「 言葉は神なきり 」
聖書のヨハネ福音書の冒頭に記された、コトバです。
奥深く、そして、尊い真理である事は間違いありません。
理論的な思考と善意を基にした
「 言葉 」が、人類をを進化させてきたのだと思います。
私は、若い頃、
多くの思想家や、宗教家、の本を読み漁りました。
なるほど・・・と思えるような立派な事を言っている、
思想家や、文化人、宗教家も大勢いました。
よでも・・・よくよく調べてみると、
そういった人の中には、
反社会的な行為を行っていたり、
ペテン師のような手法で金儲けをしていたり、
過激な破壊的思想を持っていたり・・・
感動するお話、
理に叶ったお話、
心を打つお話、
どこまで、「 真実 」なのか?
どこからが 「 ハッタレ 」なのか?
「 言葉 」だけで判別するこは不可能に
近いことかもしれません。
私は、基本的には、どんな理論も、話も、
まずは疑います。
疑う事を知らない、純粋な人ほど、
マルチ商法のカモになったり、
カルト宗教の餌食になったりします。
「 あなたは、疑いの心を持っています。
でも、その 『疑いの心』 を疑わない限り、
一歩もまえに進む事はできません・・・ 」
「 疑いを持つ、自分を疑いなさい・・・ 」
これは、あるカルト集団の会員勧誘マニュアルに
記されている、セリフです。
実に、モットもらしい、
「悪意に満ちたセリフ」 です。
悪徳団体は、こういうセリフで、
ターゲットを洗脳してゆくのです。
でも、このセリフは、
間違った事を言っている訳では無いと思えます。
問題なのは、このコトバの前提が、
悪意なのか、善意なのかです。
すべての ヒト ・ モノ ・ コト に対して、
疑い、警戒し、冷笑し続けている人間は、
一見、利口そうに見えますが、
生涯ただ、それだけで終わってしまう寂しいヒトです。
こういう、一見、知的で、賢そうな人間に
新たな価値の創造も、発見も、
喜びもやって来るはずはありません。
悪意を持った宗教や、思想集団は、
そのへんの、正論を、悪用するのです。
「 疑っていては、一歩も前に進めない!!! 」
という言葉をターゲットに擦り込み、
教義に疑いを持つことに、罪悪感を持たせ、
巧みに洗脳して、最後は心も、
財産もすべて支配してしまう。
もう、ここまで「悪意」の手法が進化(?)してしまうと、
「 言葉 」だけで、
ヒトや・思想の善悪を判別することは不可能となってしまう。
私が思うに・・・
宗教的な観点で、人生や運命を探求する時、、
理論には限界がある。
言葉にも限界がある。
瞑想は、一歩間違うと、廃人になる。
ならば・・・
宗教は何を目指すべきなのか?
私は思う・・・・
宗教が目指すべき方向は、
「 感謝の心 」を極める。
「 感謝の念 」と 「 喜ぶ心 」は同列。
「 喜び 」 「 感謝 」の念は、
やがて大きなエネルギーになる。
なぜなら、すべての人間は、魂の奥底で、
繋がっているからです。
個人の発する、「 感謝の念 」 「 喜びの念 」は、
家族、隣人に留まらず、大きくは全人類に連動する。
「 感謝の念 」は、言葉に変換すると、
「 ありがとうございます 」
ならば・・・・
「 ありがとうございます 」の反対語は?
「 当たりまえ 」
すべてが 「当たり前」 だと思ったとき、
これが一番危険な状態。
生きていることは、 当たり前
優しくしてもらうことは、当たり前
手足があるのは、 あたりまえ
ご飯を食べることができて、あたり前
助けてもらって、あたり前
親がいて、 あたり前
子供が生まれて、 あたり前
健康で、 あたりまえ
平和があって当たり前
不幸な一生を送りたいヒトは、
何でも「 あたり前 」と思えばよいでしょう。
そして、自分に無いモノを数え続ければよい。
「 ありがたい 」 とは、
仏教用語で
「 有り得ない 」という意味であると、
最近、日本を代表する名僧、
京都のO氏から教わりました・・・
いま、ここに生きていること自体が、
「 有り得ない 」こと、
即ち 「 ありがたい 」「 ありがとう 」
白ウサギ 頓首・合掌
聖書のヨハネ福音書の冒頭に記された、コトバです。
奥深く、そして、尊い真理である事は間違いありません。
理論的な思考と善意を基にした
「 言葉 」が、人類をを進化させてきたのだと思います。
私は、若い頃、
多くの思想家や、宗教家、の本を読み漁りました。
なるほど・・・と思えるような立派な事を言っている、
思想家や、文化人、宗教家も大勢いました。
よでも・・・よくよく調べてみると、
そういった人の中には、
反社会的な行為を行っていたり、
ペテン師のような手法で金儲けをしていたり、
過激な破壊的思想を持っていたり・・・
感動するお話、
理に叶ったお話、
心を打つお話、
どこまで、「 真実 」なのか?
どこからが 「 ハッタレ 」なのか?
「 言葉 」だけで判別するこは不可能に
近いことかもしれません。
私は、基本的には、どんな理論も、話も、
まずは疑います。
疑う事を知らない、純粋な人ほど、
マルチ商法のカモになったり、
カルト宗教の餌食になったりします。
「 あなたは、疑いの心を持っています。
でも、その 『疑いの心』 を疑わない限り、
一歩もまえに進む事はできません・・・ 」
「 疑いを持つ、自分を疑いなさい・・・ 」
これは、あるカルト集団の会員勧誘マニュアルに
記されている、セリフです。
実に、モットもらしい、
「悪意に満ちたセリフ」 です。
悪徳団体は、こういうセリフで、
ターゲットを洗脳してゆくのです。
でも、このセリフは、
間違った事を言っている訳では無いと思えます。
問題なのは、このコトバの前提が、
悪意なのか、善意なのかです。
すべての ヒト ・ モノ ・ コト に対して、
疑い、警戒し、冷笑し続けている人間は、
一見、利口そうに見えますが、
生涯ただ、それだけで終わってしまう寂しいヒトです。
こういう、一見、知的で、賢そうな人間に
新たな価値の創造も、発見も、
喜びもやって来るはずはありません。
悪意を持った宗教や、思想集団は、
そのへんの、正論を、悪用するのです。
「 疑っていては、一歩も前に進めない!!! 」
という言葉をターゲットに擦り込み、
教義に疑いを持つことに、罪悪感を持たせ、
巧みに洗脳して、最後は心も、
財産もすべて支配してしまう。
もう、ここまで「悪意」の手法が進化(?)してしまうと、
「 言葉 」だけで、
ヒトや・思想の善悪を判別することは不可能となってしまう。
私が思うに・・・
宗教的な観点で、人生や運命を探求する時、、
理論には限界がある。
言葉にも限界がある。
瞑想は、一歩間違うと、廃人になる。
ならば・・・
宗教は何を目指すべきなのか?
私は思う・・・・
宗教が目指すべき方向は、
「 感謝の心 」を極める。
「 感謝の念 」と 「 喜ぶ心 」は同列。
「 喜び 」 「 感謝 」の念は、
やがて大きなエネルギーになる。
なぜなら、すべての人間は、魂の奥底で、
繋がっているからです。
個人の発する、「 感謝の念 」 「 喜びの念 」は、
家族、隣人に留まらず、大きくは全人類に連動する。
「 感謝の念 」は、言葉に変換すると、
「 ありがとうございます 」
ならば・・・・
「 ありがとうございます 」の反対語は?
「 当たりまえ 」
すべてが 「当たり前」 だと思ったとき、
これが一番危険な状態。
生きていることは、 当たり前
優しくしてもらうことは、当たり前
手足があるのは、 あたりまえ
ご飯を食べることができて、あたり前
助けてもらって、あたり前
親がいて、 あたり前
子供が生まれて、 あたり前
健康で、 あたりまえ
平和があって当たり前
不幸な一生を送りたいヒトは、
何でも「 あたり前 」と思えばよいでしょう。
そして、自分に無いモノを数え続ければよい。
「 ありがたい 」 とは、
仏教用語で
「 有り得ない 」という意味であると、
最近、日本を代表する名僧、
京都のO氏から教わりました・・・
いま、ここに生きていること自体が、
「 有り得ない 」こと、
即ち 「 ありがたい 」「 ありがとう 」
白ウサギ 頓首・合掌