5月13日に死去したホセ・ムヒカ元ウルグアイ大統領の追悼記事が15日付の朝日新聞社会面に載っていた。89歳。
農民で、過激派都市ゲリラ・ツパマロスのメンバーを経て、囚人、のちに政治家に転じて大統領をつとめ、引退後に農民に戻った。収入のほとんどを寄付し「世界で最も貧しい大統領」とよばれて世界中に知られた。
記事の中で、元ウルグアイ大使の真銅竜日郎氏が5年ほどまえホセ・ムヒカ氏の自宅を訪ねて、桜の木を贈った時のエピソードが語られていた。
「わしは近い将来、天に召される。わしの亡きがらは、この桜の木のそばに埋めてもらい、土にかえって、桜の花がきれいに舞うのをながめたい」
元大統領はそうつぶやいた。
ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃 西行
私はオマル・ハイヤームのファンで、ルバイヤートの日本語訳本が出ると買い込んで積読するのをならいとしてきた。森亮訳、高遠弘美訳、黒柳恒男訳、岡田恵美子訳、陳舜臣訳、小川亮作訳など。とはいうものの、手に取るのはたいてい小川亮作訳『ルバイヤート』岩波文庫版である。その文庫版の解説にオマル・ハイヤームの弟子だったネザーミイ・アルーズイが書いた『チャハール・マカーラ』の中にある次のような文章が引用されていた。オマル・ハイヤームが他界した数年後の1135年ごろにネザーミイ・アルーズイがネイシャプールにある師の墓参りをした時、
「彼の墓はとある土塀の直下にあって、その塀を越して数本の梨の木と桃の木が枝を垂れかけており、墓場の上にはおびただしい花びらが地面の見えないほど堆く散り敷いていた」
小川訳の『ルバイヤート』はいう。
幾山川を超えて来たこの旅路であった、
どこの地平の果てまでもめぐりめぐった。
だが、向こうから誰一人来るのに会わず、
道はただ行く道、帰る旅人を見なかった。
いつの日にかネイシャプールを訪ね、オマル・ハイヤームの墓に参るのを楽しみにしてきたが、インターネットでオマル・ハイヤームの墓があったあたりにモニュメントがたてられ、すかっり記念公園の風景になっているのを知った。
(2025.5.30 花崎泰雄)
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