禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

読書会に参加して

2021-03-01 06:39:02 | 哲学
 先日、私が加入しているSNSのオフライン・ミーティングに初めて参加した。ウィトゲンシュタインの「青色本」の読書会ということで、主に「私的言語」について1時間半ほど話し合った。私的言語というのは、私だけが理解していて他の人は誰も理解できない、そのような言語である。例えば、私以外の誰もが痛覚を持っていなかったと仮定する。そうすると、「殴られたら痛い」と言っても、『痛い』の意味を誰も分かってくれないわけである。この場合の『痛い』というのは私的言語になる。問題は、私の他は誰も痛がらない世界の中で、私だけが感じる感覚について、私はその感覚に対して「痛み」というような名づけをするだろうか? というようなことである。

 短い時間だったので、それほど盛沢山なことを話しあえたわけではないが、最後の方で一人のメンバーさんが「言葉はみんな私的言語ではないのだろうか、私は言葉が通じていると思ったことはない。」と述べたことが印象に残って、帰りの電車の中でずっとそのことを考え続けていた。
 ヴィトゲンシュタインは「言葉の意味とは表現の心的付随物ではない」ということを主張する。理論的には確かにその通りである。ソシュール言語学によれば、「犬」という言葉には犬と犬以外を分節する機能しかないということである。しかもその分節の境界線は各人の恣意によるものでしかない。そこには犬の本質つまり犬の意味というものは存在しない。言葉はデジタル的でかつ貧弱な情報量しか持ちえない宿命である。例えば「犬が歩いていた。」という言葉について考えてみても分かる。言葉を発した方は秋田犬のような大型犬がのっしのっしと歩いている光景を伝えたつもりかもしれないが、受け取る側はトイプードルがひょこひょこ歩いているさまを思い浮かべるかもしれない。
 しかし、私は言葉を発する時は必ず言葉に意味を込めて、つまり心的付随物を込めようとしていることは間違いない。言葉を受け取るときもそうである、必ず心的付随物がそこにあると思って聞いている。つまり、言語はすべて私的言語であり、そして通じていない。そう考えるのが妥当である気もする。デジタル信号でアナログ的な心的ニュアンスを伝えるのは無理なのだ。ロラン・バルトは「作家の死」という概念を提唱して、文学作品における作家の真意などというものを云々するのは無意味であると言っている。

 だが、言語表現に心的なものを付随させることができなければ、おそらく文学というものは成り立たない。作家は作品に心的付随物を込め、読者は作品から心的付随物を受け取っている、それがなければ感動というものもあり得ない。言葉は作家と読者の仲介物でありながら、同時に断絶でもあるというのがバルトの真意であろうと思う。
 「菜の花や月は東に日は西に」というのは与謝蕪村の有名な俳句である。菜の花があって、月が東から上がり、日が西に沈もうとしている。ただそれだけの情報しかない。言語の情報量としては極めて貧弱である。しかし、それにもかかわらずこの作品はイメージの換気力が極めて大きい句である。蕪村はこの句を六甲山中で詠んだらしいが、その事を知らない北海道の人は雄大な大平原に広がる菜の花畑で、月が東の地平線から昇り、日が西の地平線にしずむ光景を思い浮かべるかもしれない。京都に住む人なら、裏庭に菜の花が咲いていて、東山から月が登り、西山に日が沈む、そんな光景を思い浮かべるだろう。そういう意味では、与謝蕪村の言葉の意味は読者に「通じていない」のである。言葉の意味としては通じていないにもかかわらず、俳句としての作品は成功している。いやしくも詩心のある人なら蕪村のなしえた仕事の偉大さを疑うことはないはずだ。
 言葉そのものに意味はなくとも、言葉の意味はその人の背景の側から与えられるのである。そういう意味で、俳人は言葉の力と限界を最も知る人達である。ロラン・バルトが日本の俳句を絶賛するのもそういうことからきているのだろう。

 もしライオンが人間並みの知能を持ち言葉を習得したとしても、おそらく人間とライオンの間にコミュニケーションは成立しないと言われている。背景としての生活様式が違い過ぎるからである。

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