嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

本の言葉で現実を考える不便さについて。

2007年12月29日 23時10分23秒 | 駄文(詩とは呼べない)
考える事から遠ざかっている気がする。
友達の彼女の事や、友達の応対の仕方、あるいは自分の友達との接し方について
もごもごと胃薬が蠢くように考えたりするけれど そうしたことは
多くの場合に置いて、考えた事自体がどうにもならない。
次に人に会ったときには、もう別の事を考えているのだから。
もちろん、それはその友達についても言える事で
その友人と会ったときに考える言葉の水準と、
独りの時にごもごもと考えている言葉の水準は、
内面へ潜るという行為の危険さにおいては、
やっぱり同じ水準で接する事はできないから。

簡単に言えば、他人に厳しく自分に甘いという惰性が延々と続いていく
ひとりぼっちのさみしさと似ていて、
それでいて、その不公平さは、
自分の内面へ潜るときの呼吸の止め方と、
相手へ接する時の息継ぎの仕方が異なるから、
やっぱり言葉を、音を、連続音として繋いでいくその習性がある以上、

僕は自分へ接する時と同じように、
他人に向かって接する事はできない。

重要度の問題でもあるけれど、わからなさの問題の方が遙かに大きい。
自分の事は分かる、相手の事は分からない、というような
単純二分割ではないにしろ、
保持している自分と関連性の高い記憶の量と、
相手に関わる記憶の量を比べたときに、
単純に言って、僕は僕に関する記憶がかなり曖昧であったとしても、
その天秤があっという間に傾くほど多く、
僕は自分に関する記憶を保持し続けているのだから。

ただし、それは自分というアイデンティティの確立が、
確固たる形で自分に明示できるほど、
自己自身の証明をデカルト的に提出できるほど、
僕は僕について知っているわけでもないし、
同じように自分について知っているわけでもない。

しかしそのありあまる時間を、僕はきちんと自分のために使ってきたかどうか、
それほど多くの自信は無い。
そもそも自信を量で表すのかどうかよくわからないし、
だいぶ馬鹿げた発想のような気もするけれど。

ただ、どうしても僕は知っている事の記憶を繋ぎ合わせる事で
自分というミクロな存在を世界というマクロな場所へ繋いでいき、
いつも僕が自分と世界の中間に位置していて、
インターフェイスとして不完全に機能している以上、
どこへも開かないし、どこへも閉じてゆけない。

100%の自閉症があったのなら、
僕はきっと、世界について考えない。

いくつかの判断を保留にすることで、
僕は僕について考えているのだろうか.
それとも、僕は僕について明確に決断を下す事によって、
むしろその事について考え続けているのだろうか。
自覚的には後者の方が強いような気もするけれど、
ときおり前者のような気がする事もある。

はたして僕は、おおざっぱにいってあと半年ほどの間に、
みんなと別れる準備ができているんだろうか.
数少ない友人に、僕という命の刻印が、できているんだろうか?
たぶん、僕と一番親しい友人は僕の事を短期間で忘れるだろう。
短時間で忘れる、とまでは言わないにしろ、
家族ほど長くは憶えていないと思う。
僕自身はどうだろうか。
僕は自称親友を名乗る友達の事を、いつも頭の念頭においているだろうか。
「置いていない」
即決即断できるほど、僕は他人の事がどうでもいい人間だと思う。
だけどその事を恥だと感じた事は一度もないんじゃなかろうか。

何年か前、僕は僕の過去の多くの在り方について、
ずいぶんと強く否定されて凹んだ事があった。
そのときそのことを誰かに相談しようとしたけれど、
自称親友は一人で悩むべきだと僕にアドバイスした。
そのことは深く僕の心を抉って僕の形は歪んだような気もするけれど、
同じように過去その彼も傷つく事で自分を作っていったのなら、
それはひとつの成長過程となりうるものだろう。

ただ、僕はそれが100%の孤独であるとも思わなかった代わりに、
なにもかもを一人で解決しようとは思わなかった。
ずっと遠く、だいぶ昔に忘れかけていたような記憶を掘り返して、
自分の記憶に自分で傷ついただけだった。

同じように、彼が彼を記憶の中で傷つけ、
自分という過去を捏造する事で今の形に歪んでいるなら、
僕はそれを直そうとは思わない。
自称親友と共有した時間は、ほんの少しの短い時間でしかなかったし、
僕は絶交する事で大切さを確かめようとしたが、
それは僕自身のあざとさと冷たさとなにげないひどさを再確認するだけの行為にしかならなかったから。

結局のところ、リアリティのある形で、一番長い時間を共有している友人が、
自分をいちいち売り出したりしない無害さが、
一番僕の記憶を多く占有しているから、
僕は親友という形式は、武者小路実篤のもたらした、
思春期の観念的妄想や幻想の形でしか、
僕の今には繋がっていないのだと思う。

つまり、僕の知っている「友情」は本の中から生まれた
【友情】という観念でしか無いのだ。
それは現実に適用されるものではなくて、
むしろもっと現実は残酷なものだと自覚している代わりに、
その皮をタマネギのように剥いでいく行為を、
僕は避け続ける事で「友情」、あるいは【友情】を保持しているのだ。

しかし僕は友人の彼女についてどう接するべきか、
それについての正確な解答を持ち合わせない。
それゆえに、本来的には自分で悩んで決着をつけなければならないのだろう。
けれど僕は最近友人と会うとついその話をしてしまう。
それが本人であったり、本人ではない別の友人だったりするのだけど、
そんな事には関係なく、僕は問題を自分で処理していない。

寝る前に、英語のラジオを聞く事が増えた。
無意識に、僕が日本語を避けているのか、考え事を避けているのか、
そんなことを疑い始める。
夢の中で、なにげない幸せに近いぼんやりした時間が増えた。
ずいぶんと楽しい夢が増えて、印象に残る深い残酷な厳しい夢は減った。
それが言語のなせる技なのか、無意識のなせる技なのか、僕は知らない。
いずれにせよ、僕が酷い事には代わりはない。

僕が友達の前で淡々と述べるその言葉は、
「わざわざ賞味期限の短いパンを食う事無いのにねぇ。」
という僕にとって当たり前の残酷さを露呈しているから。

たぶん、価値観の違いを衝突させる事に慣れすぎている。
人と同じ価値観が僕の中にあるとは到底思えないほど、
僕の周りでは他人への距離が遠すぎる。

もっと誰かが鬼気迫る勢いで、僕を殺しに来れば、
砂の落ち方も、多少は変わるのだろうか。

答えは出ない。
きっと、ぎりぎりの寸前まで、僕に答えは出せない。

セミの生まれる音。

2007年12月24日 18時18分35秒 | 駄文(詩とは呼べない)
固く閉ざされた倫理の檻とやわらかい物語の間でゆれる。
そのゆれまどう狭間の矛盾の中から、時間は生まれる。
過去から脱皮するように与えられた未来の時間は、
いつも過去の矛盾した記憶の中で創造される。

その歯がゆさに耐えられなくなったとき、
四つ目の軸にある放物線は折り返し地点に達する。

鯨の噴いた潮が、重力という名の自分に跳ね返るように、吸い込まれる。

罪を被り続ける君は、
過去から縛られる事でしか、まっすぐに進むことの出来ない君は、
まだ誰も僕に触れる事がないように、
その瞳にまっすぐに注ぐ光がないように、
まだ何からも、逃れることができない。

与えられた物語の中だけを生きる僕は
まるで僕に殺され続けてきた僕に似ていて
生きることも死ぬことも、そこでは等価値に僕の左右にある。

その両手を掴んで、
【形】を確かめようとして、
僕は自分に永遠の美しさが無いことを知る。
僕に形はなく、僕に自分が無い、
そこに光はなく、そこに闇もない。

あがいても溺れることはできない。
もぐることも、すすむこともできない。

それはまるで、決意だけを、意志だけを、こころざしだけを、
世界が僕に強要しているようだ。

僕は名前を奪い去る。
かつて親から与えられた名前を剥ぎ取って
神の仮面をぶん殴る。

ようやく五番目が消えかかるように降りてきて、
その霞んだ霧のようなつぶ々々から
僕の水が何かをつなぐ
伝えようと必至になって、
水の言葉は影響という波紋を作り出す。

それが迷惑に似ていて、
とても迷惑に似ていて、
ぼくは自分が悲しくなる。
ありもしない自分が。
そこに自分は居ないのに、ただ誰かの迷惑だけが立ちつくすような気がして

そこで僕は現実から夢へ目を醒ます

また今日も、僕を殺すことのできない僕が居る
決意を殺すことのできないぼくがいて
決意を許すことのできないぼくがいる。

たぶん、形だけを追いかけている。
反響音の中で、残響音が残す形だけを見ようとしている。
目が見えないのに、僕は音だけを聞いて誰かをみようとする
それがもしも神だったのなら、
僕は神様にだってなれるのに。

ぼくは神様にだって、成れるのに。

少ない土の中で、痛みの熱を聞いた
もしも次に何かが生まれるなら、
それは僕の死体だったらいいのに。

僕の死体が、土でできていたらいいのに。宇宙に広がるエネルギーに、僕の知が届かないように。

デッドリンクの思い出

2007年12月09日 18時15分42秒 | Weblog
久しぶりにBLOGをいくつか渡った。
デッドリンクが多い事になんとなく情動をくすぐられるような、
淡く悲しいような気分になる。

自分の関わったコミュニティをいくつか潰してきた記憶はあるが
廃墟に残るわずかなシミを観察するような不思議な情景観察者の気分でいる。

更新を続けてるblogもあるのは少しホッとする。
それが憎たらしい人であるとか、
ほとんど接点の無い人であるとか、そういうことには関わりなく。

思えばブログを開設する前からわかっていたことだ。
会った事も無いネットの向こう側の人からいつぞや聞いたかすかな言葉を手がかりにしているから。

「本当に話したい言葉を持っている人は少ない。」
言っていたのはmott_ragedさんだったかな?
いつぞや漫画喫茶の一室から画面越しに話しかけたら、僕の事を憶えていなかった。

「…ですよね?」
「そうだけど、あなたは誰?」

死ぬ前に、家族からこう言われることを想像して少しウゾゾっとする。
あるいは、言うのは僕の役目なのか。

ほんの少しの切れる意識の前に、名前を呼ばれる人でありたいと思う事はよくある。
どんなに相手を酷く傷つけても、最後まで憶えていて欲しいと願ってしまう独りの悲しさはなんなのか。
誰にも心を許さない事が、誰かの何かを守るわけではないけど
自分らしくありたいと願わずには居られないから、
今日も僕は何かを諦めていく。

少しばかりの熱が形を変えて
今日も世界は美しさを忘れていく
沸騰する宇宙の中で、熔けないほど冷たい存在でありたい。
強慾も神名も呑み干して、
ただ、誰も知らないところへ行きたい。

少なくなったデッドリンクを数えて、
昨日の僕を、ただ失われた城壁に刻んでいく
なにかを読んでくれる人は居ないから、
僕の遺書は誰にも届かない。

くだらない傷ばかりをべらぼうに刻んだ。
つまらない人生の中で、墓だけをくりかえし作った。

なにも生み出す事が出来ずに、ただ僕は世界だけを見ていた。

古い事を思い出した喜びは、
生まれてくる何かに似ている。
ただ終わりを思い出すために、
ただ、最後へと還るために君たちがそこにいるなら、
何も見ないで何かを見ている僕は、
偶然君たちと同じ何かだ。

失われた背景の中に必死に意味を嘯いて、
今日もたちどころに運命は呪われていく

無くなったものだけを数えた。

それだけを、僕はそこで見ていた。

最後まで、僕は死体のままで在りたい。