人々との楽しい出会い・・・

    急がず、焦らずゆっくりと~~

京都、時代祭・・其の3

2008-10-30 20:41:30 | お祭り
鎌倉時代(1192~1333)
城南流流鏑馬列
馬上から矢を射る流鏑馬、平安時代から武者のたしなみとして盛んに行われた。承久3年後鳥羽天皇は朝廷の権力回復を図るため城南宮離宮での流鏑馬に託し近畿十余国の武士を召されたそうです・

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マウスオンの後クリックで3枚の画像をご覧下さい。

藤原時代
藤原公郷参朝列
平安中期以降、唐様式の影響が薄れ日本独自の国風文化が成熟し強装束が起こり容儀が整えられたそうですが画像を撮る事が出来ませんでした。ゴメンナサイ

平安時代夫人列(794~1185)
この時代の300年は女性の服装が大きく変化する時期で寛平6年(894)の遣唐使廃止頃から日本の文化は国風化の道をたどるそうです
残念なことに巴御前、横笛、紀貫之、小野の小町、和気広虫等,撮る事が出来ませんでした。

常磐御前と乙若・・(今若は、撮れず・・)
源頼朝の側室、頼朝が平治の乱で戦死後、子供たちの助命を清盛に乞うため牛若を懐に今若、乙若を連れ雪中六原へ向かう外出姿・・

常盤御前と幼い乙若、雪中六原へ急ぐ姿・・

清少納言と紫式部
清少納言
清原元輔の娘、一条天皇の皇后定子に仕え「枕草子」の著者
唐衣に裳を着けた女房装束(十二単姿)の女官の正装・・

紫式部
藤原為時の娘、一条天皇の中宮彰子に仕え「源氏物語」の著者
小袿衣姿の略装です・・
紫式部さんのお衣装は、今年36年ぶりに新調されたそうです。今年式部を務められたのは、祇園甲部の芸妓さんの「まめ菊」さんです
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画像にマウスを当てて下さい。(画像は2枚です)

百済王明信
藤原継縄の妻、明信は百済の出で桓武天皇の信頼が厚く女官長として天皇を蔭から支えた女性。平安朝初期の女官の正装姿・・

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画像にマウスを当てて下さい。

延暦武官行進列「延暦時代」(782~806)
桓武天皇の治世「延暦」万民が安心して暮らせる「平安安楽」実現への強い思いが込められている。東征を終えた征夷大将軍坂上田村麻呂行軍の様子・・

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画像にマウスを当てて下さい。

ハプニングな出来事~~
今回、江戸時代行列の最中、落馬事故が有りましたが・・お怪我も無く良かったです・・暫く休憩為さった後、行列に参加されました。(長い行列の道中何が起きるか解らず皆さん本当に大変だったと改めて思い知りました・・参加の皆様、本当にお疲れ様でした)

途中で起きた落馬事故・・


この後も行列は「延暦文官参朝や神饌講、前列、神幸列、弓箭組列等沢山の行列が続きますが・・終りまで見ていては・・この日は立命館大学聴講の日・・5限目の授業に間に合いません後ろ髪を引かれる思いで学校へと急ぎました・・
(最後までお伝え出来ず尻切れトンボ状態の成りました事お詫び致します・・ゴメンナサイ・・)
長々とお付き合い頂きまして有難うございました。( 京都市観光協会、平安講冊子を参考にさせて頂きました)

京都、時代祭・・其の2

2008-10-27 15:53:40 | お祭り
安土桃山時代(1568~1600)
戦国の世を制し天下統一を成し遂げた豊臣秀吉、最高の関白太政大臣に昇りつめたびたび参内した。列は「檳榔毛唐庇車」(びんろうげからひさしぐるま)と言う最高級の牛車に「一日ばれ」と称される華やかな衣装の5人の大名を従えた(前田玄以、石田三成、浅野長政、増田長盛、長束正家)画像が無くて、ゴメンナサイ
豊公参朝列
天下統一を成し遂げた人臣最高位の関白太政大臣に昇りつめたびたび参内した、中でも慶長元年(1596)5人の大名を従え最高級の牛車の様子・・
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マウスオンの後クリックで、3枚の画像をご覧下さい。

織田公上洛列
応仁の乱後、京都は寂れはてその極に達したが、永禄11年正親町天皇のお召しに応じ兵を率いて上洛し、その復興に尽くしました。戦国武将の心意気を表す派手な兜飾りや馬印が特徴です
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画像にマウスを当てて下さい。

室町時代(1338~1573)
室町幕府執政列が続きましたが・・
武家風俗を中心とする、足利将軍を中心とした当時の武士の軽武装姿、三管領、四職主要氏族がお供衆として従い公家、法中、御博士、医師など特色のある風俗が表現されていましたが・・画像が無くて残念です
洛中風俗列
16世紀室町時代後半に経済力を備蓄した町衆により盛んに催された風流踊、この風流踊は、全国各地に伝わり様々な芸能を生み出し、江戸時代以降の盆踊りの原型に成っているそうです。
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マウスオンして下さい。

吉野時代(1333~1392)
楠公上洛列
元弘3年(1333)6月後醍醐天皇が配流先の隠岐から還幸にあたり、楠正成が一族郎党を率い兵庫に出迎え先駆して上洛した様子を表しています、豪華な甲冑や武具が見られますが・・残念ながら画像は撮れませんでした。
中世夫人列(1180~1600)
平安時代後半から桃山時代に至るまでの時代をさします。当時の女性の風俗を知ることが出来ます・・
大原女
洛北大原から京の街へ薪や炭を売りに来る大原女(室町末期の姿と成っています)
大原女の列・・

桂女
洛西の桂から鮎や飴を売りに出たり、また婚礼や出産時に祝詞をとなえる巫女など・・室町時代の小袖姿に「桂包」と言う独特の姿・・・
桂女の列・・

藤原為家の室
「十六夜日記」の著者です。中世女人の旅姿・・
為家の室の旅姿・・

淀君・・
待公秀吉の側室、淀君は秀頼のせいぼでも有り桃山時代を代表する豪華な衣装・・外出着です
淀君、豪華な外出着姿で・・

静御前
源義経の愛妾、平安末期から女人の舞装束として用いられた白拍子姿です。
静御前の白拍子姿・・

色々な行列を見る事が出来ましたが・・幾列かの行列を写真に収める事が出来ず残念でした・・お見苦しい処が多々ございますが、お許し下さいませ・・・(タグは、Sakuraさま,にお借り致しました。)

次回は、鎌倉時代から・・延暦時代まで後、少し残っておりますのでご覧に成って頂ければ幸せです・・


京都、時代祭・・其の1

2008-10-23 23:20:58 | お祭り
時代祭・・
毎年10月22日に行われる時代祭、平安遷都1100年記念の明治28年(1895)平安神宮の創設と同時に始められました。
明治から始まり延暦までの8時代、20もの列が各時代の衣装をまとい行列をなし進みます。

午前9時平安神宮から、祭神を移した二基の鳳輦等の神幸列が御所で神事が行われた後、時代祭列は、正午に京都御所の「建礼門」を出発し烏丸通り、御池通りを経て后後4時過ぎ頃、平安神宮へと入ります・・
列の長さは、約2㎞で総勢2000名の市民が装束をまとい京の歴史を鮮やかに再現してくれました。中でも「源氏物語千年紀」の紫式部が素晴らしい姿を見せてくれました。
行列の順序は、新しい時代の明治維新から順次、古い時代へと遡り延暦時代に至り最後に御鳳輦の神幸列、弓箭組列の順で行われます

京都の三大祭りの一つ「時代祭」が昨日雨の降りしきる中、行われました。今回、京都市役所前の観覧席の招待券を頂き出かけたのですが・・午後一時過ぎから、ポツポツと雨が~~
行列がやってくる頃には本降りに・・行列の皆さん方は、雨に濡れながらも堂々とした姿で行列が進みますが・・
私たち支給して戴いた「ビニールのレインコート」をはおり見学・・傘を挿す事も出来ず回りはびしょ濡れ状態・・(写真を撮るのも思うようにはいきませんでした)

維新勤王隊列(明治維新時代)(1868)
ピーヒャラ・ラッタッタの音と共に姿を現した「維新勤王隊」
維新に際し幕臣が東北地方で反乱した時、丹波北桑田郡山国村の有志が山国隊を組織して官軍に加勢した時の行装に習っているそうです

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維新志士列
桂小五郎、西郷吉之助、坂本竜馬、中岡新太郎、高杉晋作などの幕末知識人階級の武士で明治維新は、この人たちの働きにより基盤が築かれ、幕府に対抗する為天皇を動かさんとした7にんの公郷の「7郷落」の列なども加わりました。(志士達の勇姿も距離が有りすぎ上手く撮れませんでしたのでUPする事が出来ません・・ゴメンナサイ)
近衛忠煕公・・


穏健派との政争に敗れ長州へ落ち伸びる「7郷落」の行列



江戸時代(1600~1868)
徳川城使上洛列
徳川幕府は、大礼、年始等朝廷の重要な儀式などに将軍の名代として親藩または、請代の大名を城使として上洛させ「大礼」の時などは1700人にも及び格式の高いものだったそうです・・
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サムネイルにマウスを当てて下さい。

江戸時代夫人列
和宮をはじめ連月や中村内蔵妻、女流歌人お梶、吉野太夫、出雲の阿国など多くの女人行列が有りましたが雨脚も激しく思うように撮る事が出来ませんでした。

和宮・・
平安神宮の御祭神、孝明天皇の妹君、公武合体の為文久2年(1862)十五代将軍家茂に降嫁され此処では、輿入れ前の近世女房装束(十二単姿)女嬬を従えた宮廷内でのお姿・・(大河ドラマ「篤姫」さまでお馴染みの「皇女和宮」)


吉野太夫
寛永の頃、京都六条三筋町の芸妓で後、豪商灰屋紹益の妻と成った。名妓時代の太夫姿、内掛け小袖に帯の正装・・後ろに男衆を従えて・・

タグは、non_nonさまにお借り致しました。(記事は冊子を参考にさせて頂きました)
※ 安土桃山時代へと続きますので次回もご覧頂ければ幸せです・・


植物園の午後・・

2008-10-20 11:39:46 | お花
植物園のお花たち
秋晴れの午後、コスモス園でお花に群がりお食事中の虫さん達

無心に成り蜜を吸う蝶や蜂?かしら??・・


「ごじか」のお花に、真っ赤な可愛い蕾がつきました・・

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今回は、薔薇園にはお花も少なく少しい淋しい感が有りますが・・又、薔薇のお花のシーズンに成ると見事なお花で楽しませてくれそうです・・
時期外れの「酔芙蓉」もまだまだ元気な姿を見せてくれ・・大きなふわふわの羽根を広げた様な「パンパスグラス」も秋風にたなびき軽やかにそよぐ姿に感激~~暫し見入ってしまいました。

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この時期、お花の少ないバラ園に可憐なお花が・・
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サムネイルにマウスを当てて下さい。(タグは、Sakuraさま、non_nonさまにお借り致しました。)


京都府立植物園・・

2008-10-17 15:41:45 | お花
藤袴(原種の藤袴)・・
キク科の多年草で、秋の七草の一つ・・藤袴の葉は、香料と成り往時の女性は、十二単に忍ばせていたそうです。
近年の環境の変化から原種の藤袴は、絶滅の危機に瀕しているとかで2008年「源氏物語千年紀」の事業として「守ろう、藤袴」キャンペーンを今、京都では進められています・・(原種から挿し芽をし育てるそうです)(源氏物語千年紀委員会冊子より参考)
夕霧の詠んだ和歌「同じ野の露にやつるる藤袴 あはれはかけよかことばかりも」・・・源氏物語三十帖 藤袴より

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マウスオンクリックして下さい。

色とりどりのコスモスが、秋風にそよいでいました。


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サムネイルにマウスを当てて下さい。(タグは、Sakuraさま、non_nonさまにお借りしました。)

京都、岡崎 洛翆「植冶の庭」

2008-10-11 11:52:34 | 神社、仏閣、名所、
洛翆・・植冶の庭・・
京都、岡崎に或るお料理屋さん「洛水」のお庭・・平安神宮や無鄰庵等を作庭した、名造園家七代目小川治兵衛の明治42年の作。現在は継承者「植冶」十一代目小川治兵衛氏により復元・維持が行われていますこの庭園の中央の池は、琵琶湖を模し作られた池には、今も琵琶湖疎水から直接取水し琵琶湖の水が直接お池に流れ込んでいました。

画仙堂
池の畔に有る画仙堂は、約280年前、新の国より伝来したものと言われ・・詩仙堂、歌仙堂と並び京都三仙堂の一つです。現在ではお堂の中は、結婚式が行われているそうです。
不明門やお茶室
白川通りに面して建つ不明門・・豊臣時代に伏見城内に建立され常に閉ざされて居た為不明門と呼ばれいました。庭園内からは正面の古式蒼然たる様子を見る事は出来ません、他に大正3年大金を投じ建てられたと言うお茶室「渓猿亭」も有りますがお茶室残念ながら拝見する事が出来ませんでした。


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広々とした庭園内には、琵琶湖を模した池の畔に画仙堂が見えます・


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洛酔の庭園では、四季折々色々なお花を楽しむ事が出来ますが、之から秋が深まりますと尚一層素晴らしいもみじのお庭と東山の借景を楽しむ事が出来ます・・

スイレンのお花も綺麗に花開き素敵な姿を見せてくれます・・
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タグはnon_nonさまにお借り致しました。

追記・・小川治兵衛さんの言葉に・・
難しい事は考えなくていいんです・唯ぼ~っと眺めていて心が癒される・そんなあくびの出来る庭がいいんです~~
トッテモ素敵なお言葉なのでチョットお借り致しました。

京都、洛北 金福寺・・

2008-10-08 00:25:16 | 神社、仏閣、名所、
金福寺
貞観6年(864)天台宗寺院として創建されましたが、その後一時荒廃し、元禄の頃貞亨年間(1684~88)圓光寺の鉄舟和尚が再興、寺院は天台宗から臨済宗南禅寺派に改められた。

石段を上がると「芭蕉庵」と書かれた札が掲げられたご門・・

ご門の上には、「芭蕉庵」の札が掛けられて居ます・

その脇の苔むす前庭には、ひっそりと蹲が・・

植え込みの間に素敵な蹲が・

門をくぐると飛び石の上に紅葉した一枚のもみじが・・
其の隅にひっそりと咲く宝鐸草、侘び寂の世界が其処には有りました。

松尾芭蕉も此方を訪れ「うき我をさびしがらせよ閑古鳥」の句を詠んだそうです。この芭蕉を偲び与謝蕪村が再建した茶室「芭蕉庵」が建てられたのです(江戸中期の建造だそうです)芭蕉の遺跡を慕って多くの俳人が、訪れ句会を開いたそうです。

本堂には、松尾芭蕉を俳諧の先師と仰ぎ最も尊敬していたと言う与謝蕪村の描いた「芭蕉翁像」のお軸が床の間に掛かっていました(蕪村64歳の時安永8年金福寺の為に描いたものです)

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芭蕉庵」への途中高台から眺める本堂の様子・・


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サムネイルにマウスを当てて下さい。(たぐは、non_nonさまにお借り致しました。)

舟橋聖一の「花の生涯」のヒロイン村山たか女が、「妙寿」と改め尼と成り金福寺に入り明治9年生涯を閉じたのは、このお寺だそうです。(ちなみにお墓は、先にUP致しました。圓光寺に眠っています)

圓光寺、宝物館・・

2008-10-04 14:03:46 | 神社、仏閣、名所、
圓光寺、宝物館
宝物館

当時使われていた木製活字5万個(重要文化財)が保存されています
其の他には、円山応挙作「竹林図屏風六曲」渡辺始興筆による「寿老人図」(何れも重要文化財)等展示されていました。
又、境内山頂には、家康公を祀った東照宮や墓地内には、村山たか女(花の生涯のヒロイン)のお墓も有りますが、急な石段が何段も続き頂上までには・・随分有りますので今回は見送りました。

宝物館内の伏見版「木製活字」今から約400年前(江戸時代)や応挙の「竹林図」、渡辺始興筆「寿老人図」等マウスオンクリックでご覧下さい・・「木製活字は他にも数多く有りました・・(ガラス越しの撮影の為画像の不鮮明お許し下さい。)

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圓光寺のご門を出ますと直ぐ近くの道端に綺麗なコスモスが初秋の風に吹かれながら優しい姿を見せてくれました・・

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サムネイルにマウスを当てて下さい。(タグは,Sakuraさま、non_non様にお借り致しました)