GSゲルマニウム原人の退屈な日々

見わたせば、気になることばかりなり・・

ブルースセッションでもどう?

南部せんべい

2006年05月15日 08時44分45秒 | 美味しい?物とか
到来物「てんぽ」

岩手県の名物で「南部せんべい」ってあるでしょ、あれの生版?たぶん南部せんべいと同じ生地でちょっと厚めの物を二枚あわせて間に「クルミ餡」や「ゴマ餡」が挟んである。それがおみやげ用に冷凍パックされていて自分でオーブントースターとかで焼いて食べるわけ。一見中華のお餅(葱油餅)みたいな感じだけど、味噌あんが挟んである、長野のお焼きとかの薄手バージョン風、うん、それが一番近いかな皮の感じもそれに似ている。

下さった方は「あたしの好みではない」と言っておりましたが、いやぁなかなか、あたしは好みですね。
こう言った皮物がまず好きだしそれを自分で焼いて表面少しぱりっとしつつなかはもっちりで、クルミ餡と来たら嫌いなわけがない。

正式名称は「てんぽ」と言うらしくって天保時代(1830~43)に由来するんだと。天保といえば飢饉・飢饉といえば天保というくらいなもんで(もちろん他にも沢山あるけどさ)江戸も末期であと20数年で明治になる近代で一番すごい飢饉だったのかな?そんな時にこれを食べて飢えをしのいだという事らしい。もちろん飢饉なんだからクルミやゴマ、味噌だってろくにあったとは思えないから当時の農民が色々考えて飢饉の時、米ができないときにどうするか考えて麦や蕎麦を作って、それを粉にしてお好み焼きとかクレープみたいに焼いたりすいとんのようにして汁物で食べたという事のようですね。多分、当時はプレーンが基本でそのうち飢饉が過ぎて豊作の時代が来た時には味噌をつけて付け焼きにしたのかな。

天保時代の岩手県南部地方だと餅や団子のようにするのが基本だったでしょう、江戸では蕎麦切りが食べられるようになったのが17世紀頃とされてるけれど日本中に蕎麦やうどんを細く切って食べる習慣が広まりだしたのは文化文政という天保時代の一個前と言われているので南部の片田舎ではまだまだ蕎麦打ちは普及していなかったかな。多分それには製粉技術の問題もあったろうなぁ、蕎麦やうどんにするためには相当きめ細かく製粉しないとつながらないからね。手動の石臼製粉から機械挽きになって非常に細かい製粉が出来るようになって始めて今みたいな硬い南部せんべいが登場するらしい、だからこの「てんぽ」というのはルーツ中のルーツってことだね。南部せんべいをお麩のようにみそ汁に入れる煎餅汁ってのがあるけど元々はこの「てんぽ」のような柔らかい物、生地の厚い物を入れていたんだろうね、団子汁・すいとんと同じだな。(私は好きそうな感じ♪)

天保の大飢饉というと近世日本の第一次新宗教ブームって言われていて、この飢饉による不安感のよりどころとして天理教・黒住教・金光教などの今もつづいている新宗教(100年以上だから新宗教ってのもいかがなもんかとは思うけど)が誕生している。よっぽどひどい飢饉だったんだろうなぁ、以前に書いた「ガロ・カムイ伝」もその中心となる話は豊作と飢饉だったし。

日本では新宗教ブームは近世4回有るという考え方が主流なんだけど、関東大震災から世界恐慌にかける頃の1920年代が大正期新宗教ブーム、この時は現在のPL(当時ひとのみち教団)や成長の家・霊友会・大本教とかが大きく伸びているね。そして第二次が世界大戦後既存の教団の巨大化と創価・立正佼成会のいわゆる「新興宗教」躍進があって1970年代の第三次新宗教ブーム、う~んこれはベトナムとか安保とかオイルショックとかの政情不安から来てるのかなぁ……阿含教・真光系教団・真如苑・GLA系教団とかの「新新宗教」が産まれてる(成長している)んだよね。

やっぱ、何かにすがりたいって言うのは……ものすごくお腹がすいた時に考えることなのかしらん?
コメント (2)
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