老後の練習

しのび寄るコドクな老後。オヂサンのひとり遊び。

『血の婚礼』

2011-07-27 20:29:06 | 演劇


金曜の朝にニッポンに着いて、もうきのうまたコッチに戻って、こうして、喧騒と悪臭と、ウシのように自己主張をぶつけ合う日常の中にいる。忙しいようでのんびりしているのはムダな通勤時間とかがないため。7時にカイシャを出て、7時15分には家のソファに倒れ込んでいたりして。

今回ニッポンでは2つ芝居を見て、結果は1勝1敗。まずは1敗のほうから。
コレは金曜の夜に西巣鴨の、廃校になった小学校の体育館で見た芝居で、大袈裟な舞台セット、1時間以上雨が降り続けるという大げさな仕掛け、絶叫するばかりでナニ言ってんだかちっとも聞き取れない、外見がいいだけのダイコン役者たちの大げさな演技、ソレと既に時代遅れのニナガワさんの大げさな演出、作られた高揚感というか、みんな、盛り上がってるかーぃ、みたいな、、それでいて重要な中身は一体何だったのかと思わせるような空虚なはなしの展開。

でそのはなしは、、結婚式の日に花嫁を奪って逃げたオトコと、その花嫁=オンナが都会で既に別れて生活している。そこに田舎から逃げられた花婿の親兄弟が出てきて、決着をつけろ、みたいな感じでオトコとオンナに迫る。で、オトコと元花婿が雨の中でナイフと何かで刺し違えて両方死ぬ。だから血の婚礼。
路地がテーマ?なのかどうか知らないが、路地の下に路地が埋まっている、みたいなことを言いながら、太鼓をたたきながら通り過ぎる霊魂の行列のようなモノが繰り返しその路地を通り抜ける。意味わかんねー。
伊藤蘭ちゃんが重要な役で出ているがその姉がイモムシだか何かになって家の中で呻いている、とか言う設定で、重要なところのセリフがテープで流れる。あるいは、あるいは、みたいな、むかしのそういう時代もあったなあ、と思わせる、いま見れば古臭いとしか言いようがない、文語調のもったいぶったセリフの連続が白々しく体育館の寒々とした空間に響いた。

プログラムに何人かが書いていたが、体育館とは避難所であり、、みたいな話とか、何かの比喩として電車が通り抜ける場面(2度も)で、電車が来るぞーっていうセリフが、津波が来るぞー、とも聞こえるとか書いていて、だからナンなんだ、としか思わなかった。その電車のシーンにしても太鼓のシーンにしてもとにかくしつこい。同じことの繰り返しというのは、時間のずれみたいなものを感じさせる芝居の手法としてあるのだろうが、この前見たままごとの「わが星」のような効果は感じられなかった。
あと、ニナガワさんの営業方針なんだろうが、演技力のカケラもない有名俳優を客寄せとして連れてきて、とにかくひたすら絶叫させるというやり方、絶叫していればなんとなく感情があらわれているように見えるという見せ方、主役の、名前よく覚えてないが窪ナンとかさんは悲惨でしたね。本人は芝居に生きる場所を見つけた、みたいに書いているが明らかな勘違い。

たしかに20年前に芝の増上寺で平幹次郎の王女メディアを見てワタシはカンドーしてしまい、あといくつか同じようなのを見た記憶があるのだが、時代が変わったのか、ワタシが変わったのか、薄っぺらな見せモノにしか見えなかった。脚本そのものは今風に解釈すればもっとオモシロくなると思うんだが。

2011.7.22 西巣鴨、にしすがも創造舎。

最新の画像もっと見る