
あの本は、君達の力が無ければ作られなかった。

僕は君達と歯車を合わせることはできなかった。
それゆえに、自分の力を出し切ることもできなかった。
また、思っている意見の全てを言うことすらできなかった。
それは残念でなりません。
たったひとりの時間でさえ、思ったことの全てを書き留める事ができないのに、
誰かと協力して言葉を紡いでいこうなんて、
もともとおかしな試みだったのかもしれない。

けどまぁ、あの本は理由はどうあれ作られてしまった。
僕がそれを焼かれる事を望もうが祈ろうが、
既に僕の手を離れてしまった本でもある。
なんという無責任さだと批判する考え方もあるだろう。
そして、根本的におかしいと、理解できない人もいるだろう。

けれど、ぼくは、
あのとき読者へ向けて書いた手紙はゴミ箱へ捨てられたと感じた。
僕は何度でも汚い活字の死体を組み立てて、
昔はこれが生きていたんだと説得して回る詐欺師のような事をしていた。
なにひとつ、あそこから新しい言葉は生まれなかった。

もうおしまいなんだよ。
君達は信用できない。
君たちは、言霊を伝える糸にはならない。
僕の怒りに震える握った爪の音も、君たちには聞こえていないだろう。

恨み言?呪いごと?まよいごと?

どんな罵りで蔑んだっていい。
どんな美辞麗句で飾り立ててもいい。
けれど刻んだ心は消えない。
痛みの記憶は、ぬぐってもぬぐっても透明にならない。
どんなに瞳に水をかけても濁った土が沈んでいく。

涙で洗うことはできないんだよ。
僕の汚い嘆きは。

弱さを隠さずに書いたけど、
気持ちはすっきりしないね。

次に僕が君に会ったとき、僕は瞳の奥に何を見るんだろう。
僕は君の前で、どんなことを言うんだろう