名古屋の白ウサギ・1964年生・

別名、ウサギ仙人・・職業・会社員

宗教が目指すべき道

2016-06-24 | 宗教

「 言葉は神なきり 」

聖書のヨハネ福音書の冒頭に記された、コトバです。

奥深く、そして、尊い真理である事は間違いありません。

理論的な思考と善意を基にした
「 言葉 」が、人類をを進化させてきたのだと思います。

私は、若い頃、
多くの思想家や、宗教家、の本を読み漁りました。

なるほど・・・と思えるような立派な事を言っている、
思想家や、文化人、宗教家も大勢いました。

よでも・・・よくよく調べてみると、

そういった人の中には、
反社会的な行為を行っていたり、
ペテン師のような手法で金儲けをしていたり、
過激な破壊的思想を持っていたり・・・

感動するお話、
理に叶ったお話、
心を打つお話、

どこまで、「 真実 」なのか?
どこからが 「 ハッタレ 」なのか?

「 言葉 」だけで判別するこは不可能に
近いことかもしれません。

私は、基本的には、どんな理論も、話も、
まずは疑います。

疑う事を知らない、純粋な人ほど、
マルチ商法のカモになったり、
カルト宗教の餌食になったりします。

「 あなたは、疑いの心を持っています。
でも、その 『疑いの心』 を疑わない限り、
一歩もまえに進む事はできません・・・ 」

「 疑いを持つ、自分を疑いなさい・・・ 」

これは、あるカルト集団の会員勧誘マニュアルに
記されている、セリフです。

実に、モットもらしい、
「悪意に満ちたセリフ」 です。

悪徳団体は、こういうセリフで、
ターゲットを洗脳してゆくのです。

でも、このセリフは、
間違った事を言っている訳では無いと思えます。

問題なのは、このコトバの前提が、
悪意なのか、善意なのかです。

すべての ヒト ・ モノ ・ コト に対して、
疑い、警戒し、冷笑し続けている人間は、
一見、利口そうに見えますが、

生涯ただ、それだけで終わってしまう寂しいヒトです。

こういう、一見、知的で、賢そうな人間に
新たな価値の創造も、発見も、
喜びもやって来るはずはありません。

悪意を持った宗教や、思想集団は、
そのへんの、正論を、悪用するのです。

「 疑っていては、一歩も前に進めない!!! 」

という言葉をターゲットに擦り込み、 
教義に疑いを持つことに、罪悪感を持たせ、
巧みに洗脳して、最後は心も、
財産もすべて支配してしまう。

もう、ここまで「悪意」の手法が進化(?)してしまうと、
「 言葉 」だけで、
ヒトや・思想の善悪を判別することは不可能となってしまう。

私が思うに・・・

宗教的な観点で、人生や運命を探求する時、、
理論には限界がある。
言葉にも限界がある。
瞑想は、一歩間違うと、廃人になる。

ならば・・・

宗教は何を目指すべきなのか?

私は思う・・・・
宗教が目指すべき方向は、

「 感謝の心 」を極める。

「 感謝の念 」と 「 喜ぶ心 」は同列。

「 喜び 」 「 感謝 」の念は、
やがて大きなエネルギーになる。

なぜなら、すべての人間は、魂の奥底で、
繋がっているからです。

個人の発する、「 感謝の念 」 「 喜びの念 」は、
家族、隣人に留まらず、大きくは全人類に連動する。

「 感謝の念 」は、言葉に変換すると、

「 ありがとうございます 」

ならば・・・・

「 ありがとうございます 」の反対語は?

「 当たりまえ 」

すべてが 「当たり前」 だと思ったとき、
これが一番危険な状態。

生きていることは、 当たり前 
優しくしてもらうことは、当たり前 
手足があるのは、 あたりまえ
ご飯を食べることができて、あたり前 
助けてもらって、あたり前
親がいて、 あたり前 
子供が生まれて、 あたり前 
健康で、  あたりまえ
平和があって当たり前

不幸な一生を送りたいヒトは、
何でも「 あたり前 」と思えばよいでしょう。

そして、自分に無いモノを数え続ければよい。

「 ありがたい 」 とは、
仏教用語で
 「 有り得ない 」という意味であると、
最近、日本を代表する名僧、
京都のO氏から教わりました・・・

いま、ここに生きていること自体が、

「 有り得ない 」こと、

即ち 「 ありがたい 」「 ありがとう 」

白ウサギ 頓首・合掌
コメント
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