まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

花牡丹 悪も汚れも 知らぬまま

2018年05月03日 | 今日もまた、病院に行って・・・。

 5月3日(木曜日)晴れ 126-77-60  36.4  98%  61.40Kg 

  病院は今日から4連休モード。だから、看護師さんも4人か5人かの休日モード。それでも部屋替えとかでバタバタやっていた。

 

 いつだかに高松の病院に転院するとかで退院したおじさんがいたが、数日ほどで舞い戻ってきた。高松病院へは入らずに自宅で静養していたらしいが、庭掃除をしていて急に動けなくなって診察に来たら、即入院となって、元の病室の元のベッドで寝ている。

 

  私も似たようなものだなぁと、同病相憐れむ・・・という感じ。病名も同じで、「心不全憎悪」である。これを、ここの看護師さんたちは、「ぞうあく」と発音していた。医学用語的には「ぞうあく」なんだろうか。一般的には「ぞうお」なのだが・・・。

 

 改めて聞いてみると、「「しんふぜんぞうお」とは言いません。「しんふぜん・ぞうあく」です」と言われた。「ぞうお」よりも「ぞうあく」が業務用語らしくは聞こえるなぁ。

 

 そういえば、お正信偈にも「いっしょう・ぞうあく・ちーぐーぜー」だったな。「いっしょう・ぞうおー ・・・」とは読まないなな。

 

 懸案というほどのことでもないが、お大師まいりの人用に、歩きだと立石、江之浦、釜の越あたりを歩くマップを用意し、全体を歩く用に島全体のマップを用意した。それと、島の軽トラ用のガソリンと、私の車にもガソリンを入れて準備完了。

 

 この病院でも必需品のようなものが「心電図モニタ」である。赤・黄・緑の三本の電線が出た送信機で、ここでは、これをつけていて、ナース・ステーションで監視している。このため、患者の心臓に異常があればすぐさまにナースが駆け寄って来る仕組みになっている。

 

 一方、患者としては、病棟フロアから一歩出れば、電波が途絶えて行方不明になるので、すぐさま、捜索されることにもなるので、一階の売店や屋外に出ようものならすぐさま探知されてしまう。ま、電池切れとか、電極外れ・・・ということが多いのが実態。売店へ行こうが、屋外を散歩しようが捜索されることはまずない。

 

 その心電図モニターの電極から微弱な電気が流れていて、これが皮膚炎を起こしてかゆくなってしまう。医大も含めて、もうかれこれ、二か月、60日以上にもなるので皮膚炎はひどくなってきた。そこで、夜間は外して寝ていたが、最近は横着をこいて、わざと装着を拒否してきた。すると、「もう、いいです」というドクターの鶴の一声。今日からは心電図モニタなしである。

 

 普通の患者さんの場合、点滴が外れて、心電図モニタが外れたら「退院」なのだが、それはない。私の場合は、ここにいることが大事なのである。

 

 今日の掲示板はこれ。「それでいい それがいい あるがまま ないがまま」というもの。今、この時代の国家や個人に「あるがまま」を説くのはすでに無理なのだろう。ある状態の自分が「あるがまま」と思って暮らしていて、 それが行き詰まった場合、人にはそれ以上の逃げ場がなくなってしまう。「あるがまま」で駄目なら、どうやっても駄目だと思い込むだろう。「あるがまま」の虚ろさを知り、さらには「ないがまま」という人生の本質的「無意味」に触れた上で、仮に進むべき「一つ」を選びとらなければならないのだと思う。だからこ そ、例えば何かの役に立ったり何かを成し遂げることに人生の意味を感じる、という「仮の目標」が重要になってくる。しかもその場合、「仮の」と深く認識す ることが更に大切である。「仮の一つ」を信じて進むことを仏教では「方便」と云うが、それは人生そのものの虚構性に対する冷徹な眼差しの対極に生まれる、一種の熱気ではないだろうか?その熱気によって一途に進むのが通常の人生かもしれないが、それで挫折したら、また「ないがまま」というニュートラルに戻って 出直せばいいのじゃなかろうか。

 

じゃぁ、また、明日、会えたら、いいね。


ツイッター

<script type="text/javascript" src="//platform.twitter.com/widgets.js"></script>