嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

純文学

2021年08月25日 15時45分59秒 | 再考
人の心の中には
時間が経つと
次第に
変わってしまうものと
ずっと変わらない大切なものがある

変わっていけない大切なことを
ずっと大切に保ち続ける為に
人は自分に手紙を書くのだと思う。

その一つの形が純文学で
あるいは芸術や美術だったりする。

心の形が変わってしまった時
見えている心象風景が変わる
以前と同じ景色を見れなくなったことに
人はどうやって気付けるのだろう

誰かを傷つけたり
誰かに傷つけられたりする度に
ようやくやっと
僕の心の時間が流れていく

僕の中にある大切なものを守るために
僕はまた、
純文学的な葛藤と
出会わないといけないのだろうか?
言葉という
時間によって洗練された記号を通して
僕は僕の中に 他者を見つけ出す。

考える葦?

2018年08月01日 22時59分24秒 | 再考

大人になると、考えるのをやめる?
仕事の事ばかり考えて、生きる事について、考えるのをやめる?

青年期、僕は生きる事と死ぬ事の境界線を探していた。
僕にとって生きる事は、
死にギリギリまで近づいて、
僕自身の迷いや問いに僕なりの答えを、【理由】を
見つける事だと思っていたし、
それをカッコイイとすら思っていたフシがある。
思春期の頃から、哲学者に憧れを持っていたのかもしれない。

最近の僕は、死ぬ事について、
何も悩んでいなかった。
だけど僕が死ぬ事について、
何も悩まないままに、
妻の心に寄り添うことなんて、出来るんだろうか?
本気で寄り添うということは、
妻が死にそうに悩んでいる時、
僕も同じように死にそうになるほど悩むってことじゃないんだろうか?

ということは再び、
僕はあの青年期のドロドロした葛藤の日々の中で、
僕自身が生きる事の苦しみを抱えて、
1日1日を、やっとのことで生き延びるような、
あの這いずり回るような、
地獄の苦しみの日々を繰り返すことを、
覚悟するってことなのか?

心療内科でカウンセリングを受けた。
自分にとって、とても危険な始まりであるような気がした。

眠れている日々を捨てて、
気が狂ったように考え続けて、
眠れない日々を過ごさないといけないのか?
そうしないと、僕は僕を再構築出来ないのか?

危険だ。

とても危険な事だと思う。
命の危険を感じるし、予感に近いものもある。
現在と未来の中間にある感覚を取り出そうとしている。

逆説的に考えて、
いま、ぼくは。
他者を理解しようと努めているのか。

吐き気は多分、
他者を知ろうとする時の、
自分の内側からやってくるものだ。
自分を壊して、他者を知ろうと、取り込もうとするから、
崩壊の吐き気がするんだ。

苦しみを知らない、か。
苦しみは知っているよ。

僕はただ、同じ苦しみを繰り返したくなかったんだと思う。
でも、新しい生命を得る為に、それが必要だと君が言うのなら、。
僕は再び、生きる事に苦しむ世界に立ち入ろうと思う。
それが僕等の未来に繋がっているのなら。

心をブロックしている先生へ

2015年06月12日 15時12分23秒 | 再考
強い意志を感じたので
こうしてメールする事自体、
ほとんど意味のない行為かもしれませんが

あなたらしく過ごして下さい
とあったので自分の在り方に正直に向き合っています。

ここ1年弱に起こった事を思い返して
考えてみましたが、
僕がそもそも先生に興味を持ったのは
通行区分帯違反?か何かで
朝のバスレーンを走ってしまい
警察に罰金取られて授業料のバイト代が貰えなくなった事に
ショックを受けながら
自分の過去の悩みを突然生徒全員の前で
赤裸々に語り出したり
脱線に次ぐ脱線で一体何を話してるのか
支離滅裂で
それでも心の問題に向き合い
コミュニケーションについて何かを語ろうとする姿が
妙に独特で周り中から滑稽に映る程一生懸命だったから
そのことがとても印象に残ったからです。

先生が帰った後
クラスメートの人達からは
「さっきの授業なんだったん?」
「これってテスト出なくね?」
みたいな授業が授業らしくない事への不満などが
色々と囁かれていましたが、
僕は逆にそこが異質で面白いと感じていたから
先生の事をもっと知りたいと思いました。
初対面の時には、私服だったことも関係してか、
それとも泣きそうな弱々しい姿を見たせいか、
僕は先生から女らしさを感じていましたが
居酒屋で着物姿の先生を見た時は
逆に堂々として頼もしい感じに見えました。

その他気になった点としては
友人が言っていた悪質な冗談に対して
「全然そんな関係じゃないですよ。」
と僕が全否定したのを
先生は「まだ会ったの3回目ですよ」
というような説明をしていたのが思い出されます。

他にも色々と考え直して
メッセージを読み返したり
思い返してみたのですが
僕の言動が僕の中で独り善がりの好き勝手自由我が儘
であることに反して、
先生の言動はいつも何かしらの戒律のような
不自由な檻に束縛されていて、
僕が指摘した正義感というのも
そこに繋がっているように思うのです。

そして今回急速に心の門が閉じられていったように感じていた
僕の受け止め方がじつは間違っていて、
じつはもっと長い時間をかけて君の中で
ゆっくりと心の門が閉じられていて
>ひとつ、昨日も少し伝えましたが、
>いままで思っていたことを伝えさせてください。
という言葉を書いた時、
すでに君の中でひとつの結論に閉じこもってしまったのだと
思い至りました。

結局のところ、僕の中で先生の気持ちを察する為の推論は
【僕から恋愛感情を持たれる事が無いように
一方的にコミュニケーションを断絶した】
という風にしか組み立てられませんでした。

相手の気持ちを無視して
僕らしく今ままでの心の有り様を
単なる感情的な印象として書いてみると
先生を女性として魅力的に思ったのは初めて会った日だけで
その他の日は、
いつも自分のフィールドに構えていて
必死に何かを守っている家族想いの孤独な人

という感じです。
好きかか嫌いかの二択で言うと
もちろん先生の事は好きですが
今はもう、特別な尊敬の念を抱いていません。
それに、僕の心には
いつも25歳の頃に知り合った本当に特別な女の子からもらった
感情の発露があって、
その女の子の声が内なる響きを持って
「私と心で向き合って!」
と時々波寄せるので
僕はその記憶の牢獄から出る気が全然無いのです。
その女の子は僕の人生で最も深くまで
僕の心を傷つけ、
僕はその女の子の事が忘れられないのです。
何度も喧嘩して何度も仲直りしたけど
結局僕の想いは通じないという結論に落ち着いています。

5年ほど前に付き合った彼女からは
「鋭志の心にはいつもその子が永住権を持っていて私の入り込む余地が無い!」
と言われました。

だから多分先生は、
僕の心を傷つけてもいないし、
僕の人生を左右するほどには
僕を混乱させていません。

だからもう先生は、
僕に謝ったりしないで下さい。
申し訳ないことも無いし、
恥ずかしい事も何もありません。
先生の方こそ、自分らしく生きて
あなたらしく家族を大切にして過ごしていって欲しいと思います。


いつも何かに怯えながら。

2012年02月05日 23時34分34秒 | 再考
正しいことのために生きている人間と
面白いことのために生きている人間がいる。

正しいことをしている人と話していると
正しいことをしなくちゃいけないような気がしてくる

面白いことをしている人と話していると
面白いことをしなくちゃいけないような気がしてくる

損得勘定で生きている人間と話してると
自分の損得について計算しはじめてしまう

問われているのは主体性だったはずなのに
結局僕は流されて生きているだけなのか。

正しさの中にいて
正しい呼吸をしていると
グッと息が詰まる
そんな正しさのためだけに生きている人に
僕の正しさを話したところで
結局否定されて傷つくだけなのだ。

ただ、目先の面白さだけを追い求めて
快楽のために生きていると
夢中になれない自分を思う。
時間の辛さを自覚する。

僕は正しい時間の中にも
面白い時間の中にも居られない
一人で生きていくことは出来ないけれど
一人でいる時が一番落ち着く

水の中で
あるいは
水に包まれているときが 一番こころが落ち着く

熱を伝えるのが水だからなのか

僕は何のために生きているだろう
死ぬためだけに生きていた時間は終わった
生きることをただただ恐ろしく感じていた時間も終わった
生きることが辛さと痛みだけの時間も終わった
孤独からずっと目を逸らすことが出来なくて苦しい時間も終わった
僕の中でさまざまな命題が終わっていく

これが死に近づいていくことなのか。

今はきっと責任が怖いのだと思う。
生きることの責任は、自分でしかとれないと、
知ってしまったから。

私がわからなくなるとき、私は死ななくなる。

2011年11月11日 21時36分36秒 | 再考
気付いた。

人は「死ぬ」んじゃなくて、
この世界にずっと居たままで、
極限無意識に薄まるだけだ。
人は産声と共に生まれるわけではなく、
生まれるという儀式を通過するだけで、
ゆっくりと覚醒する。

変化と変化の中に
【同じ】という意識的な[私]というフレームを
発見できなくなるだけで、
無くなるわけでもなく、
もともと出現したわけでもないのだ。

何か僕は誤解していた。
死んだらこの世界から解放されて、
全く想像もしない
超絶世界にいけるのかと勘違いしていたが、
そんな瞬間移動みたいなことではなく、
単に痛みを理解することが出来ないほど、
【あちこち】に薄まるだけなのだ。

だからきっと、大事な事は、
生の中に死を発見することよりも
[私]と[私]の間に心を発見することの方が、
心の在処を見つけて実感することの方が、
より人間らしいんだと思う。

私をより強く思い込み、
【私】として過剰に
確固たる私という強い引力に縛られるほどに
私は死がおそろしくなるのだ。

だから、我を溶かすことに成功すれば、
もうあまり、死なんて恐くはないのだと思う。
私が私である限り、私は死ぬ。

あくびが出るほど長い文章を見つめて。

2008年08月03日 11時48分47秒 | 再考
>「未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴なる死を選ぼうとする点にある。それに反して、成熟した人間の特徴は理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある。」
というヴィルヘルム・シュテーケルの言葉があります。

攻殻機動隊のTVシリーズ(笑い男事件)にも出てくる引用文ですので
知っている方もいるかもしれません。

僕はついさっきまで、この文章を誤解していました。
成熟した人間は、理想よりも現実を、
卑小な生を選ぶことで理想を捨てるのかと思っていましたが、
「理想のために」→「卑小な生を選ぶ」という風に繋がっていたのですね。
この世界に子供を託すという行為と、繋がっているのかもしれません。

今、悩んでいる問題が解決したら、僕は少しだけ大人に近づくのかもしれない。
それと同時に、今度はもっと新しい、重い苦しい問題を背負うのだと思う。
それをわくわくする出来事だと受け止めるか、
どよどよとつらい出来事だと怯えるかで、
僕の出す答えは違って来るのかもしれない。

心構えを、もう少し前向きに改善したいと思う。
流されていく日常の中で、せっっかく自分を振り返っているのだから、
その振り返って悩んだ時間は、自分を改善する時間にあてていきたい。

未成熟であることだけを見て自分を恥ずかしいとは思わないけれど、
人と話せなくなっていく自分を見つめるのは恥ずかしい。
もう少し、もう少しだけ力を振り絞って前にでよう。
あと一歩、あと一歩だけ前に出れば、毎日の繰り返しで、
少しずつ進んでいく。

心にブレーキをかけ続けて鳴いている時代が終わっていく。
僕が泣くときの涙は、誰かのために使いたい。

そう、感じて進んだ。