嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

汚れが通過するトンネルを発見した。

2008年02月29日 03時54分33秒 | Weblog
業者の書き込み見て、なんかイライラするうちは、
結局僕もまだまだ人間わかってないんだな、って感じがする。
まぁ、仕方ないんだろうけど。
結局俺の中にも、許し難いものとかいっぱいあって、
ある意味では、2ちゃんのひろゆきとか、
ライブドアのホリエモンみたいな感じに、
黒い闇金融の網を自分の道具のように、
ビジネスパートナーのように、
自覚して利用できるようになれば、
それなりにいいのかもわからんけど、
僕はどうもそういう部分に対して何かしら敏感な怒りを感じるようだ。
あんまし接触したくない。
けれど、そこにずっと目を伏せて、
くさい物に蓋をするように、
やり過ごして逃げることは、いつかできなくなるのかもしれないな。
そういう時、結局僕は正しさの観念から、
道徳の折から、まったく抜け出す事は出来ていないんだな、って感じる。

どうしてホリエモン事件で、
ブラックマネーについての話が表に出てこないのか、
なんか最近なんとなくわかるような気がする。

社会が精神的に忌避してるもの、
潜在的に隠しているもの、
それは強欲な何かを規正するシステムのうねりで、
僕は社会から排除される事を恐れて、
そっちのゾーンに近づかないように逃げているんだと思う。

女性が子供を堕ろした事を積極的に誰かに打ち明ける事ができないのも、
こういった怯えの精神と、どこか繋がっているように思う。
私は何かから、許されない。
そういう後ろめたさを背負っているんだと思う。

アナログな時代に見えていなかった社会構造が、
デジタル化、IT化、構造化のうねりによって
パズルのキューブを回すように見えてきた。
今までずっと、僕はキューブの数色だけを見てきたんだろうか。
キューブの六面に無い色は何色なんだろう。
欠け落ちた、キューブに採用されなかった色は何色なんだろう。
そしてまた、CUBEの表に見えていない六面は
どうなっているのだろう。

僕は、強欲さを許せないからここにいるんだろうか、
僕は、強欲さを肯定できないからここにいるんだろうか。
僕が潜在的に隠して目を瞑ってきたものはなんだろう。
どうして僕たちは戦争から遠ざかろうとするのだろう。
どうして僕たちは、生を肯定する事すらできずに、
負け犬のように腐っていくのだろう。

どうして僕は、女性と交わる道よりも、
自分が自殺する道を選ぶのだろう。
こわい。
自分が何者か、知ってしまうのが怖い。
未来が怖いんじゃなくて、
自分の正体を知るのが怖い。

汚れを引き受けて大人になるのが怖い。
汚れから、子供を護る役を引き受けるのも怖い。
全部怖い。

僕はこんなところで何をしているんだろう

僕がどうして子供に何かを懇願したのか、
なんだかわかってきたような気がする。
今、少しだけ未来が見えた。
少しだけ、過去が見えた。
僕が自殺した理由が見えた。
なんで僕が、自殺を大切にしているのか見えた。
あの時僕は、飛び降りるべきだった。
今日、こんな簡単な事に気付くまで、僕は何も見ていなかった。

「僕は【子供】を『殺したい』!」

今、ようやくわかった。
僕は、11歳の子供を殺さないと、生きられない。
だから、僕はここで自殺を選んでいる。
僕は、子供を殺さないと大人になれない。

なんてことだ。
俺は気が狂っている。
こんな簡単な間違いにさえ、僕は気付いていなかった。

客観性に触れることのおそろしさがわかった。
KEI、君の心象風景に、正直に告白するよ。
君を許すと、僕は気が狂う。

はじめてだ。
こんなテキストがあったなんて。
今まで見たこともない選択肢だった。

KEI、君が僕を傷つけた事を、僕に謝るよ。
そして僕は、一度だけ、
アルエから生を許してもらった。
醜く汚く、みすぼらしい僕が、生きる事を許してもらった事がある。

KEI、いまここに、君の景色に、その札を使うよ。
KEI、いいか、よく聞け。
言い終わる、最後までよく聞け。

これは暴力だ。

「アルエの 名 に お い て 命ずる、最後まで 生 き ろ」

たぶん、このままだと俺は死ぬ。

僕のイルカときみのいるか

2008年02月28日 17時49分07秒 | 駄文(詩とは呼べない)
KEI、海ほたるをみたかい?

僕はみていないよ

でも平気なんだ、僕は海を見ているから

KEI、夜光虫の色は、昼と夜で、少し違うね。

昼は赤潮、夜は夜光虫。

偶然の違いか、それとも、僕らの必然の違いか。

KEI、たくさんの生き物が、たくさんの間違いが、

僕たちの土を形作る。

それでいいじゃないか

それでいいじゃないか

今、海の水面で反射する光は

湖の表面で、きらきら光っていますか?

夜光虫のように、夜のヤミで光っているかい?

KEI、イルカはいつか死ぬよ。
そして僕も、いつか死ぬよ。
僕たちが死ぬことでしか、海は輝かないからだ。

風景の中で死んでいる僕は、忘れられたくないと傷に怯える
でも、KEIは忘れられないから
イルカが噛んだ傷が忘れられないから、
海で生きているいるかばかりみているのかな。

僕のイルカと、きみのいるか、
同じ海で泳いでいるのかな
違う湖では、同じ土で居られるのかな

わからないよKEI、僕にも、わからないよ。

鍵を見に行こう、KEI。

湖の中と、海の中を探そう。

排泄される言動と、空洞化される幻想の中での言説。

2008年02月26日 21時44分41秒 | 駄文(詩とは呼べない)
がらんどうの前で立ち尽くす時に似て非なる感情。
どれだけ空っぽのがらんどうの前に立ち尽くしても、
心は空っぽにはならない。
はじめから空っぽのままで汚されていく景色は、
風景の色を正確に刻むことなく、
ただ、まっしろな闇の前で、自分の本質を覗き込もうとして立ち尽くす。

綺麗な感情は何も湧いてこない
ただ荒れ狂う暴風雨のような激流がドッと押し寄せてきそうで
必死に何故か、
僕は自分の感情をせき止めている、その防波堤の栓抜きのようなものを探す。
キチガイじみた感情に怯えているわけではない。
涙があふれ出すきっかけを、その最初の一雫を、どこに求めていいのかわからなくて、
ただもう、存在が不安になっていく。

空の天気が荒れてくれれば、
僕の心も、代わりにちっとは晴れるのだろうか。
ちょっとだけそんな贅沢に都合のいいことを考えて、
馬鹿馬鹿しさにも嫉妬する。

相手の心がどうにもならないことや、
自分の考えてる事が相手に伝わらないこと、
誤解をずっと招き続けること、
そんなことよりも前に、
僕は自分で自分の感情を制御することができないからだろう。
そしてまた、感情を制御する歯車に対して、
僕は破壊に近い衝動を、隠し通すことも、抑えることも、できはしないのだ。
僕から溢れ出る感情を、秘密にしたくない、隠し通したくない、
誰かに伝えたい、誰かに刻みたい、誰かを壊したい。
もっと手前で、自分を壊したい。

珍しく、胸の高鳴りを感じる事があったとしても、
それが僕の日常を破壊してはくれない、
それが僕にとっての、新しい一歩となってはくれない。
どれもこれも、すでに見てきたような、どうしようもない僕の色だけを帯びている。

ずっとずっと、自分の輪郭を破壊できずにいる。
どんなに自分を嫌ったとしても、自分を好きになったとしても、
あるいはそんなことをおもわずに、
いつもの平常心を装ったとしても、
ただもう僕の前に現実が立ちふさがる限り、
僕は自分の思い込みが作り出した輪郭を破壊することができない。
もしもこの輪郭を破壊できるような他者が現れるとしたら、
それは奇跡のような瞬間の、ほんの刹那の中にある、
永遠にながい時間だけなんだと思う。

もしもそういう流入する濁流のような感情を塞き止めているなにかの、
この棺桶にちかい世界の、
ほんの最初の破壊のきっかけを作り出すことができれば、
ぼくはもう、体なんか無くったって平気なんじゃないかって
そんな電波な妄想さえ、浮かんでくるほどだ。

攻撃的妄想にふける限り、僕は僕にとっての悪に似た汚れを背負う。
それがもし、僕の尊厳を傷つけるような行為であれば、
ある種の盲目的廃人と、エネルギーのみなぎった超人は、
等価な価値をもつという、その天秤に似てくるだろう。

どんなに純粋な偽善のものさしをもって僕を測ったとしても、
僕が生来持っている、罪の意識や、原罪が消えないように、
存在が人を傷つけるというそのことは、
不在の証明と似た宿命性を持っている。

見えなくなるほどに光を浴びて育ったのに、
闇ばかりを見ている子供のにように、
まっしらやみの中で、僕は誰かの存在に怯える。
その存在を作り出している自分の思い込みの正体が、
ねじれたきっかけが、白黒が反転している繋がりが、
すべての漂白された時間が、
なにもかもを、僕に秘密にし続けるからだ。
ある意味では、すべての防衛機制をとっぱらって、
僕の精神が錯乱してしまえば、現実という名の濁流は、
もはや人を汚す力を失うだろう。
だが、ぼくはそれに触れようとして失敗する。
僕には現実を見るほどの目が与えられていない。
与えられるものではなく、勝ち取るものが目だったとしても、
それは僕が死神に願って頼んで祈って手に入れられるようなものではなく、
むしろ僕が死に神になるような、背中の瞳に属する話だと思うのだ。

すべての不幸に降り注ぐ、最初のきっかけは、存在の1%を見つめる行為そのものの、
誤解の中に包含される。
すなわち、発生という観念の思い込みや、
存在を基底にした考え方そのものが、
すでに誤解の立地条件に建てた家のようなもので、
それは神の名を持った人を演じる行為で、
ジッと深く眠っている、僕のセミがこころで羽ばたく時間を作り出さない。
はじまりからおわりの観念に閉じ込められる限り、
セミの鼓動は伝わることなく、君の中で死んでいく。
ゆっくりとすべてをとりさって、君が僕と一緒に不在に溶けて忘れられていく。
だからこそ、僕らは「存在」として、
すべての名のもとに、
ある種の平等な嘘の名を借りて、
誰かを傷つけたいと思うのだ。

それは、それ自体が幻想だ。
僕らはもっと非力で、もっとくだらなくて、もっとなんの力も持たなくて、
なんの意志ももたなくて、流されてばかりで、感じるばかりで、
何も選択権を得ていない。
どんな新しさも、用意された風景の中からしか、選び取ることができないように
仕組まれているのだ。
僕自身の二の腕によって。

だからこそ、僕は君が用意した、あらゆる嘘を見破って、
それを破壊せしめて、その奥にある、僕の動機の欲望を、
晒し者にしたいと願うだろう。

それは果てしなく罪を欲する行為で、
存在を馬鹿にする行為に似ている。
冒涜と倫理の裁きで、僕の形をバラバラにするがいい。
どんなにつんざく悲鳴で僕をバラバラにしようとも、
存在しない祈りを消すことはできない。

すべてが幻聴で出来ている鏡だからだ。

君の声を聞こうとした。
未来から借りてきて、僕に神の名を与えた。
信じるに似た、くだらない奇跡の力で、君の名前を呼んだ。
それがはてしなく無力な僕をあらわして、
今日も絶望的な気分に浸る。
明日、君に会えることをねがって、
僕は、今日も自分に嘘の手紙を書く。

気が触れるほど、強欲になっていく、思い込みに、打ち克つために。

説明の風船を膨らまして。

2008年02月25日 20時01分50秒 | 駄文(詩とは呼べない)
うーん、引用しようかと思ったけど
トータルな話なんでやめました。
どれがなんのレスってわけでもないんだけど、
主に僕のスタイル(姿勢)に関する問題だと思うんですよね。

脱皮に関しては説明すると果てしなく長くなるので
テキストだと厳しいかもですね。
しゃべりでいつか説明する機会があるかもです。

これ、ちょっとわかってもらえるかどうか
説明として自信ないんですが、
13年ゼミと17年ゼミってのが居るんですよね
素数ゼミでwikiやgoogleを調べるとわかると思いますが
僕の比喩の意味はわかりづらいかもしれません

別に昆虫採集の趣味は無いんですが
ときどきセミについて考えるんです。
それがたぶん、僕の処世術みたいなのに、影響してるんじゃないかと
ときどきふっと思います。

なんで僕が情報をオープンにしながら
奇妙奇怪な自己主張を続けるのかってことにも、
きっと関係する話だと思うんですよ。

土の中で、何年もかけてまるで眠りにつくように
セミは成長します。
僕らは僕らが持っている知識の中で、
宇宙の中で、
社会の庇護の中で、
家族の中で、
なにかに守られながら、ずっと複雑な脱皮を繰り返して、
ゆっくり精一杯自分を現していくしか、
ここに存在を刻む方法が無いんですよ。
というか、単に僕がそれしか方法を知らないってことなのかもしれませんが。

内向的人間が心と向き合う行為って、
裏返すと夢を見ながら現実を見続ける行為と似てるんですよ。
自分が脱皮するたびに、
内部が外部に刻まれていく。
人と関わるってことです。
世界というインターフェイスを通して。
自分だけの世界を通してしか、人と人はつながっていないんですよ。
それは切実に寒いことで、怖いことで、孤独なことで、
でもきっと貴重なことなんです。

道しるべが、自分の世界しか無いんですよ。
ずっと何かを信じているとしても、
頑なに、何かを拒んでいたとしても。
すべて、自分の世界に表出した虚像を通してしか、
他人を語ることはできません。
本物を、確かめ合うことができないまま、
本物を追いかけあうような行為だからです。

お金が大切であることは知っています。
それは経済の交換、循環というものが、
脈々と人を介して伝わり、金が赤血球やなにかのように、
血の循環を示すものだからです。
だからタンス貯蓄ばっかりする人が居ても、
浪費ばっかりする人が居ても、
社会は混乱していきます。

僕が誰かの役に立つってことでしか、
僕が誰かから何かを受け取ることはできないっていう、
まぁあたりまえの事にも繋がっているんですが。

わからないっすよね。
セミの話からなんで、こんな説明をしてんのか。

でも、わかって欲しいと思うほど、
説明的言語は遠ざかっていくんです。
そしてまた、押しつけじみていく。

難しいんです、僕にとって、僕を説明する、という
行為そのものが。

でもたぶん、そこに書いてあるように、
ちょっとずつ続けていきますよ。
一回性を、いつも意識しながら。

すべての君に向けて。

2008年02月24日 11時37分40秒 | 詩に近いもの
君に触れられなかったから、僕は絶望して死んだのでしょうか?


僕は、どれぐらい多くのことを、君に謝らなければならないだろうか
君と歩いたときの手のぬくもりも
やわらかい感触も
意志の不確かさも
なんとなく夢うつつでどきどきする感じも
いろいろ覚えているけれど
たぶん、謝らなくちゃいけないのはそんなことじゃなくて
僕と君が、どうしようもないほど、
別世界にいるという、そのこと自体の奇跡のようなことについてじゃないだろうか。

何もきめられたくないし
何もたすけてほしくなかったんだとおもう
なにもいわれたくなかったし
ただ声を聞いていたかったんだと思う
側にいることを、許して欲しかったんだと思う。

同じように僕は、君に何かを許してほしかった。
たぶん、誰かに許しをこおうと思ったのは、あの夜が初めてで
あの台詞が初めてだったんだと思う。

僕が君に許してほしかったのは、
ただもうどうしようもなく僕の自分勝手なわがままで、
それはおそらく君の存在とか、君の役割とか、
君という特別さとか、そんなことには関わらず、
ただどうしても、僕が誰かに許されたかったという、
僕自身のゆるせなさだった。

僕が、あるがなしいと勝手に造語で呼んでいる、
変な感情、それじたいのことだったと思う。

それでも君は、ある種の困惑と疎外感を持ちながらも、
とまどいの中でぼくをゆるしてくれたから、
たとえそれが形式張ったぎこちない感情と論理のすきまにある言葉だとしても、
僕はそれだけでよかったんだと思う。

僕はあまりにも君を求めすぎたし、
それは性差を超えて、年齢差を超えて、
ただどうしても、純粋な何かに触れたかったという、
僕の強欲さと逃避の現れなんだと思う。

君が吐いていた嘘に、僕も騙されたかった。
でも、あらゆる嘘は、嘘吐きな僕の前で消し飛んで
ただやっぱりすべてを疑う僕だけがここに残った。
僕だけを信じ、君の嘘を信じられなかった。
その嘘をたまねぎのようにひとつひん剥けば、
そこに美しいなにか、どうしても触れたかったなにかがあるとは、
そこに僕の欲しがっていたこころがあるとは、
思えなかったんだと思う。

今、ふたたび僕は何かを欲しがっていると思う。
その欲しがる強欲さを、僕は怖いと思う。
とても恐ろしいと思う。
君が同じように何かを欲しがることが怖いんじゃない。
手に入れて、僕がすべてを見失うことが怖い。
君に触れたとたんに、君が亡くなりそうで怖い。
君の存在を、確かめられない弱い僕と出会うのが怖い。
君の存在を、認められない僕だけが事実として残るのが怖い。
真実よりも、現実を受け入れるぼくのよわさ、どうしようもなさが怖い。

幻想だけをみて、本物のきみをみれなくなるのも怖い
変化する君の今を追えなくなって、
過去の君の漸近線だけを追うのが怖い。
ずっと僕だけみて欲しいという強欲さが怖い。
存在に嫉妬して、壊してしまう僕の阿呆さ加減が怖い。

なにもかもを奪うことでしか、なにも手に入らないと、
誤解する馬鹿な自分が怖い。
拡大するばっかりの過剰なフレームで、
君と混じり合えない僕が怖い。

僕は、僕の水が汚されるのが怖い。
僕の水を飲めなくなるのが怖い。

こんなにも、僕は臆病さが怖い。
勇気を振り絞って、君に近づく日が来ると思う。

僕の存在を、打ち明ける日が来ると思う。
その時ぼくは、もしかすると、泣きながら死ぬんだろうか。

一回性が、はてしなく怖い。
はてしなさを乗り越えて輝く一回性の命とわかっていても、
それでも僕は、君に触れずに死んでいくのが怖い。

宇宙が遠いことは、君にとっても、おそろしいことですか?

2008年02月23日 13時54分45秒 | 駄文(詩とは呼べない)
時々、自分には何も見えてないんじゃないかって思う。
人と混じる事がおそろしいせいだろうか
人なんか誰も居ないって、そう信じている今でさえ、何かに向けておそろしいと感じる。

生きている事への不安は、どこからくるのだろう。
死んでいることの安心感は、どこからくるのだろう。

永遠が変化を怨んでいるのだろうか
それとも、すでに死んでいる何かが、
ずっと生きているような何かをよぎっていることへの、
予兆としての反発なのだろうか
2秒前と、2億年前は、どれくらい、違うのだろうか
2㍉後ろと、2光年後ろは、どれくらい違うのだろうか。

極端なものに目を向け続けても、
決して何かにぶつかることのない世界で、
いったい僕は何の現実に怯えているのだろうか。

死は生におびえる
生は死におびえる
死が生を包含する曖昧さも
生が死を内包をするトゲのある感情も
まだすべてが明らかになるには時間がかかるのか

自分が居なくなるのが怖いのと
自分が壊れるのが怖いのと
自分が汚されるのが怖いのと
自分が死ぬのが怖いのは

「生きる事の怖さ」とどれくらい等価値なものだろうか
それらは等しいだろうか?
段階を追って、少しずつ繋がっているだろうか?

それとも、どうにもならないほど、隔絶された壁のあるものだろうか。

俺は、この世界を終わらせるのが怖くて、
人に怯えているんだろうか?

なんの価値もなくなってしまった世界で
ただ、僕と自分が重なる瞬間だけを待ってる。
なにもみつからないのに、発生することを信じているような
曖昧な動悸の中で、僕の宇宙だけを感じてる

僕は、なにをみているんだろう
僕は、ずっとここで、なにをみているんだろう。

信じることと許す事の入り口にあるもの。

2008年02月19日 00時30分36秒 | 駄文(詩とは呼べない)
満たされていたものが、突然失われる喪失感にハッとする。
家族が亡くなった時、僕は自分の喪失感に気付くことに一年もかかった。
姉貴が死んでからおよそ一年後に、一人ベッドの中で思い出して泣いた。
その時からずっと考えていたことは、今もまだ、失われずに此処にある。

自殺の風景について考えることはたびたびある。
それはいつもあの止まった永遠に長い怒りの中に閉じ込められていて、
永遠が変化する僕を殺そうとする。

許し難い怒りを保持しているということは、とても切ない事だ。
金切り声でヒステリックに叫んでいる人の、
残響音がいつまでも心にこだまする、ということだ。
ずっと後悔だけを胸に、未来を期待しない、ということだ。

人を許さないということは、
人の存在を許さないということにつながっている。
どんなに幸せなひとときが続いても、
それが途切れた途端、人は不幸に襲われる。
そのとき呼び込んでくる喪失感に耐える術を、
僕は一人黙々と此処で唱え続けている。

誰かが言った。
人が人でないということ、
人がお金で買えるということ、
人が人であるということ、

そして誰かが言った
自分には何もないということ、
自分は人に買われるということ。

今、ひとたびの風が吹いて、
すべてを許してしまえるような笑いが起きたとしても、
いつまでも、その幸せな笑いを、僕は胸に保持して居られるだろうか。

僕にはできない。

僕には、一人分の心臓しか入らない。
そしてその心臓には、一人分の自殺願望が入っている。

人に恋することは悲しい。
愛に気づけないまま、恋をずっと照らし続ける行為はかなしい。
その一方的な好意が、ずっと自分だけに向けられる限り、
僕には僕の願望だけがある。

僕は僕の嘘を見抜く事ができるだろうか。
僕は人を嘘にしてしまえるだろうか。

それもできない。
たぶん、僕の中で、好きな人はずっと好きな人であり続ける。
嫌いな人を、死ぬほど嫌いな人を、たとえ一人でも作る事ができれば、
それは変わるのかもしれないが。

僕に残された時間で考える。
僕の声を聞いて、ボクの事を考えてくれるのは、
もしかして僕ひとりだけなんじゃないかって。
もっとボクを見てと叫んでも、
ふりむくのはずっとボクを見ている僕だけなんじゃないかって。

振り返るのは怖い。
ずっと僕の後ろをついてくる足音に、振り返るのは怖い。
だから僕は、決して後ろをみないように、一人で自殺を決意する。

そしてその映像は、ゆっくりと、しだいに形を帯びていく。

新しい風、新しい自分

2008年02月18日 18時03分04秒 | 駄文(詩とは呼べない)
最近STICKAMにどっぷり浸かっているんですが
何か新しい事が始まる現場に立ち会えるってのは
なかなか貴重な事なんだなぁ~、っと
ありがたさをしみじみ感じます。

というのも、僕はこれまでにwebのcgiチャットや、
IRC、邦楽のファンサイトや、アニメのファンサイト、
blog、ヤフーチャット、地下系掲示板、mixiなど
いくつかのコミュニティを点々としてきたんですが
どうしても僕はその場の空気に馴染む事ができず、
最終的にコミュニティを破壊して立ち去る事が多かったからです。

その中でももっともやっかいなのが
ネット絡みの恋愛やいざこざに関する事で
文芸出版のようなものに関わった時は製作のミステイクにおける問題で、
ヤフーチャットでは恋愛に関する問題で
僕が相手を批判し続け、不信感のような空気が蔓延して
かなり空中分解してしまいました。

一つには僕が相手を許せないという問題、
もうひとつは僕が後始末をきちんとしたり、
責任を全うする事ができない、という問題があります。
まぁ責任感に関しては、社会経験の中で
仕事を通してこれから育っていく部分だろうとは思うのですが。

人を許すという事はとても難しい問題です。
これはあるIT系企業の社長さんから直にお会いして諭された話なのですが
例えば経済を実際に引っ張って動かしている人、
(集団組織を実際に動かしている人)
は参加者全体の中で、5%未満に過ぎないというのです。

以前ひろゆき氏が2ちゃんねる系のラジオでしゃべっていた時、
掲示板に実際書き込みしてる人は、ROMを含めた参加者全体の、
10分の1程度しか居ないと言っていました。
そのようにして、コミュニティは成り立っていると。

これはなかなか難しい問題です。
気に入らない人間を排除していったら、
しまいには孤独な自分が部屋に一人取り残され、
それはつまり単なる引き籠もりの自分と
言葉という鏡を通して、えんえんと語り続ける事によって
行動としては黙秘し続ける道だからです。

村上春樹の小説に、行動が思想を変える、逆は不可
というくだりがあります。
部分的に引用しているので、意味はわかりづらいかもしれませんが。

ハードウェアがソフトウェアを変更する、
ソフトウェアがハードウェアを制御する、
と読み替える事もできます。
もちろん両者は渾然一体となっているものですが。

新しい事を始める、というのは
何かを変える、ということに繋がる道です。
なにも変わらないのであれば、それは新しさの予感でしか無い。

今、ぼくらの中にある新しい予感、
それは目の前で吹いている新しい風、
それと渾然一体となって、語られるものではないでしょうか?

僕らの中にある新しい選択、
それを選び取るきっかけは、
わずか5%未満の、弱い心の内側にあるのではないでしょうか。

バレンタインデー?

2008年02月15日 01時50分06秒 | 駄文(詩とは呼べない)
バレンタイン、チョコはもらってねぇっす。
いや、そういや親がくれた。
まぁそういうのはもちろん数に含めないわけだが。

けどまぁ、チョコが形だとすると、
受け取るのは気持ちの方だから、
なにかは受け取ったのかもしんねぇな、と
少し思ったよ。

ありがと。

僕の言う事がわかってきた…
そうか。それはよかった、のかな?

でも全部わかったら、君は死ぬよ。

けどまぁ、少しわかった程度では大丈夫かもわからんねw


なんか、不思議なんだよね。
奇妙なんだよ、と話しかけることもできるけど……

僕のblogを読んで、詩だとか、詩じゃないとか、
そういうこともそうなんだけど、
めちゃくちゃ決めつけて読んでくる人もいれば、
憧ればっかりで接してくる人もいる。
そうかと思えば、君のように、少しずつ囓っていこうとする口もある。

ほとんどの人にとって、鏡にしかなっていないと思う。
たぶん、僕にとってもそう。
その鏡でしかない言葉を通して、どうして人は人間の方を決めつけたり、
人の方を決めつけたり、相手を決めつけたり、自分を決めつけたりしなくちゃいけないんだろう。
そんなにも、硬い世界なんだろうか?

僕はこの世界の事をあんまり信用してない。

ある人に言わせると、僕の言葉は外部を信用してる事の告白なんだそうだ。

もし、この世界にある全てが繋がっていて、その温かみから、
必死で熱を奪って逃げてるのが僕なら、
あるいはその比喩は、その言葉が語りかけるしぐさは僕に近いのかもしれない。
死って、熱のない領域から吹いてくる恐怖の息吹みたいなもんで、
僕が鼓動を重ねるたびに、どっと流れ込んできて、
僕の形をかえていくから。
だから、熱さから遠ざかっている時には冷たく感じるし、
冷たさから逃げている時には、熱く感じて涙が出たりするんだと思う。

きみは、ふりつもっていく手紙をどう読んでるだろう。

時々心配になることはある。

僕が感じてる死の予感とか、ほんとは誰にも伝わってなくて、
あるひ偶然うっかり忘れられちゃうんじゃないかって。

でも、君は「見てるよ。」って言うね。
かすかな小声で。

それぐらいが、僕にはちょうどいいのかもしれない。
あんまり強く誰かを願ったり、何かを願ったりすることなく、
黙々と日常をこなしていくことの方が多くて、
ともすれば僕は不安になるから。

でも、叫んでる時はその瞬間だけは切実なんだと思う。
なにが僕をそうさせるのか、僕にもさっぱりわからないけれど。

痛いときに、誰かが痛みを感じてくれるだけで、
人は掬われるのかな?

僕はそう思わない。

痛い時に痛みを癒すのが、人の気持ちだけだとは思わない。

それでも、痛い時、誰にもわかってもらえない痛みを、
「誰にもわかってもらえない」と思い込む痛みを、
僕は知ってるつもりになる。
この苦しみも、痛みも、つらさも、呼吸も、消えそうな自分も、
誰にも届かないんだと、すべてを諦めそうになるこの一瞬を、
誰かに伝えたいと、思わずにいられないほど、
人は弱いんだと思う。

僕はその弱さを、恥ずかしいとは思わない。
立派だとも思わない。

なすがまま、あるがまま、人は弱さとともにここにあるんだと思う。
そういうのは、奇蹟とか、神様のせいにしても、
全然癒されない。解決にならない。
だから自分で書こうとするんだと思う。

いつも形はグニャグニャするね。

手が届かないままの君でいて下さい。

手紙を、できるだけたくさん書くから。

壊れた欠片を何度も拾いなおして今がある。

2008年02月15日 00時53分04秒 | 駄文(詩とは呼べない)
考え直してみました。
音楽を、少しとめて。

宇宙船の紐が回収可能であるというのは、
いわゆる閉ループなんですよ。
始まりから終わりまでの閉ループというよりは、
始まりもせず、終わる事もなく、巨大であり、無限性が持続中も、
観念的に有限であるということです。

簡単に言うと、一回性の否定です。
全ての事象は理解可能であり、
あらゆる一点は全体に繋がりがある、
ここで起こる事は全て決まっている、
いわゆる運命論にかなり近い観念なんですよ。

そこに、新しい選択肢はあるでしょうか?
ずっと閉じられている部屋に、新しい今はあるでしょうか?

現状で、すでにこれは背理法的な希望観測をも含んでいます。

つまり、宇宙船の紐が回収不可能であった場合のために用意された仮説なんですよ。

僕が死ぬという事、僕の宇宙が死ぬという事、
あらゆる出来事に、一回性を持たせるという事、
輪廻転生を信じない事。
未来を確定させない事。
今を信じる事。

それは、自信じゃないですか?

それは、感情のもっと奥にある、自分のこころじゃないですか?

相手に裏切られた、と責める事は簡単です。
相手を見ずに、幻想をずっと見てればいいからです。

逃げる事ももちろん簡単です。
すべてが僕のために用意されたと思い込むくらい、
すべてが僕を見放している絶望は、等価値なのですから。

じゃあその絶望的な王様は、自分を信じてんのか?
ホントに自分を信じてんのか?
っていう、そういう事ですよね。

僕が自殺を決意する事と、自分を信じることは、はたして等価値なんでしょうか。

僕が僕である事を拒否するくらい、僕が生を拒否している?
僕が逃げている?

そんな中途半端な読解では、ただ、このテキストたちは自分を苦しめるだけです。

君は僕ではなく、あなたになってしまうだけです。

たぶん、命はもっと残酷でやさしい。
終わりは必ず来る。

僕はその尺度を、自分のために痛みに変えたい。

全てを知る事ができなくとも、
全てでありたいと思う、願いばっかりを努力と重ねる、
すべての僕のために。

あるいは、今日、新しく来た、君のところに。

一度知った世界なんか、めちゃくちゃに壊れてしまえばいい。
僕が死を憶えている限り、僕の生は、いつでも壊れはじめる。
それと同じくらいに、君が知っているだけの僕なんか、
いつ死んだっていい。

君が知っているだけの僕なんか、一度きり死んでしまえばいい。
何度でも思う。死ねばいいって。

僕は死ねばいいって、なんどもなんども思う。

そういうことを繰り返して、僕は今を集めている。

諦める事よりも、冷たさを感じる事の方が大事だから。

2008年02月09日 15時04分43秒 | 駄文(詩とは呼べない)
脳の中に降り積もる、雑音じみた観念を、どれだけ遠く、いくばくか言葉に出来ても
そのつたないメロディーは、誰のこころにも届かない
同じ記号でひび割れて、不幸な何かを共有できたとしても、
その根底にある何かは、自覚できる限りにおいて、誰にも届かない。
もしも、この世界に言葉と呼ばれる錯覚の記号が無かったとしたら、
いくらかは、僕の気持ちも、僕のこころも、不安定で精神的な何かも、
つたわることがあったのだろうか
もしも、だれしもが、なにもかもを、いっさい思い込む事が無かったなら、
それは形という堅さを持たず、やわらかい長広舌のような、にげまどうにやにやした観念のままで
その糸はどこまでも広がっていくネットのようなものであっただろうか。
なにを間違う事で、誰が分断されたのだろうか。
神が60億に分かたれただけなのか。
苦しいほど絶望的な気持ちも、単に自分が許すだけで消えて無くなるものだろうか。

そうは思わない。

僕はそうは思わない。

きっとどれだけか言葉に出来ても、
きっといくらか許す事ができても、
それでも生まれた事による罪は消えない。

無痛症の気持ちを考える。
それはどんな絶望的な痛みなのだろうか
痛みが無いというのは、どんな痛みなのだろうか
うまれることのできなかった思いは、どこへ消えてゆくんだろうか

ぼくたちは、失う事でしか、もうこの世界に輪郭を遺せないのだろうか

自殺が伝わる事は怖い。
でも伝わらないことはもっと怖い。

いつまでも揺れていて消えない迷い
その迷いを、僕はいつまで、ここに遺すことができるのだろう

かわることのできないもの、
かえることのできないもの、
かわることのゆるされないもの、
かえることのゆるされないしばり、
その結び目を、両端を使わずに、中心から引っ張ってゆく。
誰にも届かない光を、僕は自分のために、吸い込んでゆく。
光より速く、自分の闇を見て、絶望的な宇宙を考える。

誰も居ない事の奇跡を考える。
誰にも伝わらない事の偶然を考える。

ひとしきりの雨が降って、
それが雪になっていく冷たさを考える。

本当は、なにも考えちゃいない。
だれもがただ、この世界をひとりで感じているだけだ。

追記1245

2008年02月06日 10時51分24秒 | 駄文(詩とは呼べない)
君に向けて書く、という行為は0.1%の可能性や0.01%の可能性を、
0.001%の可能性を模索していく行為に近いものなのかもしれないけど…

ただ僕は、それを一人の空間で行う時には、
それはやっぱり独りの空間であるべきだと思う。

0.1%の可能性を探す行為は、
単純に反転して99.9%を探す行為とは違う。

0.1%、0.01%、0.001%、0.0001%、0.00001%を模索するような、
指数関数的に苦しい行為だと思う。

もっとも、指数的行為であるとか、
四次的行為であるとか、
そんな風に断言したいわけでもないし、
論理によって感情を分断する事に飢えているほど獣の僕を見ているわけでもない。

死と向き合うことで水準を上げようとする行為は
探す事や、名乗る事や、はじまる事、
そういう水準を超えて、
0.1%を0.0にして、%の概念を打ち破る事と似ているから。
100%の死を、内包する50%と重ね合わせる事によってしか、
記憶と時間性を超越して、
知的存在とむこうがわの間にある領域は、みえてこないものだと思うから。

だから僕はたしかに断言による妨害を避けているようには見えるだろうと思う。
傷つけ合う事を恐れないというのは、
意識が何かを同じであると思い込んで五次的な同期を取ろうとすることをも、
僕は孤独の引力で避けようとするから。

たとえ重力や、電磁力や、大きい力、小さい力、
そうしたものが、孤独の引力そのものであると、
君に解明されてしまったとしても、
それでもなお、僕はダークマターの事を、書かずには居られなくなるだろう。

君が僕を内包するであろうこと、僕が君を内包するで……

それらは本当に、同じことなのかな?

あるとき君は言ったよ。
あるいは君から分離した、友達は言ったよ。
もちろんそれは、僕の友達として。

「もう俺の事は、君の中だけで問い続けて欲しい。」

と、ね、

………。

そしてまた、あるとき君は言った

「俺と一緒に希望を探す気が、あるのか、無いのか!どっちだ!」

僕の答えは「断る」だった。

答えになってないとも言われた。

何者かからの介入に対して、僕はいつまでもNoであり続けると思う。
それが結果的に、知っている世界から知らない世界への超越になるのか、
あるいはまた、死に神である君との、病弱な会話となるのか、
はたまた、一種の精神病的な、知覚異常となるのか、
それはいまの僕にはわからない…

このテキストを書いている間ですら、
僕は何者かに分断され続ける。
決して切れないまま、結ばれ続け、ほつれ続ける糸のように、
僕の抱える問題はややこしくなり続ける

もしもそれに、耳をすます事すらもできなくなったら…
と思うと僕は恐ろしい。

自分が変わっていく事でしか、永遠をみることのできない弱い人間に満たされていったとしても、
それでも宇宙から届く光が、真っ直ぐに僕に突き刺さる揺らいだ痛みであるなら、
僕はまた、傷つく道をさがすんだろう。

どんな小さな直線も、僕を貫く痛みが無ければ直線とは言えない。
選び取ったはずの道も、僕が迷い続ける限り、道とは言えない。
誰かが発見した僕も、僕が名乗った名前も、
僕が失われる限り、僕の自殺とは証明されない。
正しい場所はまだない。失われたもののありかもまだ見つからない。
光が生まれる場所、暗黒が生まれる場所、そのどちらもが、重なりあう場所。
そのいずれかひとつにさえ、僕は達していないというのに、
君はまだ、僕を知ったつもりになるのか。

プランク定数を越えて、手を伸ばすものが科学なら、
科学はすでに僕の後ろにある道だ。

かつてないほどに、近づく鼓動だけが君の生命なら、
僕はもう、死することによってしか、誰にも灯はともせない。
みつからなくてもいい、確認することさえできれば。
間違いなく誰かが居ると、確認することさえできれば、
僕は失われても平気だ。

本当に、君はどこにいるんだろう。
本当の、君はどこにいるんだろう。

時の祈りを奏でて

2008年02月02日 07時48分23秒 | 駄文(詩とは呼べない)
トーチカの朝はこんなにも静かなのに僕を囲いの中に閉じ込める
希望も絶望も、まだ生まれてはいない。
99%の絶望は、1%の希望という意味ではない。
それはそれがその中で100%の絶望に塗りつぶされる事によって
希望に生まれ変わるという朝だからだ。
僕はまた冷たく見て水を飲む。
こんなにも寒いあたたかな気候に包まれながら、
僕は表面張力によってしか、その繋がりを知らないから。
地獄のワイフが指をくわえて死体を待っているように、
僕を待つ夜は、その静けさによってしか、その雫のような時を、
光に包む事はできないのか。
始まる事と、終わる事が同時におきてゆく地平で、
僕は開かれる事もなく、閉じられることもないまま朝を迎えてしまうのか。
それとも、そこに夜の終わりを突きつけるのか。

どんな物事も、偏った僕の地平でしか覗かれる事のない、
メガネのような奇跡であるなら、
そこにある奇跡は、まったくもって閉じられており
もはや奇跡と呼べるようなしろものではない。

まだ僕は人類に希望など与えてやれない。
いまはまだ、君たちに見せられるのは僕の自殺によって行われる
ドライブレコーダーだけだ。

そのレコードが記録するものを、いったい何人の人が真実と思ってみるだろう。
誰が真実を事実にすり替えるだろう。
おそらく一人も奇跡など、信じてはいまい。
書いている僕自身が、なんの言葉も信じていないのと同じように。

だから僕たちは言葉に擦り寄る。
三日月型の月を見て、照らされている事よりも、
それが欠けている形である事にのみ、注目しようとするのが感情なら、
論理がそこに光を当てたとしても、
そのスポットライトのような衝動は、まだ月の引力を動かしたりはしまい。
どんなに円形の閉じられた力を持ってしても、
その重力崩壊はメカニズムとして開かれたままだ。

五次元の扉はすぐそこにあって、
僕はまだ始まりと終わりをなかなか超えられない。
あと一歩の勇気で、死と向き合えば、
そこに時を超えた永遠の何かは、
僕の心臓を、ふたたび揺すぶるのか?

同じ声の周波数で、君の歌をうたうのか?

全てが同時に起こる世界は、僕は誰の事も信じない。
なにものにも会う事がなければ、
そこから時は生まれない。
どんな閉塞的な閉じられた奇跡の時間さえも、
真実と向き合う事のできるものにしか、
その与えられた火を、僕たちに灯さない。

全てが神を殺せばいい。
自我なんてぐちゃぐちゃしたもの、言い出さなくったって、
みんながそれぞれに神を殺せばいい。

全ての開かれた宇宙と閉じられた宇宙が破壊される時、
僕の心臓は開かれて宇宙の外を刻み始める。
もはや何も知る必要は無い、
そんざいは、いつもそこで満たされるものへと変わるから。