人々との楽しい出会い・・・

    急がず、焦らずゆっくりと~~

天満宮、御土居の梅苑

2007-02-26 16:15:28 | 神社、仏閣、名所、
御土居の梅・・

御土居
梅苑西側に天正19年(1589)豊臣秀吉が、京都の整備事業の一環とし、京洛の区域を定め、その境界と水防の為京都の四囲地に築造した史跡。

「御土居」(国指定史跡)の一部が残存している。その横を流れる紙屋川は、往古紙漉の川として利用されその名が今も残されています。

御土居畔の梅は、枝垂れ梅等も有り梅苑の梅より少し遅咲きのようでした。
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可愛いピンクの枝垂れ梅が、青い空に映えています。
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天満宮の梅苑・・

2007-02-22 19:59:37 | 神社、仏閣、名所、
北野天満宮の梅苑

梅苑一円には、約50種類、2000本の梅ノ木が有ります。紅梅、白梅、共に一重咲きや八重咲きと有り京都髄一の梅の名勝として、有名です。

「梅花祭」
2月25日道真公の命日には、梅をこよなく愛したと言う故実にちなみ本殿に梅花御供を供え境内に野点席が設けられ上七軒の芸舞妓さんによるお点前が披露されます。

梅苑に入るとお茶券が戴け梅を見乍ら皆さん床机で一服です。
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青空に白梅が映えます
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まだ、7分咲きくらいの感じですが、梅の素敵な香りが当たり一面に広がり広い園内には50種類の紅梅、白梅が植えられていますが皆んな良く似ていて一重や八重の区別位は、付くのですが・・夫々色々と種類が分かれているのでしょうが、唯、綺麗綺麗と眺めるのみでした。

梅苑の西側には、豊太閤が築かれた史跡「お土居」の一部が残って居ります、其方には、枝垂れ梅が植えられていますが少し遅咲きのため蕾がまだ堅くもう少し先の様でした。





二条陣屋(国指定重要文化財)

2007-02-12 19:04:20 | 神社、仏閣、名所、
二条陣屋
江戸初期に建てられた特別な構造を持つ町家住宅。諸大名の宿舎として用いられ防火建築、陣屋建築、数奇屋建築として、昭和19年国宝に指定、現在国指定重要文化財として現在現存しています。小川様ご一家は今も此処で生活されています。

(入り口付近意外撮影禁止の為、館内で購入の絵葉書ならびにパンフレットの写真を使用させて戴きました。)

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当主、小川家の出身は、奈良県吉野郡小川郷、小川土佐守は、豊臣秀吉に仕え、数々の功績を残しその後長男の千橘が、町人として世に出て江戸時代初期寛文10年(1670)頃、米、両替商を営み、二条城に出入りを許されていた御用商人が建てた町家で、参勤交代のため京都に立ち寄る大名の宿舎として利用され「陣屋」と成った。(部屋数、一階に十一室、二階に十三室の邸宅)大名たちが宿泊する為に色々な警護も必要になりその為の邸内には色々なからくりが仕掛けられたのです。

大広間
大名達の宿泊する部屋、書院造りで、室内の戸、障子は、総て差し込み栓で戸締りが出来天井の一部の引き戸は採光のためと同時に階上の武士だまりに通じ何か起こると直ぐ其処から降りられる様に成っています、


お能の間
大広間に隣接する「お能の間」は、大広間の控えの間として、作られていますが、障子は、総て下ろすと全体が板戸になる「段襖」の手法が取られ防音効果を狙ってあり、床は、(普段は、畳敷きですが、)総桧張り床下には、音響効果を高める為に4つの甕が埋められているのです。

お能の間の向うに大広間が見えます

その他に、
春日の間・・昔春日神社の神官をしていた頃をしのび造られたそうです。

皆如庵・・・一畳台目の茶室、台目の処が、板敷きで其処に丸炉が作られ、茶室の水屋は廊下に抜けられる様になり此処にも防衛の策が講じられています。

釣階段
普段は、吊り上げて、棚のように見えますが、いざと言う時には之を降ろし階段とします。上がり切った所に引き戸が有り之を押すと二階に出れます、

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マウスオンして下さい。写真が不鮮明で申し訳御座いません

苫船の間
入り口を一段下げ船に乗り込むように作られ屋形船に乗った様で明り取りの障子も防火用の
戸がはめ込まれていました。西側には、下の井戸から直接水がくみ上げられる様に滑車が備えて有りました。この清水をくみ上げお茶事に使用したそうです。
囲いの間
四畳半の茶室、天井は、網代張り釘を使わず竹竿で吊り上げると言う変わった造りで、此処の水屋の裏にも人が隠れられるようになっていました。

落とし階段
囲いの間の横の廊下に「落とし階段」がありこの階段には引き戸が付いていて最初の一段目を隠し廊下が、続いている様に見せかけ引き戸の終わりから階段の下までまっ逆さまに落ちる事に成ります。
廊下は、総て鳴り板で侵入者があれば直ぐに響く仕掛けに成り、幾つもの抜け穴があります

屋敷内は、完全防火で、外壁は、漆喰壁、屋根の先には、銅板が張りめぐらされ、ひさしの樋の所には、火災の時には、直ぐに水でぬらした筵を下げられるようにUピンの様な金具が取り付けられていました。
敷地内12箇所もある井戸は、総て地下で繋がり水の枯れる事は無いそうです。
天明の大火も幕末の争乱時にも焼失を免れ現在に至っています。

約1時間に渡り係りの人の説明を聞きながら迷路のような薄暗い細い廊下を行ったり来たり各部屋を訪れ夫々に工夫を凝らした色々なからくりを見ている内に良く此処まで綿密に計算された建物の内部が出来上がったものと感心するのみでした。

京都にお越しの節には、是非一度ご覧戴きたい場所の一つです。
但し、事前に見学申し込みが必要です

「二条陣屋」  所在地  京都市中京区大宮通り御池下がる137 telー075-841-0972

北野天満宮の社殿(国宝)

2007-02-07 17:37:05 | 神社、仏閣、名所、
北野天満宮

菅原道真公の怨霊を沈める為に建てられ全国の天満宮の総本社と言われています。

道真公没後、様々な災いが、生じそれらが道真公の怨霊の仕業と信じられ、天神信仰が、生まれたそうです。

道真公は、学問文芸の神として、室町時代には、連歌の中心地で有りました。

有名な「北野大茶湯は、天正15年(1587)に豊臣秀吉により催されました。又、出雲阿国が、で慶長8年社前で、初めて歌舞伎を興行し、歌舞伎発祥の地とも言われています。

天満宮の創始は、平安時代にさかのぼるのだそうですが、現在の社殿は、慶長12年(1607)豊臣秀頼が再興したそうです。

下の写真は楼門と絵馬堂、三光門(中門)です。中でも三光門と東門は、重要文化財に指定・・

これ等の建物は、慶長12年(1607)に造営されたものがそのまま現在まで残され伝えられています。

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社殿(国宝)

社殿は、八棟造りと言われ総面積500坪の雄大な桧皮葺き屋根で、造営当時のままに絢爛豪華な桃山文化を現代に伝えています。
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社殿(国宝)
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北野天満宮の『節分祭』

2007-02-04 00:01:33 | 神社、仏閣、名所、
2月3日「節分祭」が行なわれました。

1時からの「節分祭」早い時間から大勢の人々が詰めかけもう既に神楽殿の前にはイッパイの人々で埋め尽くされていました。

この日行なわれる追儺(ついな)「鬼やらい」の儀は、向う1年の無病息災を願う重要な行事です。
「鬼やらい」で追われた鬼が、逃げ込む場所は、「乾の隅」(北西の隅)此処は、昔から悪鬼の住む魔所と言われ今も常に不浄を避ける場所とされています。

北野天満宮は、天暦元年(947年)京都の「乾の隅」の守り神として建立され、以来災難除け厄除けの社とし今日に至っているのだそうだす。

今も京都人の間には、節分の日に北野天満宮、壬生寺、八坂神社、吉田神社の四社時を「四方詣り」とし、無病息災、招福を願い参詣する人々が多く居られます。

茂山千五郎社中の方々の狂言「北野追儺能狂言」の奉納と、花街上七軒の芸妓、舞妓さんによる踊りの奉納が有りました。
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茂山千五郎社中による狂言
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帰りがけ東門の辺りで舞の奉納を終えた可愛い舞妓さんに出会いました。

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北野天満宮の梅の花

2007-02-02 23:28:47 | 神社、仏閣、名所、
北野天満宮、境内の梅が咲きました。

まだまだ、チラホラ咲きで、日の良く当る処が素敵なお花を見せてくれていました。
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梅林の梅は、マダマダ蕾は堅く2月25日の「梅花祭」の頃には、満開のお花を見せてくれることでしょう。