禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

理性と理由

2021-06-21 15:01:55 | 哲学
 「理由を英語で何というか?」と問われると、大抵の人は"reason"という答えが直ぐに出てくるでしょう。しかし、「理性は?」と問われると、ちょっと答えあぐねるのではないでしょうか。答えは、理由と同じ"reason"です。おそらく、江戸時代の終わりか明治の初めに、reason の訳語としてつくられた和製漢語ではないかと思います。reason は明らかに多義語であり、きちんと訳し分けたのは結果的に良かったと思います。理由についてはもともと由(よし)という概念がありましたが、理性に相当する概念が日本にはなかった。コトバンクによれば、理性とは「道理によって物事を判断する心の働き。論理的、概念的に思考する能力 」とある。要はものごとの整合性を求める働き(性質)のことでしょう。

 レストランで食事した時に、その料理が安くておいしかったら、決して "cheap" と言ってはいけません。そういう時には "reasonable" と言います。「理性的」というのは変だけれど、支払う代金に見合う内容つまり「整合性がある」という意味で、「私の理性を満足させる。」ということでしょう。

 「どんな出来事にも、そうであるためには十分な理由がなくてはならない」

という原理にライプニッツは「充足理由律 (Principle of sufficient reason)」という名前をつけました。あまりにも当たり前のことなので「原理」と言っているのだと思いますが、なぜこれが「当たり前」なのでしょうか。おそらくこれは話が逆で、私達の理性が要請していることだと思います。理性があらゆることに理由を求めるのです。ですので、充足理由律を原理として認めると、「なぜ私は私であるのか?」とか「なぜ、この世界は有るのか?」というような問題にも理由がなければならないことになります。これを解決するためには、神の意志というような究極の理念を持ち出すしかないでしょう。

 一方、東洋は西洋ほどロゴス中心ではありませんから、例えば、釈尊は原理的に知りえぬことについては無記とします。「なぜ私が私であるのか?」と問うのではなく、先ず私が私であることから始まります。むしろ。積極的に世界をあるがまま受け入れるということであります。
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