孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

木の花、いとをかし いとめでたし

2017年04月30日 | 趣味の世界
平年より今年の桜は遅れ気味だったようだが、本州ではすでにほとんどが満開を過ぎて、来月での見ごろは北海道に移ることになる。

桜前線という言葉は、季節感のあるいい言葉で、この時期に学校の入学式や会社の入社式があるのは、実にピッタリした習慣で、これをアメリカなどにあわせて、9月にしようなどと言い出した役人がいたが、その時はまったくとんでもないトンチキがいるものだと呆れた。

最近は、各地の桜の名所に外国人観光客がたくさん現れるようになって、初めの頃は、桜の枝を折ったり、木に登って写真を撮ってみたり、木を揺すって花を散らし、花吹雪だと喜ぶ不届き者もいたようだ。

爆買でお金を落としてくれる観光客だからと、何も注意できないようだったとしたら、情けないではないか。最初こういう報道を見たとき、いくら口できれいだ、きれいだと称賛したところで、所詮根幹にある美的感性は我々とは違うんだろうな、と感じたものであった。

日本人の美的感性を詠んだ句を一つ挙げよと言われたら、迷わず本居宣長のこの一句を挙げる。

『敷島の 大和心を人問わば 朝日に匂う 山桜花』

  山桜の木

その意味は、あえて解説すると、こんな意味だろう。

『日本人の心とはなんでしょう、と問われたら、朝日に映える山桜の花のようなものです」と答えよう』

悪意を持ってこの句を解釈しようとする人も多いだろうが、薔薇という洋花と比較すると、その違いが理解しやすいのではなかろうか。

つまり、その花の持つ自然に溶け込んだ可憐さ、清廉さ、果かなさは薔薇のような洋花とは確実に違う。更にそれに輪をかけて、花が一斉に散った後に、一斉に芽吹く若葉の美しいエネルギッシュな生命感は、薔薇には無いものだ。

  葉桜の生命感

葉桜という言葉自体が、私は好きだ。桜にちなんだ言葉には、この他にも実に様々な粋な表現がある。

『花冷え』『花曇り』『花吹雪』『夜桜』などなど・・・。

葉(歯)がなくて花だけ、という意味で『姥桜(うばざくら)』という言葉もある。日本人の感性の素晴らしさに改めて寒心するのだが、中でも私が大好きなのは、『花筏』という言葉だ。水面似に浮かんで漂う桜の花びらをこう表現できる感性には脱帽だ。

  花いかだの美しさ


今から約1000年前に書かれた随筆『枕草子』の作者、清少納言はその軽快洒脱な筆致から、今で言うところの人気ブロガーだったと思うが、その中の第37段に「木の花は」というタイトルのコラムがある。

例によって、紅梅、桜、藤の花、梨の花など木に咲く花々を、「いとめでたし」「いとをかし」と称賛している。

木の花の特徴は、花を満開に咲かせて散り、その直後に若葉を芽吹かせる処にあるだろう。この一連の変化は、自然の描く演出の妙で、人の手ではどうしようもない。

そう言えば、いつも利用する駅前の駐車場から駅につながる満ちの途中に神社があり、その境内の端に一本の枯れ木があった。

それが先月の初め頃、その枝に一斉にふっくらした白い花をつけたので、暫し足を止めて見入ってしまった事があった。モクレンだった。

  木蓮の花

その花の大きさからすぐにでも散ってしまいそうだったが、数日間私を楽しませてくれ、朝から実に清々しい気分でスタートできた。

そのモクレンも、花を落とすと今度は一斉に若葉が芽吹く。

  モクレンの若葉たち

今では、新緑が映えて、木全体に生命の躍動感がみなぎっているモクレンである。

我家を建てた時、玄関近くにはエレガンテシマというコニファーを,そして裏庭にはシマトネリコという常緑樹を植えた。

当時何となく殺風景だったので、なるべく手の掛からないシンボルツリーを、ということで適当に私が決めて近くの苗木店で買ってきたのだった。

どちらもすくすく成長してシマトネリコは高さが4m以上になった。手の掛からぬ常緑樹というだけあって、剪定も適当にやったが、すぐに成長する。カミさんなど、冬でも枝が青々としているので、日光をさえぎり洗濯物が乾かないと今ではすこぶる不評だ。

昨年は、業を煮やしたカミさんが、ホームセンターで小さなチェーンソーを買ってきて、三男の息子と共にシマトネリコの枝をほとんど落として、丸裸に刈り込んでしまった。よほど、腹が立ったのだろう。剪定ではなく樹に対する仇討ちのようであった。

シマトネリコのすぐ横には、後からカミさんが自分で購入してきた植木が植わっていた。まだ幼木の頃、母が散布した除草剤が掛かって、一旦枯れてしまったようになったが、その後なんとか復活し、今では1.7mほどに成長した。

何の木を植えたのかずっと聞かずにが、ちょっと前に知った。それは「ハナミズキ」だった。駅近くのモクレンの話をカミさんにしたとき、「私が植えたハナミズキも白い花を咲かせる木」だと言ったので分ったのだった。

  ハナミズキの可憐な花

ハナミズキもモクレン同様に、木の枝に白い花をつけて、その後若葉が芽吹いてくる。


  ハナミズキの若葉

そういえば、隣町に「はなみずき通り」という名の街道があった。街路樹に植えてあるのがみなハナミズキなら、白い花をつけていたはずだが、私は気付いたことがない。これからは注意して観察しようと思ったのだった。

そして、今日我家の裏庭のハナミズキを見ると、なんと白い可憐な花をつけていたではないか。灯台下暗しというが、こんな調子では我家のハナミズキも腹をたてて怒るであろう。

早速、罪滅ぼしにもならないが、写真に撮ってきた。

  我家の痛々しいハナミズキ

またぞろ、自称【ジャーナリスト】たちが

2017年04月30日 | 社会観察
このところ、地上波テレビはほとんど見なくなっている。朝起きてから、時計代わりにつけているニュース番組を観るというか、聞く程度で、仕事から帰宅してもまず特定の番組を観るということはなくなった。

週末も、同様でいつの頃からかこうなった。代わりに観る様になったのは、圧倒的にネットの動画サイトで、テレビでは忘れない限り観る番組は、BS放送の「吉田類の酒場放浪記」だけになった。

社会を実に覚めた目で見て、有り余る教養に基いて痛烈な批評を重ねてきた山本夏彦さんが他界して、もう暫らく経つが、彼の著作は永遠に残り、時を経てもその新鮮さは変化することはない。

「国家の品格」という本が素晴らしかった数学者の藤原正彦さんは、元産経新聞記者の高山正行さんと共に、週刊新潮にそれぞれ巻頭・巻末コラムのページを持っていて、私はどちらも毎週楽しみにしている。

その藤原さんの名著の一つ「祖国とは国語」の中に、彼が山本夏彦さんのファンであって、彼と出会うことになるエピソードが書かれていた。

私は、このことを知るまで、何となく藤原正彦さんの文調から、もしかして山本さんの愛読者ではないかと感じていたので、その確信を得たときは、膝を打つ思いだった。

同じ事を、私は高山正之さんの文調にも感じているが、こちらはまだ確証を得ていない。ご自分ではどこかで、司馬遼太郎の文調を参考にしていると語っていたが、社会風刺の視点は、明らかに山本夏彦さん風なので、多分間違ってないと思う。

因みに、高山さんが司馬遼太郎のことを語っていたときは、彼が朝日新聞に書き始めたころから、作品がまったく面白くなくなったと、ボロクソに批判していたのは面白かった。高山さんは、朝日新聞が【司馬史観】を創ったと感じているようだった。

ところで、地上波テレビが不人気になってきたことや、ネットの動画サイトが最近の若者に受けていることに苛立っているのが、朝日・毎日・東京などのいわゆる左翼反日新聞や、偏向報道を垂れ流す、テレビ朝日、TBSなどの同系地上波テレビ局のようだ。

あたかも、野党の支持率が低迷しているのは、その所為だと言わんばかり。

私はすでに若者ではないが、私の経験から言うと、新聞やテレビの言うことは嘘で満ちている、あるいは報道すべきことをまったく無視して一切報道しようとしない、こういう少しショッキングな事実に気がつく時期が、youtube を観始めた頃にあった。

こういう機会がなく、毎日新聞や地上波テレビのニュースやニュース解説、報道関連番組などを見ているだけだと、その巧妙な偏向振りと「伝えない自由」に基く、都合の悪いことは絶対に報道しない姿勢のため、国民はまんまと洗脳されていく。

これに輪をかけるのが、肩書きに滅法弱い日本人気質と、それを利用したハロー効果である。

このブログでも事あるごとに話題に取り上げている、世界遺産、ミシュラン格付け、などの権威や肩書きに対する盲目的な日本人の反応は、欧米文化に対するコンプレックスと共に、洗脳する側にとって実に都合がいい。

さらに、名刺文化、学歴社会が影響するハロー効果(ハロー=後光)は、報道番組などに付き物のコメンテーターや自称ジャーナリストと称する、テレビ局の思惑通りに喋ってお駄賃を稼ぐ輩の存在がある。


「テロ等準備罪」に関して、偏向反日マスコミが狂ったように報道し始めている。これまでにも何度も見た感のある、デジャブ、ジャブジャブの光景である。

 飽きもせず

ため息が出るほど、馬鹿げた光景だが、今回は数が増えていて吹き出してしまった。


 仕事ください!

 フガ、フガ、フガ・・・


何に怯えているのか良く理解できないのだが、連休には、日本のあちこちでデモや集会が開かれそうな気配である。そういう機会にノコノコ「営業活動」で登場し顔を売り、仕事を得ようとする、自称ジャーナリストやコメンテーター希望者たちが必ずいる。



              【この顔に要注意!】



地上波テレビに出ている自称ジャーナリストやコメンテーターたちは、心の底から母国日本がお嫌いというわけでは決してないでしょうね。

適当なコメントをするだけで割りのいいギャラの稼げる「仕事」を得たいだけなんだ、と思いたいです。電波芸者さんと呼ぶのがいいんじゃないかと思うんですが、それだと芸を身に付けた本物の芸者さんたちに対して失礼でしょうか。