嘘の吐き方(うそのつきかた)
人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。
 



いつも何かを忘れようとしている
忘れているわけじゃない、【痛みに震えて動かないでいること】はもうやめたから。
そうした観念に縛られて、「なにもしないでいること」はもうやめたから。
けれど、忘れることを、やめることはできない。
人は忘れることによって、痛みから逃避するのだとしたら、
間違いなく僕は、逃げている方の部類に入るだろう。
だけどもし、君が戦うことを選ぶなら、僕もきっとそれを応援しながら、
戦う方に少しずつ向いていくんだろう。

だけど僕は忘れている
いつも何かを、大事なことを、本当につらいことを、考えることを、
そしてまた、君と戦うことを忘れている。

こころで向き合うことができなくなったんじゃないかと
気になったり不安になったりする
僕は僕自身と真剣に向き合うことができているだろうか?
おそらく、できていないから、君を忘れる道を選ぼうとする。
それでもまだ、なにかが、僕の糸を引く。
僕を立ち止まらせようとする。

切り捨てる道を選ぼうとする。
それでもまだ、選ぼうとするだけでは、『切り捨てる』ことはできない
同じように、忘れようとすることでしか、
忘れているフリをすることはできない。
結局それは、自分を欺いていることにしかならないからだ。

なにかが僕に語りかける
 「私と心で向き合って!」

痛い言葉だ。
突き刺さる言葉だ。
ずっと僕の中で、忘れられない言葉だ。
この言葉を忘れない限り、きっと君を忘れる事ができない。
そしてまた、僕が心を置き去りにして何もかもを忘れない限り、
あらん限りの力で人であることを忘れない限り、
君のことを忘れることはできないんじゃないかと、嘆きそうになる。
それを振り切って、
ただ、現実の日常の中に埋没していく...

君が心をくれたことには感謝している
そしてそれが痛みを伴うものであることにも感謝している
だけど僕は、矛盾し続けながら、その痛みから逃げている。

もう一度、君と向き合う日がくるとしたら、
そのとき僕は、どんな大人になっているだろう。
そしてまた、どんなこどもでいるだろう。

忘れるだろうか?
ぼくはきみをわすれるだろうか?

憶えているだろうか?
きみはぼくを、大人になった僕を、覚えているだろうか?
僕には見えない。
大人になった君の姿が見えない。
それはとても怖いもので、とても幸せそうな顔をしていそうな破滅だから。
鈍い痛みを思い出しながら僕は去る。

僕は幸せな場所には痛く(居たく)ない。
ただ、幸せでありたいだけなのだ。
僕は人を幸せにしたいんじゃない
僕は自分が幸せになりたいだけの子供なのだ。

もう一度、エゴを呼び戻す。
君と戦った日々を、
君に負け続けている現実を、
滅びの白い世界を。

もし、君の中にかすかな痛みを感じる何かがあるとしたら。
それが、きっと今の僕の姿だ。


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妄想が妄想であると気づくためには、妄想を一度真剣に浴び抜けた後、
そこに何も無いほどのがらんどうと絶望を備えていねばならない。
いわばそれが真剣に現実と等価値のものかどうか、
生と死のアンバランスさを揺り動かして真剣に世界と僕との天秤を揺らすものかどうか、
確実に死で蝕まれていく生と、
確実に妄想で染まっていく現実とのゆらめきの中で、
僕が意識する世界が、ほんとうにちっぽけでゴミ同然のものかどうか、
確かめる必要があったと思うのだ。

確かめる必要が、あった。

嘘を嘘とするために必要なのは真実が何か知っていなくてはならない。
比較対象となるほどの、切実で、大切な何かがそこに前提とされねばならない。
同じように、客観性で満たされるためには、
君たちが、僕と同じ身体で出来ているのか、
僕と世界と君たちが、同じ欠片から組成されるものかどうか、
なにがしかの繋がりにおいて、確かめなくちゃならないんじゃないのか?

その繋がりを確かめるために、
僕は君たちに、必死で手紙を書いた。
君たちの中から、君が選び出されたことは知ってる。
何人かの君が、僕の中からあぶり出されて、君と呼ばれる何かに触れそうになったり、
重なりそうになったりした。
何人かは真剣に僕の言葉を読んだし、
僕もまた、その何かに対して、もっと奥に見える何かに対して、
必死に向き合おうとしてきた。

そういうものは、期限とともに無慈悲に壊れていって、
やがてここには廃墟が残った。

しばらく僕は、君について考えることをやめた。
ここについて考えることも、ここに何かを書こうとすることもやめた。
嘘が嘘であるためには、ここがしっかりとした「廃墟」である必要があったからだ。

今一度、また過去と同じように続きを書くつもりは無いだろうと思う。
僕はもう冷静に、君と僕との間にハッキリとした境界線を敷けるほどの、
くっきりとした輪郭を手に入れてしまったから。
ぼやけてかすんでいた日常に輪郭が戻り、
僕が君と僕のどちら側なのか混乱することさえ、
なくなってしまったから。

こちら側に僕が残ったことは、
そちら側に手紙を書くことをやめる理由にはならない。
しかし、届かないという自覚、伝わらないという自覚、
より一層隔てられた現実、蒙昧とした知的な好奇心の薄れ、
多種多様な僕との出会いという行為の諦め
そうした変遷と死が繋がってしまったということでもある。

死について真剣に悩むことができるのは、生きている者だけだ。
死を体感し続ける生があったとしても、死に到達してしまったものはもうここには居ない。

それが、決別と呼ばれるものなんだろう
あるいはまた、決別と呼ばれるべきなんだろう。

振り返り、かすんでいく君を何度も確かめる。
何度も思いだし、何度も痛みを感じる
内側からの痛みと、外側からの痛みを比較する。
僕はまだ、内側からの痛みの方が痛い。
ある程度まだ、僕は子供でいるということか、
あるいは、もしくは、子供でいたいという甘えなのか。

もし、このまま記憶を許すことができるほど君を思い出して、
どれだけ思い出しても君に痛みを感じないほどに記憶が鮮明に壊れてしまったのなら。
その恐怖こそが、現実に【現実】が【僕】に勝ったことの証。
君が失われたことの証、僕が居なくなってしまったことの証明。

まだ大丈夫。
今は、思い出すだけで君の存在が痛い。
振り返ることをやめるときは、君をまっすぐにみているときか、
それとも、君をまっすぐ見つめることはとうに諦めてしまったときなのか、
今はまだわからない。
今はなんとなく君が生きているような気がしているけれど、
同じようになんとなく僕が日常を平和と感じているだけの
続きの延長線に、君が重なったり離れたりする可能性を感じているだけか。

等価な存在に憬れた。
君を現実と遠く離れた場所にだけ見つけ出して、
勝手に神格化して泣き叫んだ。
現実の中に、日常の中に君を見いだすことはなかったが、
現実であるがゆえに出会うことは出来た。
一緒に遊ぶことも、歌うことも空気をふるわせることもできた。
今はもうできない。
あるいは、もうしないと、したら苦しいと考えたり予想したりする僕が居る。
痛みに触れることに真剣であった僕が居ない。
たとえ君を壊してでも真剣に触れたいと願う僕がいない。

でも、なんとなく祈り続ける僕がいる。
それは甘えだろうか、記憶の余韻か。
それとも、それこそが僕の妄想か。

そういえば、君を諦めることを囁いた人は、
不思議と僕の周りから消えていった。
僕が突き放したのか、僕が彼らを現実に突き落としたのか、
それとも、彼らの心が耐えられなかったのか?
そのことに絶望はない。
真剣に彼らを呼び戻そうと願う僕も居ない
そしてまた、彼らと等価値の何かもまた、僕は側に見つけることができない。

ふと、思い出した。
僕が欲しがっていたのは、君のような熱いエゴ、
業の塊、いわば君の真剣な生き汚さのようなものじゃなかったか?
そして今の僕に足りないのも、
そういったハングリーさに繋がる何かじゃないか?
あるいは、生きることに埋没していられるアホさ加減とか、
幸せそうに何も考えないでいられる笑い顔とか、そういったものか?

客観と客体の違いもまだわからないや。
秘密と共有の線引きくらいは、できているような気がしても、
同じようにまた、暗黙知を押しつけるような秘密は、
嫌気がさすような大人の生き汚さか?

僕が立っている位置もまた、大人のそれか?
誇り高く死ぬことができなかったものはみな、等しく大人なのか?
振り返って子供の頃の昔話ばかりするのが大人か?
わかってないことをわかったフリするのが大人か?

僕はなんだろう
僕は今、真剣になにをやってるんだろう。
句読点を打つことにさえためらい、
自分の呼吸と違う文章を嫌い、
異なる言語や文化に憬れながら理解できず、
触れることを諦めている僕はいったいなんだろう。

嘘を真剣に検討した。
ここで暴かれる真剣に八つ裂きされる君の正体や、
僕の言葉からぎりぎりの嘘を読み取ろうとする君の馬鹿さ加減や、
僕という暴力の正体や、
まっしろに描かれるものへたどり着けないいらだちや、
他意識と俺と中間の僕と、隔たりから切り離した君や、
くっついたりはなれたりするあやしげな可能性についても考えた。
いまもまだ考えている。
結論は触れられないという自覚以外にまだ何もない。
それは世界から僕を切り離すという行為の、
一時的な切断面から見た視座の、
空虚な思い込みに過ぎないとしても、
僕はとりあえずそれを客観と呼ぶ。
(僕はそれをとりあえず客観とよぶ)

甘い日常に憬れたりはもうしない
けれど激しく絶望的な空白の虜になったりもしない。
僕はその中間を生きている。
僕はたぶん、君たちが思い出してくれる間だけ、ここに生きていられる。

触れられる行為の中でだけ生きている
死に到達できずに日常に縛られた間だけ生きている
ぶざまに大人と子供に囲まれたあいだだけ生きている
君に殺されることを諦めている間だけ生きている
僕が自暴自棄に逃げ出さない間だけ許されている
ぐるぐる巻き戻って同じ過ちを繰り返すあいだだけ生きている
天国も地獄も存在しない煉獄の区間だけ生きている
ふたりでもひとりでもない孤独をあじわう間だけ生きている
すばらしいこともうれしいこともたのしいことも気づかないでいられる時は生きている
幸せと独りの関連性に気づかない僕は生きていられる

おそらくは、きみがこれを読んでいる間だけ、その儚さとともに。
多くの犠牲になった時間の上に。

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