孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

若いのに範を示せ

2017年04月14日 | 社会観察
電車通勤になって暫く経つが、朝も帰りも当然赤の他人ながら、馴染みの顔が何人かできてきて、姿が見えない日は、「アレ?今日はあの人有給休暇でも取ったのかな?」などと、いらぬ心配などするようになってくる。

中でも女性の着こなしなどは、個性があって、しかも季節の変化に応じて着る物も少しずつ変化する。そんなところを観察していると、混んだ電車でも案外電車通勤というものは乙なものだと感じるようになるから面白い。

大体片道35分の通勤時間なのは、シンガポールに赴任していた時の地下鉄(といっても地上も走るが)通勤時間とほぼ同じせいもあるだろうが、当時を思い出して今と比較してしまう。

このブログにも以前書いたような記憶があるが、シンガポール時代、私は生まれて初めて電車で席を譲られるという経験をして、しかもそれが一度や二度ではなく、何度となくあったので、私はそんなに老けて見えるのかしらん、と心配になったものだった。

シンガポールだけでなくこの制度は台湾も同じで、何度も訪れた台北の地下鉄でも「博愛座」と表示された優先席があり、席の色も他とは違っていて、誰でも外国人でも簡単に理解できる制度だった。

  照れ臭い名前だが。

私は、毎朝の通勤電車で、この優先席が空席ならためらわず座ることにしている。ただ、もしも優先すべき乗客が乗ってきたら、すぐにでも立ち上がろうという覚悟を持った上で、堂々と座っている。

座っていて、やはりシンガポールや台湾のときの光景を思い出して、比べてしまうのだが、これにははっきりと違いがあると感ずる。

  JR東海の優先席

それは、日本の電車ではほとんど目にしない優先席に座っていた人が、立ち上がって席を譲るという光景を、シンガポールや台湾では結構頻繁に目にしたことだった。

私の電車の利用頻度から見ても、日本ではかなりその確率が低いのではないかと推察してしまう。同時に、それはなぜなんだろうかと、「なぜなぜ」分析を始めてしまうのである。

  見てみぬフリ

シンガポール時代、何度か私が経験して少し驚かされたのは、私とそれほど大差ない世代と思われるご婦人に席を譲られたことであった。

そのご婦人は、下車される時立ち上がって、少し離れたところで吊革にぶら下がっていた私の袖を引っ張り、「私は降りるから、あなたここにお座り」という素振りで、席を譲ってくれたのだった。

そこまでされると、無下に断るわけにもいかず、礼を言ってから座ったのだが、やはりその後「なぜ自分なんだ?」と、首を傾げてしまったのだった。

台北旅行の時も、空いた席がない状況の地下鉄に乗った際、高校生くらいの若者がサッと立ち上がって席を譲ってくれることがあったが、私はシンガポール時代の学習経験があったので、素直にほほ笑んで「シエシエ」な~んて礼も言えるのだった。

この両国と日本を比べると、その違いは教育に起因するのだろうか?それとも民度の違いなのだろうか?道徳観?宗教観?・・・

特に外国の電車で車内放送を通じてしつこく訴えているわけでもなく、国を挙げてのキャンペーンを張っているわけでもないのに、この差は何なのだろうか。

行き着いた私の結論は、日本の大人に原因がある、ということだ。

若者を、ケシカランと責めるのは容易だが、その前に大人たちが若者たちに模範を示す必要がある。言葉だけでなく、行動でもって垂範してみせることがなさ過ぎる。

電車の優先席に座って、スマホでマージャンゲームに興じているいい大人は、見飽きるほどいるではないか。白髪頭の高齢者が乗ってきたら、サッと立ち上がって席を譲って見せなさい。

言われた高齢者も、素直に礼を言って席に着きなさい。そういう光景を一度でも目にすれば、若者から若者に次第に伝染していくことだろう。

・・・と思いたいが、如何だろう。