人々との楽しい出会い・・・

    急がず、焦らずゆっくりと~~

二条城(元離宮)・・世界遺産~~2

2006-09-30 20:15:30 | 神社、仏閣、名所、

今日は、

    二の丸庭園(特別名勝)

 小堀遠州が、作庭した池泉回遊式庭園で、神仙蓬莱の世界を表現したものです
池の中央に蓬莱島をその左右に鶴島と亀島を配し四つの橋を掛け西北隅に滝を設けています。
当初は、大広間からの景観に重きを置いたが、御殿からの眺めを考慮し改修が加えられ近年新たに植えられた、梅,桜、椿などが、季節の彩を添えています。

           

    二の丸御殿(国宝)

 武家風書院造りの代表的な御殿建築で、車寄せ、遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の六棟が、東南から西南にかけて雁行に並び建物の総面積3,300平方m、部屋数33、畳、800畳余り

各部屋の障壁画は、狩野派の手によるもので、部屋の目的に応じ描かれています。

欄間の彫刻、飾り金具、長押に打たれた花熨斗形の釘隠し等は、金飾あざやかに豪華を極めています。御所東北には、台所・御清所(おきょどころ)が有りいずれも重要文化財に指定されている。

    車寄せ

 唐門から入ると業火に装飾された車寄せ・・
欄間彫刻には表と裏のデザインを変え、表側には、五羽の鶯鳥、松、ボタン、上部には、雲、下部には、笹を見る事が出来る。
屋根は、桧皮葺き(ひわだぶき)、床は、牛車で中に入れる様に四半敷きに為っています。

    遠侍の間 (とおおさむらい)

 八部屋からなる二の丸御殿最大の建物、遠侍とは、家臣が伺候する部屋を指し、二条城では、諸大名の控えの間に当てられた。

一の間、二の間、三の間、若松の間、勅使の間、などに別れ主室は、北奥に設けられた勅使の間で天皇の名代として訪れた勅使を将軍との対面に先立って通した部屋である。

一間から三の間は、虎の間とも呼ばれ竹に虎と豹が襖に描かれています
玄関近くの間に虎を画材として選ぶのは、権威を示す為当時の障壁画の約束事だったらしい

           
               お庭から見た、勅使の間と式台

    勅使の間

 ここは、将軍が、朝廷からの使者を迎えた対面所、上段に勅使が座り、将軍は、下段に座っていました。

    式台

 遠侍から雁行して式台が有ります。ここは、家臣の為の部屋で将軍に従って入洛した幕府の老中が詰めていた部屋。将軍への献上品は、この部屋で取次された
この部屋の襖絵は、狩野探幽が、描いたものである。

           
                  お庭から見た大広間

    大広間・・一の間、二の間

 将軍が諸大名と対面する場で二の丸御殿の中でも最も公的な意味合いを持つ重要な場所。
周囲に入り側縁を巡らし、主室である上段の間(一の間)と框で隔てた下段の間(二の間)を合わせると92畳の広さ・・さらに三の間、四の間、が矩形に続く、四の間は、警護の武士が控えていた事から「槍の間」とも言う。
上段の間には、床、違い棚、帖台構、付け書院を設け格式高い書院の設えで、二重折上格子天井。二重に成っている所が、将軍の御座所です。

 この部屋で慶応3年(1867年)10月、15代将軍慶喜が諸大名を集め「大政奉還」を発表した歴史的な場所です。また、二の間は、御水尾天皇の行幸の時、南庭に造られた。能舞台の見所にも使われたそうです。

 四の間、将軍上洛の時、武器を収めた場所、とも言われ、襖絵は、老松に鷹が描かれ狩野探幽の作と言われている。

           
                  お庭から見た黒書院

    黒書院

 大広間から蘇鉄の間(板敷きの大部屋)を経て雁行して黒書院に至る。
大広間と同じ入母屋造り本瓦の建物。小広間とも呼ばれ一回り規模が小さい。将軍の内向きの対面所、お部屋飾りは、技巧的で、襖絵は、探幽の弟、尚信の作品。

    白書院

 二の丸御殿の最奥に有る白書院は『御座の間』と呼ばれ将軍の居間や寝所として使われた。
内部の装飾も大広間や黒書院とは趣向が異なり居間に相応しい水墨山水画と成っています。絵画は、狩野興以または、長信の作です。

 車寄せからお玄関を入りどの廊下も総てうぐいす張りの廊下・・歩くたびに「キュッキュ、キュッキュ」と優しい音が響きました。

    台所

 雁行する御殿群の東に、大小二棟の建物がつながっています。北側の大きい方が台所、小さい建物は、御清所(おきょどころ)と言う。両者は、一体に使われ台所および御清所で食事の調理を行ない料理の盛り付けや配膳を行った。

御清所・・料理の間には、囲炉裏や井戸が有り天井には、煙出しが、設けられています。

台所・・通しの間、囲炉裏の間、お膳所控えの間、お膳所、板間、見張り台、土間、などで此処にも夫々天井に煙だしが、設けられていたそうです

 現在は、細かく区切られずに大きな一つの板間に成っていましたが、お部屋の隅に木枠で造られた流し台や水入れの箱などが残されていました。

夫々のお部屋には立派な障壁画や襖絵、欄間の彫り物など当時のまま残され書院造の内部も素晴らしく写真に収める事が許されぬ為UPする事が出来ないのが残念でした。

 

 


二条城(元離宮)・・世界遺産~~1

2006-09-27 18:05:36 | 神社、仏閣、名所、

   今日は

   二条城(元離宮)・・世界遺産
 
            
                      二の丸御殿 

 二条城は、1603年(慶長8年)徳川初代将軍家康が、京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所として、造営し、三代将軍家光が、伏見城の遺構を移す等して、1626年(寛永3年)完成したそうです。

豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構と家康が建てた慶長年間の建築と家光が作らせた絵画・彫刻などが総合された、桃山時代様式の全貌を見る事が出来るのです。

徳川家の栄枯盛衰のみならず、日本歴史の移り変わりを見守ってきたお城なのです

1867年(慶応3年)15代将軍慶喜の大政奉還により、二条城は朝廷のものと成り、ついで1884年8明治17年)離宮となり、1939年(昭和14年)京都市に下賜されました。
2000年(平成15年)築城400年を迎えました。

             
                        東大手門
 
 屋根は、本瓦で入母屋造り、妻は木連格子、棟には鯱が飾られ、形式は、櫓門で石垣といしがきの間に、渡し櫓をわたして、その下を門とした形式に成っています。                       
 東大手門
              
                        東南隅櫓

 二条城には、寛永期に建てられた隅櫓が本来四隅に有りましたが,天明8年の大火の際東北隅、西北隅の両櫓が焼失し、今では、この東南櫓と西南櫓だけが残っています。っています。                       東南隅櫓


            
                
        番屋

 徳川将軍不在の二条城は、二条在番と呼ばれる。江戸から派遣された武士により警備されて、毎年2組(一組50人)が、4月に交代をして番に当り、この番所は、そうした詰め所の一つで正面十間(19.6M)奥行き三間(6.06M)の細長い建物、現在、番所の遺構は少なく、貴重な建物。

             
                         釣鐘

 幕末の政変期、二条城と北側の所司代との連絡に使われていたもの・・
明治時代、二条城に京都府が置かれた時も非常時に備え使用されていた。

幕末の政務の場であった二条城と所司代は、幕末の混乱の中、朝廷側との政争で、緊迫していた薩摩・長州などの朝廷側の動向に備え鳥羽伏見の開戦など非常時の連絡告げ住民にも知らせる為にも鳴らされた。

             
                   唐門横の植え込み風景

             
                  二の丸の入口『唐門』

切り妻造り、桧皮葺きの四脚門で、その前後は、唐破風造りと成っています。彫刻がふんだんに使われています。

             
                       二の丸御殿

 桃山時代の武家風書院造りの代表的なもので、車寄せに続いて、遠侍(とおさむらい)、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院、の6棟が、東西から南北にかけて雁行に建ち並んでいます。
建物面積3,300平方メートル、部屋数33、畳は、800畳あまり敷かれています。
(二の丸御殿の中は、撮影禁止の為、写真は、撮れませんでした。)

             
                   お庭から見た二の丸御殿

             
                   お庭から見た二の丸御殿

             
                  素敵な松が植えられていました。

             
                   之より二の丸庭園へ・・・

今回、タイミングよく9月15日から11月26日まで「二条城、お城祭り」が催され春、秋二度「本丸御殿」特別拝観の時期とも重なり、先日行って参りました・・
お庭のみの撮影許可・・御殿の中は、総てダメ・・という事で残念ながらお庭の写真だけでお許し下さい
次回は、素敵な庭園を見ていただこうと思って居ります


             


             

          ば   ば
                b                                          
            


総本山智積院・・・(真言宗智山派)~~4

2006-09-23 15:00:47 | 神社、仏閣、名所、

       今日は、  

 智積院の奥書院のお庭の紹介です。   

        
             大書院の入口近く

        
              大書院の廊下です

        
            柱の釘などを隠す「釘隠し」

        
             奥書院への渡り廊下

        
            古い井戸が有りました。

        
           中庭は、箒の目も鮮やかに・・

        
            大きな「つくばい」です

         
            奥書院へと続きます

他にも奥には、色々な建物がマダマダ有ります。大師堂や寝殿など有りますが拝観制限の為立ち入る事は、許されませんでした。

尚10月6日は、中秋の名月、「観月会」も催されるようです。
その日には、庭園もライトアップされ、寝殿特別公開も有ります。
密教瞑想の体験、大蔵流狂言公演、お月見弁当を頂きながらの「観月会」キット楽しいものでしょう・・

    観月会のお問い合わせは此方まで智積院

        
        
               


総本山智積院・・・(真言宗智山派)~~3

2006-09-21 14:00:30 | 神社、仏閣、名所、
  今日は、

智積院の障壁画
桜図
<床の間松に立ち葵の図<桜図<松に秋草図<書院窓より見る<縁廊下から見る>


        マウスオンして下さい。(熊子通信さまよりお借りいたしました。)

    
     「国宝障壁画」が収められている収蔵庫です

本物の「国宝障壁画」はこの収蔵庫の中に収められていました。
写真撮影は勿論許されません

重い扉を開くとお蔵の中は、ヒンヤリしています。照明も抑えられたその中には、四面の壁面イッパイに長谷川等伯一派の障壁画が、・・
「楓図」、「桜図」、松に秋草図、黄蜀葵図、雪松図、松に立ち葵図が、収められ過去何度かの不慮の災禍に遭い原型の四分の一以下にカットされてしまったそうです。

桜図は、長子久蔵の25歳の作で2本の桜を中心に空間には、しなやかな枝、画面全体胡粉で盛り上げた立体感を出し画面は、大胆な構図のもと、金と白を基調とし、春爛漫の景を描き出しています。

楓図は、等伯が、自己の生命力を画面一杯に傾け楓の図を描きだしました。
紅葉や秋草の写実性、空や池の抽象的な表現色彩は、コントラストとパステルカラー調の配色を施し絢爛豪華に描かれました。

今回マウスオンで紹介させていただいた「障壁画」は大書院に飾られていたレプリカですが・・
少しでも長谷川等伯一派を偲んで頂けましたら幸せです。


総本山智積院・・・(真言宗智山派)~~2

2006-09-18 14:55:59 | 神社、仏閣、名所、


 今日は

   智積院

      
          庭園への入り口です
    
   門の直ぐ側に「とろろ葵」の花が、咲き誇っていました。           

    今日は、お庭の様子を9枚のアニメで、ご覧下さい。
  
     

     ご門を入ると直ぐに歌碑が、建っていました。

     『ひらひらとつくもを ぬひて落花かな』
 
このの句は、高浜虚子(1874~1959)昭和5年智積院を参拝された時に詠まれたものです・・・
(明治、大正、昭和の日本俳句界に大きな足跡を残された巨匠です) 

智積院の庭園な、利休好みの庭と伝えられ、正面右側、石橋より奥の方は、祥雲禅寺時代のもので、桃山時代の特色ある刈り込みを主として居ます。

中央の築山は、阿弥陀ヶ峰の山麓を利として造られ江戸好みの感じを出しています。之は、第七世運敬僧正に依って修築され、池は、寝殿造りの泉殿か釣殿を思わせます。

このお庭は座って拝見するお庭で、長い時間、縁に座り緑多いお庭を眺めていると寝殿造のため床の下から突然「鯉」が現れたり、何時の間にかゆったりと時間が、過ぎ行きホッコリとする時を戴きました。

書院の入り口近くには、「お茶室」も設えられひなびた佇まいがトッテモ素敵でした。

今回訪れてみて、心に余裕をいただけた事が何よりでした・・
手術前の恐怖心も此処で全部忘れ去る事が出来、新たな強い決心を戴く事が出来た事に感謝して居ります。

5月中旬から6月上旬に掛けてのつつじやサツキの頃には、一段とお庭も艶やかに成り又、今日とは趣きも変わるそうです・・その頃又尋ねて見たいものです・・

次回は、「国宝の障壁画」のご紹介が、出来れば・・と思って居ります。


総本山智積院・・・(真言宗智山派)~~1

2006-09-16 19:16:16 | 神社、仏閣、名所、
今日は少し

九月の始めお墓参りの帰り、何時も素通りしている「智積院」に寄って見ました。
(七条通りの東大路通りの突き当たりに有ります近くには、三十三間堂や京都博物館、京都女子大学等も有り皆様良くご存知だと思います。)

真言宗智山派の総本山です。真言宗は、弘法大師空海上人により開かれましたが、300年後の平安末期に興教大師覚鎫上人が、現れ衰徹した宗風と真言教学を振興し、刷新されました。

智積院には、長谷川等伯一派による国宝障壁が有ります。

そして利休好みの庭とされる中国の盧山を形どって造られた築庭の極限を表現し、江戸時代好みの名勝庭園等・・特に五月下旬から六月下旬にかけてのサツキの頃が、お庭に一段と艶やかさを添えてくれるのだそうです。

<>


    マウスオンで、金堂への道に続きます
        
金堂への道拝観者用の門をくぐると・・前方に石畳が,続き緑の木立へと続きます。
木立の奥に金堂木立の奥に赤い柱、そした、大きな屋根が現れました。
金堂です 元禄14年(1701)智積院第10世専戒僧正が発願し桂昌院(綱吉の生母)より金千両を基に宝永2年(1705 )春に建立明治15年に火災にて焼失現在の金堂は、弘法大師1200年生誕記念として昭和50年に建立。


金堂の隣のお隣に大きな蓮池が有りましたが、残念な事にお花の時期は、終わっていました。

不動明王殿智積院のお不動様は、紀州根来伝来の霊験荒高な、お不動様で、農民の「麦つき」と言う辛い農作業を代わって下さったので「身代わり不動」とも言われている。
仏足石 金堂から少し降りた所に大きな石に仏様の足跡が刻まれて有りました。


収蔵庫の中には、長谷川等伯一派の「楓図」、「桜図」や秋草図」などが国宝障壁画として治められ
撮影は、禁止されていましたが、書院の方でレプリカの撮影許可されていました。
次回にでも掲載出来れば・・と思って居ります

錦界隈・・・

2006-09-12 12:56:05 | 日記
今日は朝からです


入り口の近くのお漬物やさんで・・・



    マウスオンしてみて下さい
    
     ( 試食は、ご自由にでした。)

錦市場界隈には生麩で有名な「千丸屋」さんや京料理の「近又」さん昆布細工などの「ぎぼし」さん・・・
等有名なお店が左右の通りには、イッパイ有ります。

京料理の近又さんです。錦通りを少し下がった西側に格式有るお店構え・・・年代を感じました。
錦天満宮の鳥居です

この鳥居は、鳥居の上の部分が両側のお店の二階部分に入り込んで建っています
以前から鳥居が建っていた所に両脇からお店がせり出してきた為この様な格好になったのだそうです。

清めの清水名水が滾々と湧き出ています名水を戴きに見えていました
守護神の牛さん

お参りの皆さんに撫ぜてもらってか・・ピカピカに輝いていました。
錦通りの突き当たり・・
新京極の東(修学旅行さんのメッカ)賑やかな繁華街の一角に錦天満宮は、有りました。