嘘の吐き方(うそのつきかた)

人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。

読書の余韻

2010年09月09日 17時58分41秒 | 読書
小さい頃は、漫画を読むのが大好きだった。
それに比べて、僕は小説を読むのが苦手な子供だった
決して想像力が豊かな方とは言えなかったし、
僕はいつも自分が生きるために金勘定をして、
どうやったら日々の暮らしをより効率よく切り詰めることが出来るか、
そんなことを電車に乗りながら冷徹に考えているような子供だった。

しかし漫画を読んでいる時は夢中だった。
その世界に没頭し、まわりの時間を忘れてハッとなることや
漫画を買いすぎて親に怒られることすらあった。

中学生の頃、読書感想文の宿題をやるために
僕は嫌々ながらも、活字ばかりの小説を読んだ。
どちらかと言えば耐えることばかりで中に入り込むことの難しかった
昭和文学だが、僕はたまたま題材として
武者小路実篤の「友情」を選んだのだった。
友情について、多くは語らない。
ただ、そこで泣きながらその本を読んだことが、
結果的には、僕にたくさんの友達を作ることに繋がったし
それ自体は後悔はしていないし、むしろとてもいいことなんだと思う。

同じ本の後ろに収録されていた短編エピソード、
「愛と死」それが僕に影を落とした。
自分の行為のすべてを文学のせいにすることなど許されないが、
愛と死は、知人の妹を愛してから失うまでの話が
克明に描かれた短くて小さな悪く言えば些末とさえ言えるような
もの悲しいエピソードだった。
そこに塗り込められたストーリーの、
どこまでが体験に基づき、どこまでが空想の産物で、
どの程度フィクションなのか、僕にはわからない。
ただ、今の僕にわかることは、武者小路実篤の書いた小説は
幼い少年の心を深くえぐり取るような、喪失のエピソードによって練られているのだ。
そのテキストで編まれた残滓を、僕は思春期の心でまっすぐに見つめてしまい、
そこから熱っぽい情の籠もった不安を読み取ってしまったのだ。

愛したものは死んでしまい失う
友情を信じた者は葛藤の中でそれを破壊する
それは弱さと幻想の走馬燈だ。
小説で走らされた想像力の軌跡は、燃え尽きる一瞬が鋭く輝く流星だ。
流れ星の尻尾が長く続くほど、
僕の残滓は尾を引いてしめっぽく苦しく燃える
そこに映った想像力の造形が苦しくて、
僕はより一層、小説から離れていくのだ。

もう少し、夢を追う物語を、
僕は丹念に少しずつ食べるべきだった。
読むことを決して後悔することのないように、
終わらない果てしない物語を読むべきだったのだ。

中毒性を持った活字が語りかける
物語の終わりを、僕は期待しながら読み進める。

まさしさんへのオヘンジ

2010年09月04日 21時00分59秒 | Weblog
まさしさん、コメントありがとうございます。
なぜかわかりませんが、読解するのに時間がかかり、
2、3回読み直してようやく意味がわかりました。

親父とお袋のセックスの結果として、
僕という赤ん坊が生まれたって意味だったんすね。

残念ながらというか、なんというか。
小学校の時には、すでに僕たちは性の欲望の海に
無防備な状態で投げ込まれていたと思います。

僕が初めて他人のキスシーンを目撃したのは、
幼稚園の時でした。
同じクラス(クラスって言うんだろうか)の
女の子が男の子にキスしてたんです。
その頃にはすでに、女の子はラブソングを歌っていました。
これはもちろんメディアの影響やなんかで、
実際に内側から発露されたものなのかどうかは、
非常に疑問はあるのですが。

僕がいささか疑問であるのは、
性欲、食欲、睡眠欲、
それぞれを満たそうとすることによってしか、
僕らは何も成し得ないのか?
ということです。

社会からの経済的圧力によって
いわば去勢された状態にあるのが現在の自分の姿であり、
あるいはまた、そのような社会圧力が無かったとしても、
僕は僕自身の考え方の鉄格子によって
性に対する鍵をかけた人間です。

ただ、子孫を残すことだけを目的意識とするのであれば、
そこに特別な教育は必要無いと思うし、
子供達がよく質問する
「どうして勉強しなくちゃいけないの?」
という問いにまっすぐ答えることはできません。

また、進化のメカニズムの方に目を向けるならば、
原生生物の三すくみ状態が崩れて
今のような動物の進化があるのだという説もありますね。

しかし僕はそのようなものとはまったく異なる水準で、
哲学的な意味を満たそうとしなければならないと考えます。
問をたてるのが哲学だとすれば、
もしかしたら全く違う学問のジャンルになるのかもしれませんが。
僕はもっと、抽象的で万能な水準で、
いわば言葉のクスリのような形で、
どうしても、生きることに意味を与えないといけない時代が来ているような
そんな観念に駆られてしまうのです。

すべてが僕自身の個人的な懐疑と
コンプレックスの発露でしかないのならば、
単純に僕が死ねば解決する程度の問題です。
しかし、僕は僕が抱えている問題は、
現代の若者に通じる文化的問題、
共通の社会意識の問題のような気がするのです。
それらを解決せねば、今は僕の心が満たされないのです。

もし、暴力で問題が解決するのであれば、
社会の問題なんて戦争とレイプで弱肉強食にすればいいんです。
「弱い生き物は死ぬ。」ただそれだけの単純な原理でいいのです。
だけど僕らは秩序の中に生きている。
そしてその秩序のシステムは、
常に僕らを拘束しながらも、前へ歩かせようとする
暴力的性質を持っています。

クマムシという生き物は、
体から水分を排除し、自らを乾燥させることによって、
眠りではなく、仮死状態を作り出すことの出来る
独特な生き物です。
それに比べて、僕たちの生態システムはおそろしく軟弱で、
やはり食べ続け、眠り続け、老化(成長)することからは免れません。
そこに僕は意味を与えたいと思うし、
意味を勝ち取りたいと考えます。
それは一つの生きる価値となりうるものだからです。

長くなってしまいましたが、
>我々は所詮動物なのである。欲望のままに
>行動するのもありなんじゃないかと思う。

と、短く二行にまとめたまさしさんに、
楽観的で前向きな空気を感じて
少しだけ応援する気持ちの僕もまた、
ここにのんびり存在していることを付け加えておきます。