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孫ふたり、還暦過ぎたら、五十肩

最近、妻や愚息たちから「もう、その話前に聞いたよ。」って言われる回数が増えてきました。ブログを始めようと思った動機です。

年の瀬の葬儀と墓掃除に想う

2017年12月30日 | 社会観察
カミさんの母が亡くなった。

意識はしっかりしているのだが、密かに中高年女性の間に流行している「肺マック症」に感染して重症化して、あっ気なく息を引き取った。

26日の朝のことだった。入院していた病院の主治医から、もう治療する目処が立たないから、退院して他の施設に移るなり、家に戻るなりして欲しいと告げられて、来年早々他の施設に移る予定だった。

26日当日、病院側の話では、年末は混みあってるようだから、通夜・葬儀は年越しになるかもしれないとのことだったが、意外にも通夜29日、葬儀30日で滑り込みセーフとなった。

満90歳の大往生で、それほど苦しむことなく、自然と息を引き取ったそうだ。生前は、「私の葬式はにぎやかにやって欲しい。」と常々言っていたそうで、義兄たちもその言葉が気になって、葬儀も標準より派手な感じがした。

私は、義母が言った、「にぎやかに」という意味は、「派手に」という意味ではないと想うのだが、義兄たちはそうとはとらず、香典返しや食事など、すべてランクアップして「分不相応の」派手な葬式だった気がする。

あらためて、私は葬式とは後に残った者のためにあるもので、生前にいくら質素に簡素に戸言っておいても、「世間体」を考えてしまって、残された親族は自分のメンツだけをきにするものなのだ。

他界してから二日間間が空いたので、私は昨日わが家の墓掃除に行ってきた。墓地の周りは杉林なので、杉の枯れ葉が墓石の周りを覆っていた。その掃き掃除だけで汗まみれになってしまったが、今回は墓石の苔も磨いてきれいにした。

前日に近くの【道の駅】で菊の花を4束買ってきておいたが(計1000円)、29日(二重苦)なので縁起が悪いということで、お花は供えず、今朝葬儀に出る前にお墓に出向いて菊の花を供え、紙パックの日本酒をふたつ供えてきた。

私は日本酒は飲まないが、墓に眠る私の祖父も父も揃って大の日本酒党であった。

墓に行く時、カミさんが、「お母さんがお墓用のしめ飾りをよこしたから、お墓に飾っておいてよ。」と渡された。無意識に私は受け取ったが、墓に行く途中の車の中で、私は「はた・・」と考えた。

お墓はお寺の裏にある。しめ飾りは神道のアイテムだろう。仏教・神道がチャンポンになってないか?? おかしいだろっ!

しかし、今朝周りのお墓を見渡すと8割くらいのお墓にしめ飾りが供えてあった。中には橙や小さな鏡餅が備えられているお墓もあった。









確かに我家も、仏壇のある部屋に神棚がある。特に気にしないで、周りと同じことをしておけばいいのだろうが、私個人としては、どちらかと言えば仏教よりも神道的な感覚により強い共感を抱く。

その所為で、墓にしめ飾りを供えるのには、違和感が強すぎてどうしても同調できなかった。母から渡されたお墓用のしめ飾りは、いまだに私の車の中にある。


注連縄(しめ縄)の起源は、雷雲と稲妻と雨というのが一番納得できるので、私はそう信じているのだが、一般的に俗世界と神聖な域との境界を表わす物だと言われている。

天照大神が天の岩戸から出てきたとき、扉を縄で括って、中に戻れないようにしたという神話に基く説もあるようだが、私は米の豊作と雷の連関に由来する説を信じている。



来年、寺の住職と会う機会があるので、この辺りを問いただしたいと思う。

キリシタンでもないのに、クリスマスの馬鹿騒ぎの後、神社へ初詣でに行ったり、お寺に初詣に行っておみくじをひいたり、お年玉を渡したり、もらったり・・・

キリスト教、仏教、神道、儒教(おとし玉)などが、もうグチャグチャである。日本は昔からこんなものよ、と割り切ってしまえばそれでいいのかもしれないが、どうも私は喉に小骨が引っ掛かったように気になるのである。

そういえば、今日の葬儀でも、火葬場から戻ってセレモニー会場に入る際に、係りの人が玄関に待っていて、塩で手を洗えという。「お清め」なのだそうだ。

穢れを塩で清める、というのは神道の概念ではないか。相撲取りが塩を撒くのも同じである。寺の坊主が取り仕切る葬式にも、神道のしきたりが入り込んでいるのは奇妙ではないか。

葬儀社の女性はあれやこれや、薀蓄(うんちく)を披露して、参列者の耳目を集めていたが、この辺りの節操の無い葬儀の流れを、どう説明するのか。少し突っ込んで見たい気もしたが、面倒なのでやめておいた。



葬儀で使用した菊の花が大量に余ったので、帰宅してからもう一度お墓にその鼻を供えに行ってきた。神仏ゴチャ混ぜのお墓は、今朝より増えていた。

踏切は子連れで人だかり

2017年12月17日 | 社会観察
近くの踏切が小さな子供連れ家族で人だかりだった。

何事だろうと見ていると、SLの汽笛が聞こえてきた。

 トーマス・サンタ

大井川沿線を走る大井川鉄道のきかんしゃトーマスは、今年も人気絶頂であったようだ。そのトーマスが赤い帽子をかぶってサンタクロースに変身して、昨日からまた特別運行しているという。


ネットの記事から・・


【静岡県島田市の大井川鉄道では、16日から、「きかんしゃトーマス」のクリスマス特別運行が始まりました。
 今回はトーマス号とジェームス号に、それぞれサンタの帽子やクリスマスの飾りがあしらわれていて、新金谷駅のホームでは特別な列車を写真に収めようとファンが必死にシャッターを切っていました。

 この特別運行は、今月7日間実施される予定です。】

 クリスマス運行


我家の長男も、恐らく機関士として、乗っていたのだろうが、客車の乗客たちのニコニコした表情を見るたびに、息子はいい仕事をしているなあ、と感心する父であった。

シール効果に期待!

2017年12月16日 | 社会観察
毎日40分ほどかけて、自家用車で通勤している。

勤め先で、社員が遭遇した交通事故のメールが送られてくるたびに、安全運転の意識が蘇ってくる。輸送機器のメーカーだけに、社員の交通事故には特別気をかけているらしいが、社員数も多いが、社員が関わる事故も結構頻発している。

加害者になるのはもちろんだが、被害者になるのも面倒で、事故は御免被りたい。

通勤は、信号のほとんど無いバイパスを利用するので、渋滞が発生しない限りそれほど神経は使わないのだが、一つだけ悩んできたことがあった。

それは、安全な車間距離の維持に関することで、スピードと制動距離を考えて、私は出来る限り多目の車間距離を保つことを意識している。

しかし、そうすると脇からスッと割り込まれてしまう事がよくある。

さらに、スピードを落として車間距離を広げようとすると、後続車が迫ってきて後続車との車間距離がグッと狭まってしまうのだ。

後続車が車間距離を充分とってくれる運転者ならいいのだが、世の中そういう人ばかりではない。特に大型の貨物トラックは悪質なのが多い。

ルームミラー一杯に写るほど、ピタッと付けてくる事がある。私がアクセルを緩めれば、間違いなく追突されてしまうほどで、その恐怖感には身が縮んでしまうほどだ。

いわゆる悪質な「あおり運転」で、私は走っているスピードを維持することしか出来ない。
道路が2車線以上なら追い越してくれることもあるのだが、「あおり運転」を楽しんでいるような場合も多々あって、そんなときは生きた心地がしない。

そんなある日、私は前を走っている軽自動車に気になる「シール」を見た。

ドライブレコーダーという文字とカメラの絵のシールで、一目で後続車の映像を撮影中ですよ、訴えていた。

私は、「これだ!」と思って、早速アマゾンで検索すると、何種類も様々なデザインのシールがあることがわかった。すぐ注文して、届いたシールを私のボロ車に貼り付けた。何となく効果があるような気がしている。

 効果に期待

私は、高齢者ドライバーのステッカーが貼ってある自動車の後ろは避けるように意識しているが、「ドライブレコーダー作動中」のシールを見て、あおり運転をやめるトラック運転手もいるんじゃないか。

そう期待しながら毎日通勤している。

 厄払いシール


『品格』を考える。

2017年12月02日 | 社会観察
横綱は品格を求められる位なのだそうだが、それは至極当然のことであろう。

なぜなら、横綱だけが体に注連縄を巻く事が出来るからだ。神社の境内やご神木、正月には各家庭の玄関に飾るアレである。

 横綱大鵬土俵入り

先月の初めには、近所のスーパーの入口に売り出されていたので驚いたが、私の家では、明治生まれの祖父が存命中は、家中に飾る注連縄を、一人で作っていたものだ。

注連縄と一緒になる、裏白というシダ植物の葉を採りにいくのは子供の私が任されていた。

我々日本人は、小さな子供の頃から、注連縄を見れば、すぐに厳(おごそ)かな雰囲気を感じ取り、いたずらの対象などには決してすることはなかった。

今はほとんど目にしなくなったが、ちょっと前までは、自家用車にも正月になるとそれ様の注連飾りをつけて走る人が多かった。

きっと横綱になった相撲取りも本物の出来立ての綱を締めた途端、その見えざる威厳に圧倒されて、大変なことになったと気を引き締めたに違いない。ちょうど、私たちが誰に教わるまでもなく、その厳かな雰囲気を感じ取るようになれたように。

ただ、それは『育った文化と環境』が大きく影響する。日本以外の外国で成長した人にこれを求めても、それは難しいのではないか。日本の両親をもつ人でも、海外で生まれてその土地の文化と環境下で成長すれば、同じことだ。

それほど、文化と環境、あるいは風土というものは、人間の精神構造に大きく影響する。

今「モンゴル人力士たちの集団リンチ」が騒ぎとなっているが、渦中の横綱が優勝を決めた表彰式の際のインタビューで、「その前にこの場を借りて、場所中に水を差すようになって、全国のファンに力士代表としておわびしたい」と切り出たそうだ。

続けて、「いまこの土俵の横で誓います。場所後に真実をすべて話し、ウミを出し切って日馬富士関、貴ノ岩関の2人を再びこの土俵に上げたい」こう言ってから、自ら音頭をとって場内に万歳三唱を促したという。

 呆れた行為・・

私は、今回のリンチ事件で初めて知ったのだが、今年の初場所で、被害者の貴ノ岩は14日目に横綱白鵬と対戦し、寄りきりで勝っていたのだ。そしてこの結果で、稀勢の里の初優勝が決まり、彼は横綱に推挙された。

見た印象では、負けた白鵬は明らかに意表を突かれたような、ほぼ一方的な負け方だったそうではないか。『お約束どおり』だと思っていたら、相手がガチンコで向かってきた、という見方もあるが真相は分からない。

いずれにせよ、同郷人の集まりを仕切る立場であった張本人が、「ウミを出し切って日馬富士関、貴ノ岩関の2人を再びこの土俵に上げたい・・」などとまるで他人事のような言い方をしたり、暢気に万歳を催促したり、というのは、日本人には理解できない。

それでは、日本人で横綱になった人は、全員相応の品格を備えている人物なのだろうか?これも甚だ疑問で、先日の相撲協会の理事会に並んだ、理事長や殴った横綱の師匠や、同席した大乃国など、貴乃花を含めて、皆元横綱であった。

品格とは一体何よ?と外国人に問われたら、彼を納得させるだけの上手い説明が出来るわけではないが、私なりに思っているのは、オバマ大統領が陛下に謁見した時見せた90度に腰を折ってのお辞。

そして、支那の習近平が衝立の向こうで、カメラに写ってないと思って出たんだろうが、しっかりと陛下に向かって礼をしていたのを見たとき感じた、「陛下の品格が成せる業」なのだろうということだ。

日本人は、先だっての選挙のときなど、野党の政治家たちの品格の微塵も感じさせない付和雷同ぶりを、節操のなさ過ぎる言動を見てきて、品格どころかその下品ぶりに辟易させられている。

日本人横綱のように品格を持て、などと軽々しく言えた義理ではないだろう。

なぜなら、ああいう国会議員を選んだのは他ならぬ地元の有権者たちなのだから。

誰が始めたのかは知らないが、弟子が集まらないからと、外国人に門戸を開放した時点でこういう問題が起こるであろうことは、東京五輪後の柔道を見れば分ること。

そして、相撲やスポーツの世界だけではない。労働者が足りないからと、安易に移民や留学生、出稼ぎ外国人労働者を頼りにしていけば、今では想像できないようなややこしい問題は次々に起こってくることになるのは、容易に想像できる。

我々に、その覚悟は出来ているのだろうか。

何だ、あの土俵入りは・・?!?!

2017年11月25日 | 社会観察
幕内の貴の岩が、同胞の先輩たちから集団暴行に遭っていた事件が、新聞・テレビ・週刊誌を賑わしていたのに、関連があるのかないのか分らないが、先日の横綱・白鵬の立場をわきまえない、規定違反の反抗的な態度をとり続けた事件と、立て続けに不祥事が起きている。

白鵬の一件は、帰りの車で実況を聴いていたので、帰宅してすぐにテレビのニュースで確認したので、私は怒りに唇がヒクヒク動いたものだった。

他の力士だったらそういう反応は起こさなかったと思うが、もうずっと前から私は白鵬の、横綱の伝統である品格と威厳をおちょくるような立会いや、土俵の去り方に、苦言を呈してきた。私の見解は、これはひとえに宮城野親方(元幕内・竹葉山)の躾が悪いからである。

 宮城野親方(右)

更に言うなら、その師匠に苦言を呈する事が出来ないできている横綱審議委員会は、それ以上の責任を感ずるべきである。

今のままでは、日本の大相撲はただの格闘技の一つとして、歴史に埋没してしまうことにもなりかねない。柔道がそうであったように、外国人勢力が大きくなってくると、伝統や格式、品格などはお構いなく、平気でルールを弄繰り回すようになる。

ひところの柔道の試合を、東京都知事だった石原氏は、猫が喧嘩してるようだ、と形容して嘆いていたが、レスリングから柔道に転進したりすれば、伝統や品格などはどうでもよくなってしまうのは、無理もないだろう。

そうこう心配するのもつかの間、あまりマスコミや解説者は指摘していないようだが、白鵬の土俵入りが徐々におかしなことになっている。

横綱の土俵入りというと、重厚感と威厳、緊張感と共に、優美な舞いを見るような趣もあって、見にきた観客たちは、皆息を飲んで見守るのである。

 これぞ土俵入り

 きれいすぎる!
 
特に大鵬の土俵入りは美しかった。動きがゆったりとしているのだが、ズシンとくる重量感が、いかにも横綱だと見ている者を充分満足させる一連の所作であった。

さらに、それに引けをとらなかったのが、千代の富士の土俵入りだった。千代の富士ほどきれいな四股を踏む力士はその後も現れていない。

ところが、『張り手横綱」白鵬の土俵入りは変だ。奇妙なアレンジが不細工で、あれは横綱の土俵入りではない。怖い表情を繕っているようだが、「威厳」とか「優美」とかいう形容にはまったく当たらない。

 手先が変!

手を広げるとき肘が曲がっているし、甲を上に返すときの所作が馬鹿っぽくて見っともない!あれでも自分流にアレンジして、密かに良しと思っているだろうか。まるで、志村けんの踊りのようで、見ていて恥ずかしくなる。

相撲協会は気付いていないのだろうか。

即刻、教育しなおすべきであると思う。

 大鵬を見習え!


個性的だなどとは言わないで欲しい。

頼むから、youtube でもって大鵬の優雅で雄大な土俵入りをお手本に、出直してくれ!

すべて周りがダメだから・・・

2017年11月23日 | 社会観察
「国技とは何か」と言っても、明確な定義は存在しないのだそうだ。

「国民的スポーツ」と言えば、日本では「ああ、野球ね。」「イや、今やサッカーじゃない?」、「まてまて、相撲は国技だろ?だって国技館っていうじゃない。」

など、駅前の居酒屋では今夜こんな話題で盛り上がったのではないだろうか。

今日の結びの一番で、全勝の横綱が負けた。

しかし、結果に不満な横綱が土俵下に仁王立ちになり、勝った嘉風が勝ち名乗りを受ける土俵に上がろうとしなかった。

 白鵬の態度!

このとき私は帰宅途中で、カーラジオで実況を聴いていたが、白鵬のことだったのでまったく驚くことはなく、いずれこういうことは起きて当然だと思っていた。

 この態度!

もう何年も前から、この力士は相撲を勝ち負けで賞金を稼ぐ金稼ぎスポーツだと誤認していることは、明らかであった。そして、その責任はひとえに彼の親方にある、と確かこのブログでも明言しておいた。

今、モンゴル人力士たちがいろいろと騒がれているので、何か言うと人種差別がすべったの転んだのと騒ごうと、待ち構えているコメンテーターや政治家たちがいると思うが、そう言われても仕方ない体たらくではなかろうか。

親方だけではない。行事や土俵の下の審判たちは、何を黙っていたのか・・。

実況していたNHKのアナウンサーなど、「気持ちは分かりますが・・・」などと擁護している始末であった。

こんなことでは、テニスやバレーやバドミントン、野球などと同じように、いずれ大相撲にも映像による勝負の判定をする「チャレンジ」なるものが登場することだろう。

柔道が真っ青の柔道着を着るようになったように、相撲も同じ道をたどるなら、ファンはますます離れていくことだろう。

コンビニで働く老女

2017年11月19日 | 社会観察
近くに新しいコンビニが立て続けに開店したり、店名が変って新装開店したり、ますます
コンビニ全盛期の様相を呈している地元である。

しかし、私はこの便利なお店を利用するのは、正直言ってあまり気が進まない。近くにスーパーマーケットがあれば、そちらへ足が向く方である。

それは、価格がスーパーの方が安いからというわけではなく、何となくコンビニではのんびりした気分で商品を探したり選んだり出来ないからである。

すぐに欲しい物を、サッと入ってサッと入手するには確かに便利なので、そういう場面では迷わず利用するのだが、なるべくそうならないように心がけている。

 あなたもオーナーに?

近くに新規開店したコンビニは、最初の何日かはベテランの男性数人が手伝いに来ていた様で順調であったが、その後はあるバイトが見つかったのか、若い学生らしき青年が何人か交代で店番をしていたようだった。

しかし、その後寄ってみた時は、何と80歳くらいのおばあさんが一人でレジを切り盛りしていた。そのときは店内に3~4人の客しかおらず、さほど忙しそうでもなく、アルバイトの青年は棚の商品を並べたりしていた。

しかし、すぐにバタバタと客が増えてきて、客たちが次々にレジに向かうと、俄然お婆さんの表情が変ってきた。アルバイトもそれに気付き、すぐレジの応援に戻った。

2ヶ所のレジで客の応対を始めたのだが、客の買った弁当を温めたり、暖かい商品とそうでない商品を別々に袋に入れたり、箸は欲しいか、ポイントカードはあるかとか確認したり、暢気なおじさんの公共料金の支払いに応じたりとか、おばあさんは多忙を極めていた。



そのとき私は、晩酌の缶チューハイとおつまみの竹輪、ガラスケースのコロッケとフランクフルトを買ったのだが、おばあさんは習ったとおりに、常温のコロッケとソーセージを別々の袋に入れようとした。

私は先手を打って、「全部一緒に入れてください。箸もお手拭も要りません。ポイントカードもありません。」

そう言ってから、「やる事が多くて大変ですねえ。」と労をねぎらった。すると、おばあさんは、「ねぇ・・、ホントに・・」と言ってほほ笑んだ。

明らかにやりたくてやっている店番ではなく、アルバイトが見つからないので仕方なくやっているのだろう。オーナーは夜勤を担当しているのか、多分オーナーが自分の母に頼んでレジを任せている雰囲気だった。

「貴方もオーナーになりませんか?」という誘い文句に乗っかってコンビニを始めたものの、独自性の無い経営方法が否定されたり、細かな業務が次ぎ次ぎ増えていったり、考えていたほど利益は得られなかったりと、コンビニ経営は容易ではないそうだ。

おばあさんも、昔風の駄菓子屋でも任せられれば、絵になっただろうが、慣れないコンビニ言葉を口にしたり、眼を細めてレジの画面を見なければならなかったり、せせこましく動き回る姿は、私には哀れに見えて同情せざるを得なかった。

以前、このブログでも話題にしたと思うが、私は今でも、『コンビニは多すぎる、アマゾンは速すぎる』と思っている。

ストレス社会における笑いの効用

2017年11月18日 | 社会観察
私の姉夫婦は、どちらかというと「情報弱者」の部類に入る。家にはパソコンもないし、スマホも持たず、インターネットとは縁のない生活を送っている。

新聞は地方紙を購読しているようだが、見るところはもっぱらテレビ欄とその裏の「社会面三面記事」だけだろう。

義兄は数年前に大病を患って以来、健康には人一倍関心が高くなったようで、たまに話すと盛んにテレビでこう言っていた、あれがいいと言っていたなど、お節介に火がついたようにアレコレ言ってくれるが、どれもこれも馬鹿馬鹿しくて反論する気にもなれない。

その姉と数日前にコンビにでばったり会った。

すると、早速「あんた、糖質制限ダイエット続けてる?きのうテレビでやってたけど、しっかり脂質も摂らなきゃだめみたいだよ。」ときた。

何せ、この夫婦はもうかなり前のことになるが、私にバナナダイエットを盛んに勧めたことがあって私を呆れさせたものだ。

「朝、コップ一杯の水とバナナ1本食べるだけ。昼も夜も今まで通りでいいんだ。絶対にやせるからやってミな。ウチに買い置きのバナナがあるから持ってきな。」

ほとんど強引にバナナを一房持たされて帰ってきたが、たしかそれは数日前にみのもんただったか、堺正章だったか忘れたが、テレビで紹介した方法で、スーパーからバナナが消えたことで話題になったダイエットだった。

何の疑いも無く、テレビに出ている医者やタレントの言葉を信じてしまうので、当時から間違いなく「情報弱者」であった。

似たような言葉に「情報難民」というのがあって、こちらはマスコミやテレビの言うことは頭から否定して、ひたすらインターネットの情報を鵜呑みにする人達をいうそうだ。

スマホの普及で、最近の若者はテレビを見なくなり、反日左翼のコメンテーターたちなどの言うことは、小馬鹿にする対象でしかなくなっているそうだ。

これは、マスコミがウソを垂れ流し続けてきたという、これまでの長い歴史の結果起きている現象なのだろうが、まず疑うことを始めた若者を、私は否定する気にはなれない。

さて、お節介な姉に言われるまでもなく、私は自分なりに糖質をなるべく摂らないダイエットを続けているが、毎日決った時間(夕食前)に測定している結果は、申し分ない。

 11月の経過

血糖値100前後ならまずは申し分の無い結果だろう。

特に4日あたりから、私は朝夕の通勤時にサンドウィッチマンの漫才・コントを聞いて「笑い」で気分をなごましていて、この効用をかなり期待している。

サンドウィッチマンのコントの中でも「検問」は秀逸である。警官役の富澤たけしがボケまくり、ドライバー役の伊達みきおの切れ味鋭いツッコミが冴えに冴えて、声を上げて笑わせてくれる。

 免許証拝見

警官    「免許証、拝見できますか?」
ドライバーが免許証を手渡すと、警官は、
警官    「こちらが私の免許証です。」
と言ってドライバーに渡そうとする。
ドライバー 「名刺交換かっ!!イラねーよ、オマエの免許証なんか!」

 どちらへ?

警官    「あのぉ、こんな時間に、どちらへお出かけなんですか?」
行先を尋ねる警官に、ドライバーは答える。
ドライバー 「うみに行くんだよ。」
警官    「卵を産みに??」
ドライバー 「海亀かっ!!海だよ!産みにじゃねーよ!!」

 酒は飲まないで

警官    「あのォ、お酒は飲んでないですよね?」
ドライバー 「こう見えても、俺は酒飲めないんだよ。」
飲んだら乗るな、乗るなら飲むな・・これを警官に言わせtたあと、
ドライバー 「酒は飲んでも、飲まれるなって言うだろ。」
すかさず、警官の富澤がボケて・・
警官    「焼肉焼いても、家焼くな!」
ドライバー 「なんだ、そりゃ!!」

何度見返しても笑ってしまうコントである。

こういう笑いが直接的に血糖値に影響するのではないにしろ、何らかの因果関係がありそうで、私は糖分、、ではない、当分続けるつもりである。

三百代言、大活躍。

2017年11月14日 | 社会観察
三百代言(さんびゃくだいげん)とは、詭弁を弄する人で、弁護士を軽蔑していうことばだそうだ。

アメリカでは弁護士がゴロゴロと多すぎて、パトカーのサイレンが聞こえると弁護士がその後を追いかけていき、仕事のネタを探すのだそうだ。消費者が何かで被害に遭うと、すぐ被害者に訴訟をそそのかし、報酬を得ようとするのは日常茶飯事である。

マクドナルドでコーヒーをこぼして焼けどして、店を訴え何億円もせしめることもあったという。

法律の専門家というと、生き方も真っ当で、道徳心に満ちているものと勘違いしそうだが、実態はその真逆といってもいいのではなかろうか。

日本の弁護士も昔と違って、収入を得るにはそれなりの知恵を出さなければならないようで、テレビでは「過払い金請求」で法外な手数料をせしめているようだ。

愛知県人が当選させたあの異常性欲の女性も、ご多分に漏れず弁護士の資格を持っているし、浮気相手も自分より若い弁護士である。

忘れられぬその浮気相手を、事もあろうか自分の政策秘書にしたというから、開いた口が塞がらない。

 山尾と倉持

弁護士は性欲旺盛なのか、今度の選挙で当選した、立憲民主党の青山雅幸も、自分の事務所の女性にセクハラをして、週刊誌に詳細を暴露された。こいつ、わが故郷の静岡の人間である。まったく静岡の恥さらしである。

  青山エロ弁護士

そして、先週だったか、札幌の弁護士がタクシーで大暴れした上に、タクシー料金を踏み倒した。30歳台だというから、弁護士になってまだそれほど時間は経っていないだろう。こんなのが法律の専門家だとのさばっていていいのだろうか。

 杉山央弁護士

こいつら、法を犯したら、資格を剥奪するくらいでないと改心しないだろう。





勝つべき方が負けちゃいけない

2017年11月13日 | 社会観察
ちょっと前になるが、将棋界に若手の新星が現れて話題になった。

中学生で四段のプロ棋士としてデビューし、負け知らずの快進撃を続けたとか・・・。

さらに、昭和の天才棋士と名を馳せた加藤一二三九段が、その中学生棋士と引退をかけて対戦して、世間の注目を浴びたのだった。



加藤九段は、クリスチャンの将棋指しで、試合中の奇行は有名だった。昼食の出前はいつも鰻重と決っていて、おやつにはバッグに入れたアンパンをかじるのだった。突然、馬鹿でかい咳をしたり、将棋盤の反対側に廻って、相手側から盤上を眺めて考えたりするのだった。

結果は、加藤九段の負けとなり、そのまま引退することになった。

私は、いくら新進気鋭の若手天才棋士とはいえ、百戦錬磨のプロ棋士九段が中学生の四段に負けるはずがないと思っていたので、ニュースで結果を知った時は少しめまいがするほどショックだった。まさか、有り得ない事だと思った。



今週から大相撲が始ったが、初日から横綱が負けるという波乱のスタートになった。

私は大鵬、柏戸の全盛期を子供の頃見ているので、最近の横綱の弱さには到底納得できなくて、見ていても情けなくて仕方ない。

横綱と大関の間には大きな隔たりがあり、さらに横綱と平幕力士などは、大人と幼稚園児くらいの力の差があるものという感覚がある。

それが近頃の横綱は、いとも簡単にコロコロ負けるようで、とても安心して見ていられない。

将棋界にしても、相撲界にしても、下が強くなったというより、上が弱くなった。あるいは、その資格がないのにトップになってしまうという制度的な欠陥が目立ってきたと言えるのではないだろうか。

この際、思い切ってシステムの見直しをした方がいいのではないかと痛感する。


ナイーブな日本人

2017年11月12日 | 社会観察
もう随分前になるが、防災訓練の行われるシーズンの頃のニュースで、(確かどこか東北の町でのことだったと記憶するのですが)、炊き出し訓練をやっていたりする映像と共に、訓練の担当者が述べていたことで、少し呆れるというか、感心した事があった。

地域では、万一の災害に備えて被災者のための非常食を街のそこかしこに保管してあり、定期的に賞味期限などをチェックしては、更新補充しているのだそうだ。



それをその時の訓練でも実行して発覚したこと、として担当者がコメントしていたのだった。

「保管している非常食は、すべて日本人向けのもので、地域にはイスラム教徒の方などもいるようなので、彼らが食べない豚肉の入っていない非常食も用意すべきではないかと思いました・・・。」



私の住む町にある空港にも、イスラム教徒向けの礼拝堂を空港に併設したり、彼らが安心して食事できるレストランを空港内につくるべきだ、などと今の県知事は発言しているようだが、私は実に下らない考えであると思っている。

その同列で、防災訓練での担当者の方が言った非常食のことを聞いたとき、思わず首を30度くらい傾げてしまったほどだった。

その町の住民のいったい何割くらいの人がイスラム教徒なのかは知らないが、仮に2割3割の人がいたとしても、そこまで心配するのは過剰というより、お節介なのではなかろうか。

 炊きだし訓練


東日本大震災のとき、食糧支給を整然と並んで待つ被災者のことや、非常食を届けにヘリコプターで降り立ったところ、まったくパニックにもならない。

それどころか、「これだけあればここは充分です。残りは他に運んでください。」といわれてびっくり仰天したアメリカ軍のヘリコプター操縦士の話など、日本人のモラルの高さはよく評判になる。

それはそれでいいのだが、住民が招きいれたのではなかろうイスラム教徒の為に、非常食に豚肉やそのエキスを使わない非常食を備えてやれば、と考えるのは少し度が過ぎているのではないだろうか。

県知事が、地元空港内にモスレム用の礼拝所やレストランをつくりたいというのは、それを観光客数増加への宣伝にしようと考える、邪な思惑があってのことだろう。

そんなのと比べれば、防災訓練中に気付いた担当者の懸念は、ずっと純粋な者だったに違いない。

しかし、それはあまりにも純真無垢というか、女学生的発想というか、ナイーブ過ぎるのではなかろうか。

「ナイーブ」という形容詞は、純真、純粋、傷つきやすいほど繊細、などという意味で使われているが、英語で naive というと、その意味は「世間知らず」「子供っぽい」「考えが甘い」といった意味で使われるものだ。

貴方はナイーブだ、などと言われたら、それはどちらかと言うと、批判的な意味と捉えるべき言葉なのである。

その意味で、上記の担当者の懸念は極めてナイーブな発言だと言える。

日本人の食べるものが食べられないなら、自分たちで用意すればいいことじゃないか。



公道で露店という危険行為が流行中

2017年11月05日 | 社会観察
自動車業界の動きは、一体誰が決めるのか知らないが、電気自動車だ自動運転だと落ち着きなく進められているようだ。

こういう技術革新で、今の高齢者ドライバーによる交通事故が劇的に減ったり、高速道路での危険運転がなくなったりするというなら期待をするのだが、私にはそんな未来は描けないのである。

先日もスーパーの駐車場に止めた車を降りようとしたとき、隣に止まっていた大きな乗用車が音もなく前進したので、私は目の錯覚でも起こしたのかと、一瞬軽いパニックに陥りかけた。エンジン音などまったくせず動き出して、私は恐怖感すら覚えたのだった。

自動車部品(計器)メーカーの品質関連の部門で、世界中から送られてくる不具合情報を見てきた経験で、不良率にすれば大した数値には感じられないが、母数が大きいだけに、不良の発生件数は相当な数だと驚いたものだった。

しかも、その不具合の原因は、単純な人的ミスだったり、生産ラインにはほとんど人の手が関わらないような半導体チップだったりするのだから、これはいくら技術革新が進んでも不具合がゼロになることなどあり得ないことだろう。

原子力発電を無くせと主張する前に、日本だけで毎年何名が交通事故で死亡しているか調べてみるがいい。減ったとはいえ、およそ5千人は毎年亡くなっているはずだ。アメリカなどでは年間数万人が交通事故で死んでいる。毎年のことである。

私の住んでいる田舎でも、私の子供の頃は巾2mほどの曲がりくねった農道が耕地整理と同時に、真っ直ぐな2車線の農道に変身した。

それが近くに第二東名が開通してインターチェンジが出来たことと、大きな食品工場ができたことで、交通量が急に増え、朝夕の通勤時間帯などは車が途切れる事がないほどだ。

 店番のいる露店もある

また、資材を積んだ大型貨物トラックが頻繁に通ることで、道路の痛みも大きくて、アスファルト道路なのに、雨降りなどあちこちに水溜りが現れている。

この状況で農家の老人たちは、自宅の庭先に植えてあるミカンや柿や、野菜などを道路沿いに作った犬小屋みたいな小さな棚に並べて、小遣い稼ぎに夢中になっている。

 見通しがいいから

春夏の彼岸時期には、野花をゴムで束ねたりしてバケツに入れておけば、墓参りの人が車を止めて買っていくそうだ。野菜価格が高騰した時などは、早朝農家の主婦が無人販売の棚に並べ始めるのを待ちかねて、路上駐車している客もいるほどだ。

しかし、交通量が少ない時ばかりではない。

今や無人販売は、田舎のリスクを増やす存在になっている。

 速度を落とさない

今の時期、黄色く色づいた蜜柑や柿が並べられていて、ご丁寧に幟をひらひらさせて客を誘っている。農家の嫁らしき看板娘が店番をさせられていた。

 危険そのもの

誰も、ちょっと危ないときもあるだろうな、交通の妨げになってるかもしれん・・とは感じているはずだろうが、金の亡者になりかかっているから、気にしないようにしているだけだ。

大きな交通事故でも起きない限り、彼らは決して止めようとはしないだろう。はたして、犠牲者となるのは、客かそれとも対向車線の自動車の運転者か。




「武士は食わねど・・・」 今は死語か。

2017年10月28日 | 社会観察
ドタバタと10月が過ぎていく。

どうもアメリカの大統領選挙での大手マスコミの出鱈目な報道合戦が、ひとつのきっかけになったような気がしてならないのだが、日本のテレビ局の偏向報道ぶりの酷さには、嘆かわしいものがあった。

「以前からずっとそうだったじゃないか」と言われれば、確かにそうだったがアメリカの大統領が決ってからも、相変わらず個人集中攻撃を続けている大手マスコミの横暴を横目に見て、日本のマスコミは、「ああいうのもアリなのか・・」と、勘違いしてしまったようだ。

幸い今の若者たちは、インターネットから情報を得て、取捨選択することに何の労苦も感じないようで、それが証拠に新聞テレビの偏向報道や印象操作に振り回されて、投票するに至ったのは、70歳代から60,50代が飛びぬけて多かったそうだ。

戦後の偏向左翼教育の影響もあるのだろうが、高齢者たちの「東京裁判史観」は多分死ぬまで彼らの体の中から消え去ることは無いのだろうか。

野党第一党だった政党が、近隣の非常事態ともいえる状況に眼を向けず、安倍総理一人を出鱈目の口実で攻撃対象としてきた報いか、代表がどこの馬の骨か分からないまま放っておいたことから、代表交代となりバタバタと衆議院選挙に突入していった。

その経緯は、もはや(こいつら日本人か?)と疑いたくなるような、卑怯でみすぼらしい態度を恥ずかしげも無くさらけ出す「議員先生」たちの醜態があった。

行き場を失った反日議員たちは新たな徒党を組み立ち上がったが、むしろわが意を曲げないで、彼らなりのスジを通したのは、少しは評価できるのかもしれない。

 カピバラ代表

口先がうまくて、これまで人差し指を舐めては世間の風向きを確認しながら、時の権力者に擦り寄って政界を渡ってきた老婦に、愛想笑いをして近づき、その結果惨めな結果に終わった男たち三人は、所詮人の上に立つ器ではなかった。

いわば、自業自得。なるべくしてこうなったと知るべきだ。

こういったコメディーのような社会現象を見ている今の中高生ら若者たちには、はたしてこういう政治家さんたちの言動は如何なる影響をあたえるであろうか。

この国の未来を託す若者たちは、このあたりを見誤らないでもらいたいのだが、何せ殻らの周りの大人たちにろくなのがいないことが、大きな問題である。

第一、教育を司る役所のトップが、よりによって少女買春斡旋所に入り浸っていたという事実をみて、冷静で入られる政治家たちがいることだけで、私はこの国の政治家の異常性を強烈に感じたのだった。

その張本人を国会に呼んで、利用しようとした政治家たちを見て、まともな若者なら拒否反応を押さえきれるはずが無いと思うのだが。

 3バカトリオ


こういう政治家たちとは別に、日本の大企業での俄かに信じられない不正行為が明らかになっていることも、この国の若者たちの潜在意識に悪影響を及ぼすことは間違いないだろう。

狂ったように、壊れたレコードのように、コンプライアンス、コンプライアンスと従業員たちに訴えていた企業家たちは、自分たちの行いなどほとんど見えていなかったとしか思えない。

果たして、日産やスバルやスズキや三菱で起きた事が、他社では起きないと言えるだろうか。不祥事が立て続けに起きると、各社の重大さが薄まってきて、世間の反応も小さく収まってしまいそうだが、無くした信用を回復するのは容易ではないはずだ。

田舎に行けば行くほど、テレビの及ぼす影響は大きい。

静岡の夕方のローカル番組を見ると、ギャラの関係なのか、むかーしお笑い番組でみたようなタレントが「レポーター」などに起用されて、街角レポートなどしている。

ゲーノー人を見つけた街の人たちは、すぐさま駆け寄って握手を求めて頭をぺこぺこ下げている。驚くのは、そういう場合、当のゲーノー人はまんざらでもないといった表情でスター気取りであることだ。

IT時代となっても、いわゆる「情報弱者」と呼ばれる人たちの数は驚くほど多い。こういう人たちに甘言を弄して選挙の時に一票入れさせたり、奇妙な集会に参加させたり、寄付をさせたり、胡散臭い団体に入会させたりしようとする詐欺師は多い。

眼や耳から入ってくる情報を、自分の頭で判断する知識や教養を身に付けるよう、ふだんから心がけることは言うまでもないが、自分の精神にも一本ちゃんとした背骨を持っていたいものだ。

危険運転より恐ろしい高齢者ドライバー

2017年10月22日 | 社会観察
ちょっとしたことで頭にきたドライバーに、ピタッと後をつけられて煽り運転をされて、しつこく嫌がらせされた上で事故になり命を落とすことになる事件が起きた。

高速道路で、前を走る車が急停止したら、私は恐らくパニックになり悲惨な結末になることは容易に予想できる。

近くに完成した新東名高速道路では、11月から一部区間が時速120kmに引き上げられるそうだが、私はむしろ全線時速90kmくらいに下げた方がいいのではと思っている。

何度か利用したが、ほとんど単調な直線で、特にトンネルの中では軽い睡魔に襲われて、怖い思いをしたものだ。

  危険運転だらけの高速道路

車間距離を充分とって走りたくても、後ろにピッタリつかれたらどうしようもない。夜間のトンネルなどで、ルームミラーに後続車のヘッドライトが迫ってきて追突寸前になったような恐怖は、高速道路でなくとも、国道バイパス走行中でも頻繁に経験した。

そのバイパスのインターチェンジでよく一旦停止をしない車の取締りをやっていて、地元では知らない者はいないほどだが、肝心のバイパスを走行しているトラックなどは、ほとんどが制限時速を遵守していないで、好き放題にスピードを出している。

警察は、なぜそちらを取り締まらないのか、私は不思議でならない。

  恐ろしい「走る棺桶」

原発ゼロというテーマでは、議論沸騰となるのだが、交通事故での死亡者は年間4~5千人である。これでも減少してきたのだが、ほんのちょっと前は、毎年1万人くらいの人が、交通事故で死亡し続けていた。

自動車は高性能になったが、運転者の運転技能はそれに比例して向上しているとは思えない。むしろ、その逆で、年々高齢者が増えてきて、注意力や集中力が衰えていく運転者が増殖しているのだ。

  今でも発生する事故

近所に買い物に出かけ、ほぼ満車状態の駐車状態のスーパーマーケットに入っていくと、店内の客はそのほとんどが白髪頭の高齢者ばっかりで、驚愕させられる事がある。

高齢者といえども、エンジン音のしないハイブリッド車を運転している昨今、突然無音で隣に止めてあった車が動き出し、ドキっとする事がある。

事故を起こして、歩行者を轢き殺してから、「ブレーキとアクセルを踏み間違えたかもしれない・・・」では、亡くなった方も浮かばれないだろう。

  怖い高齢者ドライバー

自動車メーカーは、こういう状況が続いている中で、無人運転の自動車を開発中だという。これまでも、これからも人の命を奪い続ける乗り物を作って売って金儲けるのも商売なのだろうが、自動車メーカーとして今の悲惨な現状を「改善」する手立てを考えているのだろうか。

道を訊くにもコツがある

2017年09月29日 | 社会観察
一昨日、横須賀に日帰り旅行をしたときも、私は4~5回道順が不安になって、通行人などに道順を尋ねた。

実は、私は自分でも怖いくらいの方向音痴である。中高生の頃など、私は映画鑑賞が好きだったので、よく大きな街の映画館まで出向いてロードショーなどを観に行っていた。

映画を観終えて、駅に向かって歩いていると、次第に町外れに景色が変わってきて、不安になって通行人に「駅はこの方向でいいんですよね。」と尋ねると、「ええ!駅はあっちですよ!」と真逆の方向を指差すのだった。

 こっち? あっちよ!

社会人になって海外に出かける際も、事前に出来るだけ詳細な地図を持参することは必須で、迷ったなと思ったときは、よくタクシーを拾って急場をしのいだものだった。

横須賀の旅でも、JR横須賀駅を降りて、海沿いの公園をただただ海に沿って歩いていけば、海軍基地に着くものだと考えていたのだが、歩いているうちに次第に不安になってきて、そんな時三叉路などに出くわすと、もうほとんど頭がパニックになりそうになった。

そんな時、向こうから運送屋さんの制服をきた男性が歩いてきたので、「すみません、海軍基地はこっちの道を行けばいいんですよね?」と訊くと、彼は困ったような顔をして、「すみません、僕この街に住んでいないので・・・」ときた。

何だかんだ言っても「海軍基地」だから、海沿いだよな、と考えて、一番海沿いの道を選んで歩き続けると、「横須賀基地こっち」の標識があったので、私の予想は的中したのだった。

  米軍基地はこっち

三笠公園も記念艦三笠も海沿いなので、問題なく着いてたっぷり時間を費やしてから、どぶ板通りに向かった。

頭に入れた地図では三笠公園から、右手40度方向に山の手に向かって歩いていけば、横須賀の繁華街があるはずだった。しかし少し歩くと、繁華街らしい街並みはまったく見られず、私は急に不安になってきたのだ。

丁度そのとき、歩道の向こうから、中年のご婦人が二人でおしゃべりしながら歩いてきた。一人は自転車を押しながらだったので、地元の人に間違いないと思った。「すみません、道を教えて欲しいんですが。どぶ板通りはどう行けばいいのでしょうか」

自転車を押していたご婦人が、「ああ、ここを真っ直ぐ行って、ほら信号があるでしょ?そこを渡って右に行くのよ。」「タバコ屋があるわよね。」と連れの女性。

「そう、そう、そこをちょっと行って右に曲がるのよね。」と自転車のご婦人。「国道から中に入るのよね。」と連れの女性。「そう、この通りが国道16号なのよ・・」と自転車のご婦人。「16号線と平行の通りかな・・」

「果物屋のご主人に聞けば教えてくれるわよ。」と連れの女性。「ああ、そうよねえ。」と自転車のご婦人。

  道順を訊くにもコツが

二人のご婦人の掛け合い漫才のような道案内は、私にはほとんど理解できなかった。「じゃあ、あの信号を渡って左に入っていけばいいんですね。どうもありがとうございました。」とお礼を言って会釈してそっちの方向へ歩き始めた。

これは、今後の教訓として、記憶に留めておこう。

『二人連れの女性に道を尋ねてはいけない』


途中、店の前を掃き掃除していた老人に道を尋ねると、丁寧に分りやすく教えてくれたので、もう迷うことなく目的地に着く事が出来たのだった。