禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

寒熱の地獄に通う茶柄杓も心なければ苦しみもなし

2015-05-13 17:52:04 | 哲学

本日のタイトルに揚げた歌は千利休が詠んだものとされているが、俗に「無心になれば暑さ寒さも感じない。」というふうに解釈されているようだ。よく似たものに、甲斐国恵林寺の快川和尚の辞世の句がある。

  安禅は必ずしも山水を須いず、心頭を滅却すれば火自ら涼し

修行も極まれば、本当にそのような境地に至るのかもしれない。が、しかし、仏道修行の目標というものは決してそういうものではないような気がする。修行にはある程度の厳しさはつきもので、「暑いの寒いの」などと言っている場合ではないというのは分かる。しかし、熱湯を浴びせられても熱くないと言ったり、火であぶられても涼しい顔をしているというのはどうか。それは悟りの境地などというものではなく、私に言わせれば、むしろ神経伝達上の障害とみるべきではないかと思うのである。

インターネット上の解説を散見すると、利休の詠んだ「茶柄杓」を人間の肉体とみなしているかのような解釈が目立つが、それには異論を唱えたいと思う。そのような解説をしている当人に、「ライターの火で手をあぶられたら、あなた熱くありませんか?」と問うてみたくなる。

禅的視点に立つならば、この「茶柄杓」が人間の肉体であるはずがないのである。肉体には感覚器官が備わっており、熱いものは熱い冷たいものは冷たいと感じるのが当然だからである。
もしこの歌を公案に見立てるとすれば、茶柄杓は本来の真面目に決まっている。公案にはそれ以外のテーマはないのである。本来の真面目とは「私」の究極の主体性、いかなる属性も帯びていない純粋の「私」のことである。そのことを指して「無」というのである。

いかなる属性も帯びていないということは、もちろん熱さや寒さとは無縁のものである。今さら、「心なければ」などとことわるのも不自然な感じがする。本来の真面目は、その人が悟っているか否かなどということは関係なく、誰もについてもある。見性とは自分の中にそれを見出すことを言うのである。

「無」とは認識の対象となるものがそこには無いという意味に他ならない。主体は認識の対象ではないのである。カント流にいうならば「それは無であることによってあらゆる経験が可能」なのである。

つい最近私は2週間ほど入院していたのだが、私の病室は私以外は自力でトイレにも行けないような高齢の患者ばかりの大部屋だった。認知障害の患者も多く、非常に手のかかる病人ばかりだったが、そこの若い看護師さんたちの働きは実に献身的で見事なものだった。痴呆がかった老人は誠に扱いにくいが、丁寧に感情的にならず実に根気よく接していた。

毎日何度となく汚物処理もこなしていた。そのたびにかなりの臭気が部屋中に漂い、傍観者たる私たちはそれに悩まされるのであるが、それを処理する彼女たちは平然とプロフェッショナルに仕事をこなす。たとえ汚物にまみれたとしても、汚れることのない主体性がそこにはあるのである。


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