ウサギの財布が呟いた・・・
善い人ほど、「 欠く、あらねばならない・・・」
「 善い行いをすれば、それが必ず自分に帰って来る 」
と強く思い、それに縛られている。
間違った事ではない。
紛れも無く、真理である。
マトモな人間なら、誰がどう見ても正しい考え方である。
これが判らない人間は・・ハッキリいえませんが・・・
「 極めて特殊なひと 」です。
だが・・・ここからが肝心である。
この、「 紛れもない真実 」には、その裏側に、
「 欠く、あらねばならない・・・」
という言葉を宿す。
潜在意識は、「これをしないとダメだ」
という意味に認識する。
「善い行いをすれば、それが必ず自分に帰って来る」とは・・・
「善行を積まなければダメだ」という否定的な意味を含む。
この、「 ダメだ 」が人間を不幸に陥れる大きな要素。
この「 ダメだ 」は、自己の深層部に対してのみ
否定的エネルギーを発するわけではない。
他者の良くない行いに対しても、
「 アイツはダメだ 」
「 あの人のような心がけはダメだ 」と囁く。
他者に対して発する想念(エネルギー)は、そのまま、
自分に跳ね返ってくる。
それ故、善い人、心優しいひと、
正義感の強い人、真面目な人、ほど、不幸になりやすい。
自分の内から発する、「ダメだ」という意識(念)を、
取り除かない事には、
いくら、善行を成そうとも・・
いくら慈善を成そうとも・・・
いくら徳を積もうとも・・
いくらお経を読もうとも・・
いくら、神仏に手を合わせようとも・・・
「ダメだ・ダメだ」の念を、更に強固なものにするだけ。
「 善行に意味など無い!!!」
と思って執着を断ち切らないことには堂々巡りするだけ。
「 無心で徳を貫く 」事こそが、
神が人間に与えた自然な姿である。
「 完全武装 」された「 執着 」の奴隷になることが
一番恐い。
こういうタイプは、
生半可に宗教をかじり、不幸にも、「偉い先生」
になってしまった人に多く存在する。
こういう人間がバラ撒く弊害は甚大である。
それ故、宗教は、諸刃の剣なのだ。
自然な形で、バカになって、自分の内から湧き上がる
良心の声のみを聞くとき、
おのずと「善い行い」が湧き上がる。
おのずと「善い芽が実を結ぶ」
善良で、真面目な人が、懸命に精進しても、
これでもか!!! これでもか!!
と言わんばかりの受難の数々・・・
真面目に、懸命に精進する者が必ずしも、
その呪縛から開放される訳ではない。
マトモな事をしてもこの始末・・・
それがだめなら、バカになるしかない。
人間誰しも、自分の行為に対し、その意味や、意義を考える。
慈愛に満ちた行為も、その行いに対して、
「 意味 ( 因 )」や、「 報酬 ( 果 )」
を意識する。
だが、そこで足踏みしていては前に進めない。
意味を求めない
このとき、
初めて 「ダメだ」から開放されるのです。
この状態になったとき、何も考えなくても、何も求めなくても、
必然的に、最善なかたちで、
「 絶対因果 」の法則が機能するのです。