1964年東京五輪といえば「東洋の魔女」、
2020年東京五輪といえば「盗用の佐野」、
と揶揄されていたが、ネット住民のユーモアのセンスにはいつも感心させられる。
パクリエーター佐野氏のロゴが白紙に戻って、ひとまず安心したが、誰も責任を取ろうとしない現象は、国民を舐めきっているようだ。
むしろ、「分かりもしないのに、うるさい国民どもだ・・」と自分たちこそ被害者だと思っているふしがある。
2020年東京五輪組織委員会会長などは、巨体をゆすぶっていかにも不不機嫌そうだた。一人では大きな決断が出来ない性格のようで、いつも問題をこじらせてばかりいる感がある。
『蚤の心臓 サメの脳、 ゴリラの体 森きろう』
都都逸みたいな戯れ句で笑いの対象になっているが、こういうのが居残ると、新たな問題が生じるようで不安は消えない。
パクリエーター佐野氏の作品は今回の五輪のロゴだけに留まらない点が非常に重要で、本人がいくら否定しても見る者の印象を覆すことは最早不可能ではないだろうか。
テレビでは、その筋の専門家が今回の不祥事を解説して、「この世界では完全なオリジナルというのは難しい・・」などと言っていたが、多分自分も思い当たるフシがあるのではないかと、聞いていて首を傾げた。
『オマージュ』と言って、過去の作品をリスペクトを持って真似る場合もある・・と、カタカナ言葉を重ねて説明する業界人もいた。
その時瞬間的に連想したのが、2本の映画だった。
名匠・小津安二郎監督の『東京物語』のオマージュ作品として、山田洋次監督が作った『東京家族』という映画があった。
小津の『東京物語』は、50代になってから鑑賞する映画だと私は思うのだが、何度見ても実に味わい深い名画である。
その名作を尊敬の念をもって真似た作品を、寅さん映画の山田洋次監督が手掛けるということで、私も当時関心があったのだが、テレビで予告編を見て大きく失望したものだった。
配役がいけない。まともな落語も出来ないような落語家「こぶ平」を使うようでは、ハナから観る気も起こらないではないか。
笠智衆の役をした男優も、名前は知らないが格が違いすぎて見るに耐えないと感じた。
かなり時間がたってから、テレビで放映されたので、我慢して観ようとしたが、30分も我慢できなかった。予想通りの酷い出来だったと思う。
もう一本の映画は、黒澤明の名作「椿三十郎」のオマージュ作品、というか脚本まで同じだったようだから、パクリ作品というべきか、リメイク作品などと呼んでいいものなのか、森田芳光監督の手掛けた映画、名前も同じ「椿三十郎」だった。
私はこの織田裕二主演の映画を期待して、映画館で観た。そして、大きく失望して映画館を出た。
まるで、年末のかくし芸大会みたいな、お子チャマのチャンバラ映画みたいで、実に酷い出来栄えだった。
脚本も当時の脚本を使用し、カメラアングルも真似たそうだが、あの出来栄えだった。もともと三船敏郎の役を演じようとすること自体が、何か勘違いしていたのではなかろうかと思いたくなった。
ただカツラをかぶって刀を振り回し、同じ表情を作って同じセリフを喋ったところで、同じ出来栄えになるはずも無い。黒澤の映画のワンカットは、それぞれが彼の美的センスを納得させる構図になっている。
それは小津映画も同じで、映画監督の力量の差が出来栄えとなって表れていた。
やれオマージュだ、リスペクトだと高尚な事を言っても、駄作は駄作であることに変わりはないのである。
2020年東京五輪といえば「盗用の佐野」、
と揶揄されていたが、ネット住民のユーモアのセンスにはいつも感心させられる。
パクリエーター佐野氏のロゴが白紙に戻って、ひとまず安心したが、誰も責任を取ろうとしない現象は、国民を舐めきっているようだ。
むしろ、「分かりもしないのに、うるさい国民どもだ・・」と自分たちこそ被害者だと思っているふしがある。
2020年東京五輪組織委員会会長などは、巨体をゆすぶっていかにも不不機嫌そうだた。一人では大きな決断が出来ない性格のようで、いつも問題をこじらせてばかりいる感がある。
『蚤の心臓 サメの脳、 ゴリラの体 森きろう』
都都逸みたいな戯れ句で笑いの対象になっているが、こういうのが居残ると、新たな問題が生じるようで不安は消えない。
パクリエーター佐野氏の作品は今回の五輪のロゴだけに留まらない点が非常に重要で、本人がいくら否定しても見る者の印象を覆すことは最早不可能ではないだろうか。
テレビでは、その筋の専門家が今回の不祥事を解説して、「この世界では完全なオリジナルというのは難しい・・」などと言っていたが、多分自分も思い当たるフシがあるのではないかと、聞いていて首を傾げた。
『オマージュ』と言って、過去の作品をリスペクトを持って真似る場合もある・・と、カタカナ言葉を重ねて説明する業界人もいた。
その時瞬間的に連想したのが、2本の映画だった。
名匠・小津安二郎監督の『東京物語』のオマージュ作品として、山田洋次監督が作った『東京家族』という映画があった。
小津の『東京物語』は、50代になってから鑑賞する映画だと私は思うのだが、何度見ても実に味わい深い名画である。
その名作を尊敬の念をもって真似た作品を、寅さん映画の山田洋次監督が手掛けるということで、私も当時関心があったのだが、テレビで予告編を見て大きく失望したものだった。
配役がいけない。まともな落語も出来ないような落語家「こぶ平」を使うようでは、ハナから観る気も起こらないではないか。
笠智衆の役をした男優も、名前は知らないが格が違いすぎて見るに耐えないと感じた。
かなり時間がたってから、テレビで放映されたので、我慢して観ようとしたが、30分も我慢できなかった。予想通りの酷い出来だったと思う。
もう一本の映画は、黒澤明の名作「椿三十郎」のオマージュ作品、というか脚本まで同じだったようだから、パクリ作品というべきか、リメイク作品などと呼んでいいものなのか、森田芳光監督の手掛けた映画、名前も同じ「椿三十郎」だった。
私はこの織田裕二主演の映画を期待して、映画館で観た。そして、大きく失望して映画館を出た。
まるで、年末のかくし芸大会みたいな、お子チャマのチャンバラ映画みたいで、実に酷い出来栄えだった。
脚本も当時の脚本を使用し、カメラアングルも真似たそうだが、あの出来栄えだった。もともと三船敏郎の役を演じようとすること自体が、何か勘違いしていたのではなかろうかと思いたくなった。
ただカツラをかぶって刀を振り回し、同じ表情を作って同じセリフを喋ったところで、同じ出来栄えになるはずも無い。黒澤の映画のワンカットは、それぞれが彼の美的センスを納得させる構図になっている。
それは小津映画も同じで、映画監督の力量の差が出来栄えとなって表れていた。
やれオマージュだ、リスペクトだと高尚な事を言っても、駄作は駄作であることに変わりはないのである。