人々との楽しい出会い・・・

    急がず、焦らずゆっくりと~~

祇園界隈・・

2007-01-30 01:13:39 | 神社、仏閣、名所、
祇園の町並み・・

新橋通りと白川一帯は、京都市の重要伝統的建築物保存地区に指定されていて居ます。

祇園一帯は、江戸時代に町が開発され、元治2年(1865)に祇園一帯が焼け現在の並みは、明治以降のものだそうです。

新橋通にはお茶屋が並び、京の町が、江戸時代を通じて育ててきた町並みをしのぶ事が出来ます。

お客を二階座敷でもてなす為普通の家屋より二階の部分を高く取り外から座敷内が見えなくするため、長い簾が掛けられているのです。

祇園の南側一帯も、花見小路沿いの家並みも格式高く市の歴史的景観保全脩景地
に指定されています。

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長い簾に覆われ優雅な姿をかもし出す祇園の町並み
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天龍寺(臨済宗天龍寺派)・・世界文化遺産~その2

2007-01-24 17:23:52 | 神社、仏閣、名所、
天龍寺、望京の丘から見る風景


天龍寺の庭園(借景式庭園)夢窓礎石の作、

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方丈前の曹源池と庭園
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平安時代の園遊と納涼の池泉式庭園から禅の影響を受けた、思想と表現としての庭が夢窓礎石により作られ六百数十年たつ現在にもその形を伝えています。

遠景の嵐山と近景の亀山を借景として亀山東麓に曹源池を中心に方丈東側に大小の出島を設け、西側中央の龍門曝、や、三連の石橋,池中立石があり・・

嵐山や亀山を巧みに取り入れ移る季節を見越した造形がなされています。
借景庭園として、我が国で、始めての特別名勝に指定されました。



天龍寺(臨済宗天龍寺派)・・世界文化遺産~その1

2007-01-19 19:36:08 | 神社、仏閣、名所、
天龍寺,臨済宗天龍寺派大本山(霊亀山天龍資聖禅寺)


大方丈と庭園

1339年(暦応2)吉野で崩御された。後醍醐天皇の菩提を弔うため足利尊氏が夢窓疎石を開山として創建された。

境内には、大方丈、書院(小方丈)、庫裏、法堂、僧堂等の禅寺様式の建物が、並び多宝殿は、後醍醐天皇の学問所跡で、紫震殿をしのぶ建築様式だそうです。

1343年(康永2)にほぼ七堂伽藍が整い、夢窓疎石の門流は、隆盛し、天龍寺は京都五山第一位の寺格を誇りました。

創建以来、1356年(延文1)を始め、650年間に8回の大火に見舞われ、現代の堂宇の多くは、明治初期の再建だそうです。
夢窓疎石作の庭園は、国の史跡で、特別名勝第一に指定され1994年(平成6)世界文化遺産に登録されました。

達磨の絵
疎石は、夢の中で達磨大師の肖像を渡され禅への決意をしたと言われ天龍寺の庫裏の玄関や書院にも達磨の絵が多く見られました。


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天龍寺桃山様式最古の「勅使門」


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勅使門         
元は、伏見城に有ったと伝えられ、江戸時代中期、何度も火災に遭っていると言う中に桃山様式を表すこの門が最古の建築です。普段は開く事が無く勅使が参向する時のみ開かれたそうです。

総門
勅使門の北側に有り同じ構造形式の門、禅宗様の四客門で、天龍寺の古建築の一つだそうです。

法堂
昔の選佛堂を移し、七堂伽藍の一つ法堂に当てたもので、正面に釈迦、文殊、普賢を安置、天井には、加山又造画伯の雲竜が、描かれていますが、今回は、拝見出来ませんでした。

大方丈、書院(小方丈)
明治期に建築され、天龍寺最大の建物です。中央に藤原時代作の釈迦尊像をお祀る48畳敷きの大広間、東西に庭を配置し、西には、特別名勝の曹源池が有ります。
書院は、大正期に建築されたそうです。

庫裏
寺の台所、事務所などが有り此処より大方丈へと進みます。
天龍寺の庫裏は、境内の正面、一段高い所にあり端正な佇まいを見せ、近世の建築です。

  所在地 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68  



冷泉家住宅 (和歌の宗家)・・・重要文化財

2007-01-14 21:47:30 | 神社、仏閣、名所、
冷泉家・・・和歌の宗家

(昨年秋に特別公開された時のものです・・)

現存する最古の公家住宅として、重要文化財に指定される。八百年続く和歌の宗家・・

歌聖と仰がれる藤原俊成、定家父子を遠祖とする「和歌の家」で、定家の孫、爲相を初代として以来、八百年の歴史を持つ和歌の宗家で、その伝統を今日に伝えています。

冷泉家が、現在地に屋敷を構えたのは、江戸時代初期慶長年間(1600年頃)
天明の大火の時、お文庫などの土蔵以外のものは、総て焼失、寛政二年(1790)再建されました。

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冷泉家の表門「薬医門」
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表門
今出川通りに面して建つ表門は、「薬医門」と言われ、屋根両隅の留蓋瓦として立つ阿吽を対にした『亀像瓦』は、冷泉家が京都御所の北に位置している事から玄武神をあらわしています。

立蔀・式台
大玄関、供侍の腰掛、立蔀(衝立の様なもの)で目隠しされた内玄関・・
玄関を中心に東に座敷、座敷部の北には、当主の日常生活空間としての中奥の座敷につながります。
現在もこの、中奥座敷でご当主ご一家の日常生活が、営まれています。

束帯飾り
昭和3年京都御所で行われた昭和天皇即位礼に冷泉家22代為系様が着用されたもので、この一式は、泰任官用でかつての五位の装束に準じているものだそうです。

表座敷
東より上の間(13畳)中の間(12畳)使者の間(8畳)と一列に連なり、儀式や行事の時は襖を外し全体を一室化する為です。

部屋の襖に黄土色の地紙に雲母で型押しした牡丹唐草の唐紙が用いられているのも、歌を詠む折に絵柄が邪魔に成らないように配慮されていると言う事です。

台所
禅院の庫裏に良く似ていて土間の正面の上方に「しゃぐま」と言う藁束が、掛けられています。
これは、祇園祭の長刀鉾に使われた物で祭礼の後、戴き「魔よけ」として飾られる様に成ったそうです。

お文庫
冷泉家に伝来した貴重な典籍、古文書を収める所・・
お文庫の屋根は、災害非常時には、屋根が開く仕掛けに成っていると聞きました。
良く見ると土蔵と屋根の間が随分離れている様に思えますが、如何でしょうか

祇園甲部の始業式

2007-01-07 18:26:47 | 行事
一月七日は、京都の花街、祇園甲部では、甲部歌舞練場で「始業式」が始ります。

あいにく、朝からの雪の中、芸妓さんや舞妓さん達は、正装して歌舞練場に急ぎます

芸妓さん達は、正装の黒の紋付を着て、頭には、かつらをのせお座敷姿さながらですが、残念な事にその艶姿は、コートに隠れ眼にする事が出来ません。

舞妓さんも、だらりの帯で正装ですが残念です。一月のかんざし松竹梅を挿し稲穂を右前方に付けて居ます。

芸妓さんは、赤玉のかんざしを挿し稲穂は、左前方に挿します。

その稲穂のお米粒を三粒貰って紙に包みお財布に入れておくとお金が入ると言ういわれが有りますが、御願いして、戴けるのはお座敷に上がったお客さんだけでしょう・

お天気ならば素敵な艶姿を拝見出来るのですが、コートに隠れ見る事が出来ず今回も残念でした。

その他の四花街でも、夫々に行われまました。ただ、上七軒だけは、九日だそうです。

<祇園甲部の始業式(写真は、お茶屋一力亭です)
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八坂神社に初詣・・

2007-01-05 19:48:49 | 日記
八坂さんに初詣・・

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マウスオンの後クリックして下さい。

八坂神社・・祇園祭でお馴染みの八坂神社

スサノオノミコト、櫛稲田姫の命、八柱御子神をお祀りしている。

平安建都の約150年前、斉明天皇2年(656)に高麗から来朝した伊利之(八坂氏祖)が新羅国牛頭山のスサノオノミコトの神霊を八坂郷に祀ったと伝えられています。
全国各地に約3000の分社が有るそうです。

本殿と西楼門は共に重要文化財に指定されています。

古くから厄除けと商売の神として京都人に親しまれています。

一月一日午前五時の白朮祭を皮切りに

一月三日の午前九時能舞台では、「初能奉納」・・『翁』

 午後からは「かるた始め」・・此方も能舞台でかるた札奉納の後、王朝時代の衣装をまとった女性や子供達が、小倉百人一首のかるたを取り合いました。

お正月も5日目とも成りますと参拝のお客さんも随分少なく成っていました。

写真の上でクリックして下さい・・8枚の写真がご覧いただけます(山猫様よりタグをお借り致しました。)


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