調査内容が過年度の比較で見ると慣用句の表現については回答のポイントがよくなっていることがあった、よくなっていることがわかったようである。国民と言っていいだろうか、調査回答者も正しい認識を持つようにしているのである。調査がそれをどう評価するかは重要なことだ。報告内容の仔細を見て、意見をそれぞれの場合で述べるようにすべきであろう。文化庁の調査は日本語が正しく使われないとか意味の捉え方を間違っているとか、ともすれば、間違いの率だけを喧伝するような調査になっている印象があるので、それは多く、国語の伝統に変化が起きる危機感をもとにしたマスコミの論調にもあるようだが、質問のし方にも気を付けないと間違いをおかしかねないような、質問自体の受け止め方がされるようなこともあるので、その結果を知るのは傾向調査以上に、そのデータの読み取りにもっと注意をした方がよい。続とするゆえんである。 . . . 本文を読む
語の論と語彙の論とがあって語論は何をあつかい語彙論は何をあつかうかを述べる。語論は一つの語について述べる。語彙はその語の集合を述べる。その違いはあるか。おそらく語彙論となる前は、文法論にかかわる語構成の論があってそれが語論を作り、単位としての語を見れば語の論として成立していた。いまも語論は文法研究の一部門であり、単語の形態、用法、種類を研究する、あるいは単語の構成、活用、品詞性など種々の文法的な働きについてのものという辞書の解説がある。したがって語彙をとらえるときに一つの語とほかの語との関係をはじめ、それをまた語のグループとして全体を見るようなことになる。語彙が一つの語の語の論から始まってもよいだろう。さてその語であるが、もともと日本語でこの字義から語ると読むのでひとつの語だけを指すものでもない。単語というようになったのは語を数え立てるようなことからだから、日本語というようにこの語は複数の単語を指している。そう考えると、語彙と翻訳したのはなかなかに日本語の妙である。
語については語誌がある。語について記す。語についての誌であるが、これを しるす と読む。それをまた、デジタル大辞泉の解説では、語誌、語志、語史として、ある言葉の起源や意味、用法などについての変遷、また、それを書いたものと言う。
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現代日本語「誤」百科 867 妻を死亡ひき逃げ を、例題にしている。コラムの解説は、死亡ひき逃げ と言う語構成の捉え方にあるようである。死亡して、ひき逃げして、その時間順序のことであろうか、表現の比較に、殺人死体遺棄 を例にしている。殺人死体遺棄 であるなら、ひき逃げ は、その後に、死亡するので、ひき死亡逃げ というふうに、時間の順序を表せるという説明だ。言いかえに、れき死させ逃走 となるが、轢死 は、引かれて死ぬこと、車両に巻き込まれ、車輪などの下敷きになって死亡する意味を表す。言語の表現がコラムの言うように時間順序を表すというのは表現上であり得るが、それを言葉を並べて複合語を作るときの語構成に及ぶとどうなるか。ニュース検索をすると、この表現は、とくに重大事件として強調された言い方のようである。死亡に至らしめた引き逃げと言う悪質事件を指している。殺人事件のように、死亡事件であるが、その事件には殺人の故意があったかどうかわからないので、殺人事件としてのの表現ではない。つまり、死亡事故と言う重大事を扱う表現要である。 . . . 本文を読む
違和感を中日新聞が取り上げた。官房長官談話に出てくるからだ。それは、例えば、こうだった。
>「両陛下の思いを推測し、言及したことに非常に違和感を感じる」とコメント
また、集団的自衛権の行使容認の問題で、憲法解釈の変更に否定的な発言をした前内閣法制局長官に、違和感を表明ということのようだ。
新しい政治用語と思わせる書きようだ。それは、違和感という言葉を連発し、政権の考え方と違う言動に不快感を示す時に用いる、ということのようだ。
次のようなコメントをとって記事に示す。
>篠崎晃一・東京女子大教授(社会言語学)は菅氏の「違和感」を「『私はおかしいと感じる』と断定的に言うのを避けようとしているが、結果として『あなたの考え方は大多数の意見と合っていない』と客観化する言い方になっている」と分析する。確かに、遠回しの表現で相手を批判しようという意図は、記者会見を聞いていても伝わってくる。だが、政府の方針が「大多数の意見」と同じかというと疑問が残る。 . . . 本文を読む
詞にあったように、まみ、口つきは笑っていた。
いや、絵詞の原文に即して、笑ひ給ふきみ、であったのである。
いま、絵を見ていると無表情にも見えるが、静かに眠るとも、そう見てもさしつかえない。
しかし、この手が差し伸べられていたのであったら、これは明らかに笑って愛くるしい薫である。
この場面の絵に修正があったとすることは、まちがいない。
そして、それは何らこの場面を表すに絵詞、物語の原文によって加えられる変化ではない。
そこに物語のテーマの深さ、遠さがある。
源氏物語を一枚の絵で表した、とするのは、もちろん極論である。
光源氏の親子の対面を、ほほえましく思うか、複雑に絡み合った思惑があると見るか、それは読者にゆだねられる。
物語をたどって、このくだりを読み、光源氏の生涯に、この場面が二度目であること、その表現の類似性に驚愕したことがある。
この場面は繰り返されている。
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