奥嵯峨、鳥居本辺りの紅葉・・
京都、嵯峨野の西北に位置する鳥居本は、南に小倉百人一首ゆかりの小倉山、北に五山送り火の「鳥居形」がともる曼陀羅(まんだら)山に挟まれた山あいにあり紅葉で有名な清滝の愛宕山の愛宕神社に通じる旧愛宕街道に沿った町並みです。「源氏物語」で六条御息所が光源氏と最後に別れたところとしても知られています。
現在では愛宕神社に至る愛宕街道には、600mほどの間に約50戸の伝統的な民家が建ち並んでいます。
先日来の厳しい冷え込みで此方奥嵯峨辺りの紅葉も急ピッチで進んできました。
陸橋の上から街道筋を眺めますと山々の木々は色とりどりの色に染められ緑葉や黄葉、真っ赤に紅葉したモミジの彩色が目を楽しませてくれます
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マウスオンクリックで3枚の画像を・・
街道周辺の木々が真っ赤に色付き周辺を色鮮やかに染めて居ました・・サムネイルでご覧下さい・・
タグは、non_non様にお借り致しました、有難うございます
京都、嵯峨野の西北に位置する鳥居本は、南に小倉百人一首ゆかりの小倉山、北に五山送り火の「鳥居形」がともる曼陀羅(まんだら)山に挟まれた山あいにあり紅葉で有名な清滝の愛宕山の愛宕神社に通じる旧愛宕街道に沿った町並みです。「源氏物語」で六条御息所が光源氏と最後に別れたところとしても知られています。
現在では愛宕神社に至る愛宕街道には、600mほどの間に約50戸の伝統的な民家が建ち並んでいます。
先日来の厳しい冷え込みで此方奥嵯峨辺りの紅葉も急ピッチで進んできました。
陸橋の上から街道筋を眺めますと山々の木々は色とりどりの色に染められ緑葉や黄葉、真っ赤に紅葉したモミジの彩色が目を楽しませてくれます
街道周辺の木々が真っ赤に色付き周辺を色鮮やかに染めて居ました・・サムネイルでご覧下さい・・
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瑠璃光院・・
「八瀬」の地は古来「矢背」とも記された様に壬申の乱で背中に矢傷を負われた大海人皇子(天武天皇)が「八瀬の釜風呂」で傷を癒されてより、平安貴族や武士たちに愛された保養地だったそうです
一万二千坪の広大な敷地に建つ格式高い書院や自然を借景とした庭園、春には青モミジと樹齢百年を超す花馬酔木の群生、秋には種類の異なる楓の木々が黄、橙、桃、紅色等に移ろいながら変化を見せて呉れます
瑠璃光院山門・・真っ赤に紅葉したモミジが出迎えてくれました。(マウスオンお願致します)
明治の元勲、三条実実公が命名した茶庵「喜鶴亭」を始め気象条件が整うと「瑠璃色に輝く浄土の世界」が現れると言い伝えられる「瑠璃の庭」や「臥龍の庭」「山露の庭」などの名庭が有ります
書院二階より眺める紅葉風景・・
サムネイルにマウスオンお願致します(タグはnon_nonさまにお借り致しました)
「八瀬」の地は古来「矢背」とも記された様に壬申の乱で背中に矢傷を負われた大海人皇子(天武天皇)が「八瀬の釜風呂」で傷を癒されてより、平安貴族や武士たちに愛された保養地だったそうです
一万二千坪の広大な敷地に建つ格式高い書院や自然を借景とした庭園、春には青モミジと樹齢百年を超す花馬酔木の群生、秋には種類の異なる楓の木々が黄、橙、桃、紅色等に移ろいながら変化を見せて呉れます
瑠璃光院山門・・真っ赤に紅葉したモミジが出迎えてくれました。(マウスオンお願致します)
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明治の元勲、三条実実公が命名した茶庵「喜鶴亭」を始め気象条件が整うと「瑠璃色に輝く浄土の世界」が現れると言い伝えられる「瑠璃の庭」や「臥龍の庭」「山露の庭」などの名庭が有ります
「瑠璃の庭」・・一面苔の絨毯で覆われた主庭・・ | ||||
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書院二階より眺める紅葉風景・・
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比叡山の山麓・・
叡電の終点、八瀬比叡山口に降り立ちますと市内より少し気温も低く肌寒い感じがいたします。この日は曇り空、生憎のお天気ですが瑠璃光院の紅葉が気に成り2年振りに出かけてみました
高野川辺りの景色・・少し霞んでいますが・・
川沿いの彼方此方の木々は少しずつ紅葉を始めて居ました。
穏やかな流れも所により水溜まりから激しい流れを見せて居ました
高野川沿いに少し下りますと道路沿いに黄葉や青葉の間から見事な紅葉が・・一寸遠出した甲斐が有りました・・
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せせらぎの音を聞きながら黄葉、青葉、紅葉のトンネルを抜けながら目的地へと急ぎます・・
叡電の終点、八瀬比叡山口に降り立ちますと市内より少し気温も低く肌寒い感じがいたします。この日は曇り空、生憎のお天気ですが瑠璃光院の紅葉が気に成り2年振りに出かけてみました
高野川辺りの景色・・少し霞んでいますが・・
川沿いの彼方此方の木々は少しずつ紅葉を始めて居ました。
穏やかな流れも所により水溜まりから激しい流れを見せて居ました
高野川沿いに少し下りますと道路沿いに黄葉や青葉の間から見事な紅葉が・・一寸遠出した甲斐が有りました・・
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せせらぎの音を聞きながら黄葉、青葉、紅葉のトンネルを抜けながら目的地へと急ぎます・・
智積院・・
真言宗智山派の総本山で、成田新勝寺、川崎大師平間寺,高尾山薬王院の三大本山を始め全国に三千余の末寺を有します
本尊は大日如来、慶長5年(1600)に徳川家康が紀州根来寺の智積院玄宥僧正に土地を与え五百佛山根来寺智積院と言う坊舎講堂を建立したことが始まりだそうです
金堂
書院前の庭園は、小堀遠州の作庭、国の名勝に指定され延宝2年(1674)祥雲禅時代の庭を修築したもので、中国の廬山を形どっていると伝えられています。平安期の寝殿造りの釣殿のように、庭園の池が書院の縁の下に入り込んでいます
祥雲禅寺の客殿に描かれていた長谷川等伯、久蔵筆筆の国宝障壁画の「桜、楓図」は収蔵庫に収められレプリカの画はは書院にかかげられていました。
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境内の彼方此方では少しずつ木々が色付いてきていましたが、市内での本格的な紅葉はもう少し先に成りそうです・・
真言宗智山派の総本山で、成田新勝寺、川崎大師平間寺,高尾山薬王院の三大本山を始め全国に三千余の末寺を有します
本尊は大日如来、慶長5年(1600)に徳川家康が紀州根来寺の智積院玄宥僧正に土地を与え五百佛山根来寺智積院と言う坊舎講堂を建立したことが始まりだそうです
金堂
書院前の庭園は、小堀遠州の作庭、国の名勝に指定され延宝2年(1674)祥雲禅時代の庭を修築したもので、中国の廬山を形どっていると伝えられています。平安期の寝殿造りの釣殿のように、庭園の池が書院の縁の下に入り込んでいます
祥雲禅寺の客殿に描かれていた長谷川等伯、久蔵筆筆の国宝障壁画の「桜、楓図」は収蔵庫に収められレプリカの画はは書院にかかげられていました。
講堂脇の参道を奥へと・・ | ||||
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境内の彼方此方では少しずつ木々が色付いてきていましたが、市内での本格的な紅葉はもう少し先に成りそうです・・
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冷泉家
歌聖と仰がれる藤原俊成、定家父子を遠祖とする「和歌の家」で定家の孫、為相を初代とし、以来八百年の長きにわたり和歌の宗家としその伝統を今日に伝えました。現当主為人氏は、25代で月次歌会を始め「乞巧奠」(きっこうてん)等王朝以来の貴重な行事を現代に伝えられています
冷泉家は近世中級公家邸の唯一の遺構で重要文化財に指定、秀吉公により形成された公家町の一画である現在地に屋敷を構えたのは江戸時代の始め慶長年間(1600年頃)それ以来400年この地を動いてはいません
表門
今出川通りに面して建つ薬医門屋根の四隅には留蓋瓦として立つ、阿吽を対した亀像瓦・・冷泉家が京都御所の北に位置していることから玄武神を表しています
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マウスオン、クリックで3枚の画像を・・
表門を入ると白川砂を敷きこんだ前庭を持つ玄関、左手隅には共待の腰かけが有り立蔀で目隠しされた内玄関、式台を敷設した大玄関へと・・
座敷棟へと・・
座敷棟は、東より上の間(13畳)中の間(12畳)使者の間(8畳)と一列に連なり上の間から使者の間に至る部屋境の欄間は素通しですが之は、儀式や行事の時襖を取り外し全体を一室化する為のものです。部屋の襖に黄土色の地紙に雲母で型押しした牡丹唐草の唐紙が張られているのは、歌を詠む折に季節感を排除し絵柄が邪魔に成らないよう考慮したものだそうです。「冊子参照」
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御文庫
冷泉家に伝来した貴重な典籍、古文書を収めるお文庫で和歌集など二万点がおさめられれいるそうです。天明の大火の折も火災から免れ400年の年月冷泉家の信仰の対象となっております。土蔵には、二重の屋根が取り付けられ火災に遭っても木の屋根が焼けおちた後も土蔵の屋根が中のお宝を焼失しないようにと工夫がなされていました。(新御文庫向こう側と並んで立っていました。)
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台所
建物の西にある台所は、禅院等の庫裏に良く似た姿で、土間正面の上方には「しゃぐま」と言う藁束が、吊り下げられています・・祇園祭の長刀鉾に使われた物を祭礼後、魔除けとして土間の南西に飾られています
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マウスオン、クリックで3枚の画像を・・
歌聖と仰がれる藤原俊成、定家父子を遠祖とする「和歌の家」で定家の孫、為相を初代とし、以来八百年の長きにわたり和歌の宗家としその伝統を今日に伝えました。現当主為人氏は、25代で月次歌会を始め「乞巧奠」(きっこうてん)等王朝以来の貴重な行事を現代に伝えられています
冷泉家は近世中級公家邸の唯一の遺構で重要文化財に指定、秀吉公により形成された公家町の一画である現在地に屋敷を構えたのは江戸時代の始め慶長年間(1600年頃)それ以来400年この地を動いてはいません
表門
今出川通りに面して建つ薬医門屋根の四隅には留蓋瓦として立つ、阿吽を対した亀像瓦・・冷泉家が京都御所の北に位置していることから玄武神を表しています
表門を入ると白川砂を敷きこんだ前庭を持つ玄関、左手隅には共待の腰かけが有り立蔀で目隠しされた内玄関、式台を敷設した大玄関へと・・
座敷棟へと・・
座敷棟は、東より上の間(13畳)中の間(12畳)使者の間(8畳)と一列に連なり上の間から使者の間に至る部屋境の欄間は素通しですが之は、儀式や行事の時襖を取り外し全体を一室化する為のものです。部屋の襖に黄土色の地紙に雲母で型押しした牡丹唐草の唐紙が張られているのは、歌を詠む折に季節感を排除し絵柄が邪魔に成らないよう考慮したものだそうです。「冊子参照」
式台を敷設した大玄関・・ | ||||
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御文庫
冷泉家に伝来した貴重な典籍、古文書を収めるお文庫で和歌集など二万点がおさめられれいるそうです。天明の大火の折も火災から免れ400年の年月冷泉家の信仰の対象となっております。土蔵には、二重の屋根が取り付けられ火災に遭っても木の屋根が焼けおちた後も土蔵の屋根が中のお宝を焼失しないようにと工夫がなされていました。(新御文庫向こう側と並んで立っていました。)
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台所
建物の西にある台所は、禅院等の庫裏に良く似た姿で、土間正面の上方には「しゃぐま」と言う藁束が、吊り下げられています・・祇園祭の長刀鉾に使われた物を祭礼後、魔除けとして土間の南西に飾られています