禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

現象の背後になにも探してはならない。現象そのものが理論である。(ゲーテ)

2021-06-18 16:19:58 | 哲学
 ゲーテはドイツを代表する文豪であるが、科学者でもあったらしい。本日のタイトルは文言は、科学者としてのゲーテがモットーとしていたことだという。私はゲーテの科学者としての実績についてはほとんど無知であるが、一般・抽象化志向の強い当時の西洋において、このようなことを言い得るというのは、やはりゲーテという人は思想家として偉大な人だと思う。

 一般に科学的真理というものは、現象の背後にあると考えられがちである。見かけの現象ではなく、隠れた本質を探るのが科学であると考えられる。リンゴが木から落ちるのは万有引力に引かれるからである、と言われるようになった。研ぎ澄まされたナイフの刃はとても稠密で鋭く見えるが、それは原子という粒でできていて、その原子は原子核と電子でできていて、ほとんどが真空でスカスカなのだとか、そのように言われる。

 しかし、万有引力も電子もそのものについて、見た人はいないのである。あるのは、リンゴが木から落ちるという事実、ナイフの刃が稠密で鋭いという事実である。万有引力も電子もその事実を説明するために立てられた仮説にすぎないことを忘れてはいけないのだと思う。ある意味で、「リンゴが木から落ちる」ということと「万有引力がある」ということは同じである。同じことを違う言葉で表現していると考えられるのである。ゲーテの「現象そのものが理論である」というのはそういう意味だと私は解釈した。あくまで、

 「万有引力があるから、リンゴが木から落ちる。」 のではなくて、
 「リンゴが木から落ちるので、万有引力がある。」 と想定しているのである。

 それが現実であることを忘れてはならないと思うのである。大昔は誰もが太陽がわれわれの大地の周りをまわっていたと思っていた。今では誰もが「地球が太陽の周りをまわっている。」ということを知っている。それで、「天動説は間違っている」と言われるのだが、本当に天動説は間違っていたのだろうか? 間違っていたというのは穏当ではないような気がする。科学における学説はすべて仮説である。知られている現象をなるだけ「単純」に「説明」することが出来さえれば、それは価値ある学説とされるべきものである。ある時期まで天動説はその条件を十分満たしていた。もちろん地動説ももともと矛盾なく天体現象を説明できたのであるが、その時代においては(直感に対する)「単純さ」という点で、天動説の方が地動説より勝っていたのである。

 ところが、ガリレオが望遠鏡を発明してからは状況が一変した。火星や金星の動きを観察するようになってからは、天動説の方はアドホックな説明を付け加えなければならなくなり、とてつもなく複雑なものになってしまったのである。一方、地動説の方なら比較的「単純」に説明できるわけで、結局天動説の方はお払い箱にならざるを得なかったわけである。しかし、ここで留意しておきたいのは、コペルニクスが地動説を提唱した当初は、アドホックな説明を付加した修正版天動説の方が、地動説よりも天体の動きを正確に予測できたという事実があるということである。もともと宇宙には絶対位置というものは実在しないのだから、曲芸的な補足説明を無制限に付け加えていけばとてつもなく複雑になるだろうが、無矛盾な天動説を維持できる可能性は有るはず。
  
  なにを言いたいかというと、科学理論というのはどこまで行っても仮説であって、いわば、現実と矛盾しない記述とか説明(description)に過ぎないのだということ。そして、その記述・説明は実は無数にある。そして、それらの記述・説明というものは、すべて我々の前に現前する現実を説明するためのものでしかないないのだということである。
科学的知識をもとに「この鋭利かつ稠密に見えるナイフの刃は、本当はほとんど真空のスカスカなんだよ。」と述べたとしたら、それは、原子や電子について間違った認識をもっているのである。原子や電子はこの稠密で鋭いナイフの刃を合理的に説明できるものでなくてはならないからだ。万有引力にしても電子にしても、決してそういうものをわれわれは直に目にしたわけではない。ただ、それらを仮定すると、いろいろな現象をシンプルかつ合理的に説明することが出来る。だから、万有引力も電子も科学的な仮説としての存在論的価値があるということなのだ。

 我々はともすれば、科学的言説を実体視しがちで、万有引力や電子が仮説であることを忘れて、それが本質的なものと思い込みたがる。しかし、本当の真実というものは目の前の現実以外にはないのだということを忘れるべきではないと思うのである。

 決して科学を貶めるわけではない。私が普遍的であると考える仏教的見地から言えば、すべては無常であり、一切皆空である。どこにも実体であるとか、本質であるというようなものはないのである。万有引力も原子も電子もすべては縁起、つまりは関係性に過ぎないということを言いたいのである。
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