孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

地獄の新型爆弾・ナパーム

2017年09月10日 | 外国ネタ
特に特別なファンでもなかったし、「本屋大賞」などというのも、胡散臭くて、全国書店員が選んだ いちばん!売りたい本、本屋大賞などと大騒ぎしたところで、本屋の店員が新刊本をすぐ読み終えるほど読書家だとは、到底思えない。

あれは、世間のミーハー向けの販売促進のために、業界の営業マンたちが作ったお祭り騒ぎの一つに過ぎないと思っている。

『海賊と呼ばれた男』が本屋大賞受賞作だから、映画化されたそれも名作だなどとはまったく思わず、ただ『永遠のゼロ』の主人公を演じた、岡田准一、監督:山崎貴コンビの映画だから、「ちょっと見てみるか・・」と見た映画であった。

歳を重ねるごとに、涙腺が明らかにゆるくなってきたことは感じていたが、映画を観終えて場内が明るくなってからも、瞬きをすれば涙がタラーっとこぼれそうで、それを他人に見られるのが嫌で立ち上がれなかった。

一言でいうと、「男気」を強く感じさせてくれる映画だった。「一本筋を通す生き方」のすばらしさを堪能させてくれた映画だった。

映画は、まず大東亜戦争末期の東京大空襲のシーンから始った。この映画の導入部の数分間を現代の若者たちは繰り返して目に焼き付けるべきだ。ここだけでも、この映画を見る価値は充分あるとおもう。



それは、『大空襲』などと呼ぶ生易しいものではなく、『大虐殺』以外に他に呼び方はあるまい。2時間程度の空襲で、死者10万人以上、被災者100万人以上。しかも、全員が民間人の女・子供・老人たちであった。



このとき使用された大量破壊兵器が、M69ナパーム弾であった。

開発者は、当時ハーバード大学の有機化学者であった、ドイツ系アメリカ人、ルイス・フィーザーであった。



彼の任務は、・発火し易く、・長時間高温で燃え続け、・消化しにくい、新型焼夷弾の開発であった。しかも軍部からの要請はこのほかにも4つあった。

1. 入手が容易であること
当初生ゴムの樹液をガソリンに混ぜて、ゲル状にしたものを使用していたが、日本軍がマレー半島を占領してから、生ゴムの入手ができなくなっていたからだ。
2. 長期保存が可能であること
3. -4度C~+65度Cでも変質しないこと
4. 戦地でも調合可能なこと

彼はその時点で、すでにガソリンに粘度をもたせ、ゲル化することで一瞬の爆発で周囲に飛び散ったゲル状のガソリンが付着して燃え広がり、燃え尽きるまで焼き尽くす、という新型焼夷弾のイメージは出来上がっていた。

あとは、いかに与えられた要求事項に応えていくか、という状況だった。膨大な数の組み合わせ実験を繰り返し、見出したのは、ナフテン酸アルミニウムという石油精製時の副産物(ナフサ)をガソリンに混ぜることでゲル化させる方法だった。

しかも、戦地でも調合しやすいように、パルミチン酸アルミニウムというパーム油(椰子油)を少し加えることで、容易にゲル化させることに成功した。ナフテン酸とパーム油の頭文字をくっつけて「ナパーム」と命名した。

このナパームを詰めた38個の筒状の爆弾をまとめた「クラスター型」の爆弾は、投下されると空中で分散して燃えながら落下し、着弾すると中のゲル状ナパームがはじけ飛び、1000度C前後の炎が床や壁に付着して、火災を引き起こすのだった。



















この新型焼夷弾の脅威を世界中に知らしめるためのターゲットが日本の首都である、東京に決ると、アメリカ軍は、ハワイの日系人の中から大工の経験者を本土に呼び寄せ、ユタ州の砂漠の真ん中に、日本家屋を何棟も造らせ、家の中には障子や襖、畳、タンスなどを揃えさせた。



繰り返し上空からM69を投下して、その燃焼効果、燃焼スピード、など詳細なデータを集め、どれもそれまでの焼夷弾とは比較にならない、好結果を得たのだった。

1945年3月10日。グアム島、テニアン島を飛び立った325機のB29爆撃機は2時間ほどで、1000トン以上のナパーム爆弾を投下して、逃げ惑う東京の老若男女10万人以上を殺害し、100万人以上の市民の家屋を焼き尽くしたのだった。

この後も同様な空襲を、名古屋や大阪にも繰り返し、30万人以上が犠牲となった。

この安価で殺傷効果の高いナパームの開発にかかった費用は、520万ドルだったそうだ。

同時に進められていた、名だたる物理学者たちによる「マンハッタン計画」での原子爆弾の開発費用の、何と400分の1という、安さだった。

アメリカはこの結果に味をしめ、その後のベトナム戦争でも、ナパーム弾を使い続け、ベトナム人や村やジャングルを焼き尽くした。

さすがに、その恐ろしい兵器に対する恐怖感は次第に膨らんで行き、1枚の戦場写真が切っ掛けとなって、アメリカはナパーム弾の使用を控えて、ベトナム戦争にも負けた。

それが、この衝撃的な写真だった。



オバマ大統領が、広島を訪れ被害者たちと抱き合っているシーンをテレビで見ていたとき、正直言って私は何の感情も抱かなかった。

強いていえば、被爆者たちは皆さん長生きするものなんだなあ、ということくらいか。

ナパーム弾はの開発者、ルイス・フィーザーは当時のアメリカ大統領から、戦争を早期に終わらせてくれたことで、感謝されたそうだが、これを聞いたときは、私は強い違和感を抱いた。

いい悪いということはさて置いて、私たちは少なくともこういった歴史の事実くらいは、キチッと覚えておきたいものだ。

百田氏の本や映画は、この点大きく貢献している。彼の講演も然りである・