カミさんの母が亡くなった。
意識はしっかりしているのだが、密かに中高年女性の間に流行している「肺マック症」に感染して重症化して、あっ気なく息を引き取った。
26日の朝のことだった。入院していた病院の主治医から、もう治療する目処が立たないから、退院して他の施設に移るなり、家に戻るなりして欲しいと告げられて、来年早々他の施設に移る予定だった。
26日当日、病院側の話では、年末は混みあってるようだから、通夜・葬儀は年越しになるかもしれないとのことだったが、意外にも通夜29日、葬儀30日で滑り込みセーフとなった。
満90歳の大往生で、それほど苦しむことなく、自然と息を引き取ったそうだ。生前は、「私の葬式はにぎやかにやって欲しい。」と常々言っていたそうで、義兄たちもその言葉が気になって、葬儀も標準より派手な感じがした。
私は、義母が言った、「にぎやかに」という意味は、「派手に」という意味ではないと想うのだが、義兄たちはそうとはとらず、香典返しや食事など、すべてランクアップして「分不相応の」派手な葬式だった気がする。
あらためて、私は葬式とは後に残った者のためにあるもので、生前にいくら質素に簡素に戸言っておいても、「世間体」を考えてしまって、残された親族は自分のメンツだけをきにするものなのだ。
他界してから二日間間が空いたので、私は昨日わが家の墓掃除に行ってきた。墓地の周りは杉林なので、杉の枯れ葉が墓石の周りを覆っていた。その掃き掃除だけで汗まみれになってしまったが、今回は墓石の苔も磨いてきれいにした。
前日に近くの【道の駅】で菊の花を4束買ってきておいたが(計1000円)、29日(二重苦)なので縁起が悪いということで、お花は供えず、今朝葬儀に出る前にお墓に出向いて菊の花を供え、紙パックの日本酒をふたつ供えてきた。
私は日本酒は飲まないが、墓に眠る私の祖父も父も揃って大の日本酒党であった。
墓に行く時、カミさんが、「お母さんがお墓用のしめ飾りをよこしたから、お墓に飾っておいてよ。」と渡された。無意識に私は受け取ったが、墓に行く途中の車の中で、私は「はた・・」と考えた。
お墓はお寺の裏にある。しめ飾りは神道のアイテムだろう。仏教・神道がチャンポンになってないか?? おかしいだろっ!
しかし、今朝周りのお墓を見渡すと8割くらいのお墓にしめ飾りが供えてあった。中には橙や小さな鏡餅が備えられているお墓もあった。




確かに我家も、仏壇のある部屋に神棚がある。特に気にしないで、周りと同じことをしておけばいいのだろうが、私個人としては、どちらかと言えば仏教よりも神道的な感覚により強い共感を抱く。
その所為で、墓にしめ飾りを供えるのには、違和感が強すぎてどうしても同調できなかった。母から渡されたお墓用のしめ飾りは、いまだに私の車の中にある。
注連縄(しめ縄)の起源は、雷雲と稲妻と雨というのが一番納得できるので、私はそう信じているのだが、一般的に俗世界と神聖な域との境界を表わす物だと言われている。
天照大神が天の岩戸から出てきたとき、扉を縄で括って、中に戻れないようにしたという神話に基く説もあるようだが、私は米の豊作と雷の連関に由来する説を信じている。

来年、寺の住職と会う機会があるので、この辺りを問いただしたいと思う。
キリシタンでもないのに、クリスマスの馬鹿騒ぎの後、神社へ初詣でに行ったり、お寺に初詣に行っておみくじをひいたり、お年玉を渡したり、もらったり・・・
キリスト教、仏教、神道、儒教(おとし玉)などが、もうグチャグチャである。日本は昔からこんなものよ、と割り切ってしまえばそれでいいのかもしれないが、どうも私は喉に小骨が引っ掛かったように気になるのである。
そういえば、今日の葬儀でも、火葬場から戻ってセレモニー会場に入る際に、係りの人が玄関に待っていて、塩で手を洗えという。「お清め」なのだそうだ。
穢れを塩で清める、というのは神道の概念ではないか。相撲取りが塩を撒くのも同じである。寺の坊主が取り仕切る葬式にも、神道のしきたりが入り込んでいるのは奇妙ではないか。
葬儀社の女性はあれやこれや、薀蓄(うんちく)を披露して、参列者の耳目を集めていたが、この辺りの節操の無い葬儀の流れを、どう説明するのか。少し突っ込んで見たい気もしたが、面倒なのでやめておいた。

葬儀で使用した菊の花が大量に余ったので、帰宅してからもう一度お墓にその鼻を供えに行ってきた。神仏ゴチャ混ぜのお墓は、今朝より増えていた。
意識はしっかりしているのだが、密かに中高年女性の間に流行している「肺マック症」に感染して重症化して、あっ気なく息を引き取った。
26日の朝のことだった。入院していた病院の主治医から、もう治療する目処が立たないから、退院して他の施設に移るなり、家に戻るなりして欲しいと告げられて、来年早々他の施設に移る予定だった。
26日当日、病院側の話では、年末は混みあってるようだから、通夜・葬儀は年越しになるかもしれないとのことだったが、意外にも通夜29日、葬儀30日で滑り込みセーフとなった。
満90歳の大往生で、それほど苦しむことなく、自然と息を引き取ったそうだ。生前は、「私の葬式はにぎやかにやって欲しい。」と常々言っていたそうで、義兄たちもその言葉が気になって、葬儀も標準より派手な感じがした。
私は、義母が言った、「にぎやかに」という意味は、「派手に」という意味ではないと想うのだが、義兄たちはそうとはとらず、香典返しや食事など、すべてランクアップして「分不相応の」派手な葬式だった気がする。
あらためて、私は葬式とは後に残った者のためにあるもので、生前にいくら質素に簡素に戸言っておいても、「世間体」を考えてしまって、残された親族は自分のメンツだけをきにするものなのだ。
他界してから二日間間が空いたので、私は昨日わが家の墓掃除に行ってきた。墓地の周りは杉林なので、杉の枯れ葉が墓石の周りを覆っていた。その掃き掃除だけで汗まみれになってしまったが、今回は墓石の苔も磨いてきれいにした。
前日に近くの【道の駅】で菊の花を4束買ってきておいたが(計1000円)、29日(二重苦)なので縁起が悪いということで、お花は供えず、今朝葬儀に出る前にお墓に出向いて菊の花を供え、紙パックの日本酒をふたつ供えてきた。
私は日本酒は飲まないが、墓に眠る私の祖父も父も揃って大の日本酒党であった。
墓に行く時、カミさんが、「お母さんがお墓用のしめ飾りをよこしたから、お墓に飾っておいてよ。」と渡された。無意識に私は受け取ったが、墓に行く途中の車の中で、私は「はた・・」と考えた。
お墓はお寺の裏にある。しめ飾りは神道のアイテムだろう。仏教・神道がチャンポンになってないか?? おかしいだろっ!
しかし、今朝周りのお墓を見渡すと8割くらいのお墓にしめ飾りが供えてあった。中には橙や小さな鏡餅が備えられているお墓もあった。




確かに我家も、仏壇のある部屋に神棚がある。特に気にしないで、周りと同じことをしておけばいいのだろうが、私個人としては、どちらかと言えば仏教よりも神道的な感覚により強い共感を抱く。
その所為で、墓にしめ飾りを供えるのには、違和感が強すぎてどうしても同調できなかった。母から渡されたお墓用のしめ飾りは、いまだに私の車の中にある。
注連縄(しめ縄)の起源は、雷雲と稲妻と雨というのが一番納得できるので、私はそう信じているのだが、一般的に俗世界と神聖な域との境界を表わす物だと言われている。
天照大神が天の岩戸から出てきたとき、扉を縄で括って、中に戻れないようにしたという神話に基く説もあるようだが、私は米の豊作と雷の連関に由来する説を信じている。

来年、寺の住職と会う機会があるので、この辺りを問いただしたいと思う。
キリシタンでもないのに、クリスマスの馬鹿騒ぎの後、神社へ初詣でに行ったり、お寺に初詣に行っておみくじをひいたり、お年玉を渡したり、もらったり・・・
キリスト教、仏教、神道、儒教(おとし玉)などが、もうグチャグチャである。日本は昔からこんなものよ、と割り切ってしまえばそれでいいのかもしれないが、どうも私は喉に小骨が引っ掛かったように気になるのである。
そういえば、今日の葬儀でも、火葬場から戻ってセレモニー会場に入る際に、係りの人が玄関に待っていて、塩で手を洗えという。「お清め」なのだそうだ。
穢れを塩で清める、というのは神道の概念ではないか。相撲取りが塩を撒くのも同じである。寺の坊主が取り仕切る葬式にも、神道のしきたりが入り込んでいるのは奇妙ではないか。
葬儀社の女性はあれやこれや、薀蓄(うんちく)を披露して、参列者の耳目を集めていたが、この辺りの節操の無い葬儀の流れを、どう説明するのか。少し突っ込んで見たい気もしたが、面倒なのでやめておいた。

葬儀で使用した菊の花が大量に余ったので、帰宅してからもう一度お墓にその鼻を供えに行ってきた。神仏ゴチャ混ぜのお墓は、今朝より増えていた。