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日本語教育の歴史と

2013-09-29 | 日本語教育の歴史
日本語研究史は1980年代以降に日本語教育とかかわりをもって展開した。日本語学と言う広まりである。現代に始まったことではない。日本語教育を歴史的に見ていくと、そこには日本語を学習するための日本語そのものについての分析が行われたり、日本語を記録しようとする研究があるのを知る。たとえば17世紀にポルトガル宣教師たちにより日葡辞書が編纂された。その成果は、日本語の文法記述としてロドリゲスが著わした日本語大文典とともに日本語研究には大きな業績である。これはまた日本語の歴史を知る上での貴重な資料でもある。日本語教育の歴史は、日本語教育史となったときに、日本語研究史、日本語史とあわせて、日本語についての見方をわたしたちに与えてくれる。 . . . 本文を読む

詩とリズム

2013-09-29 | 日本語百科
近代詩は詩の翻訳から始まっている。新体詩抄は外山正一、矢田部良吉、井上哲次郎らの詩集であるが、明治15年、1882年に刊行された。シェークスピア、テニソンなどの訳詩からなる。漢詩、和歌に対する、新体詩の始まりとされる。詩の韻律には日本文学の伝統である音数律があるが、一方で修辞技巧はやはり音韻律を工夫する。詩のメーター、リズム、イントネーションによる。リズムとメーターは日本語ではどちらも韻律と訳される。メーターは韻文の確立されたパターンである。西洋詩の伝統では、メーターは特徴となる韻脚と、行あたりの脚数によって分類されるのが通例と解説される。弱強五歩格は1行につき5つの韻脚から成り、支配的な韻脚はアイアンブ、弱強格/短長格である。それに対し、リズムは詩行から実際に結果として得られた音のことになるようである。詩行のメーターはアイアンブ、強弱格であるといったように記述されうるが、言語がどこで休止または加速を引き起こすか、いかにメーターが言語の他の要素と相互作用するかといったリズムの完全な記述にはこれといった規定はない。韻律論はまたより特定的に、メーターを示すために詩行を解析することを指す場合もある。 . . . 本文を読む

秋桜

2013-09-29 | 日記
秋の桜と書いて、コスモス なんと、秋桜 あきざくら で、メキシコ原産のキク科コスモス属の花、コスモス Cosmos の和名とあるではないか。日本には明治時代に渡来し、秋に咲き花弁の形が桜に似ているところから名づけられたとかで、これをコスモスと読ませるようになったのは、1977年、昭和52年の山口百恵の、秋桜(コスモス) 作詞、作曲がさだまさしのヒット作となってからのことである、とあって、あらたに知ったようなことだ。 >うす紅の秋桜が秋の日の 何気ない陽溜りに揺れている 比頃涙もろくなった母が 庭先でひとつ咳をする  日本の歌百選に選ばれている。小春日和と謳っている。小春はもともと陰暦10月の別名で小六月ともいい陰暦10月、太陽暦では11月頃になるので、9月の末の今からすれば、まだ少し先だ。秋櫻子と言えば俳句作者である。  >コスモスを離れし蝶に谿深し   . . . 本文を読む

日本語語彙論 語の構成

2013-09-29 | 語と語彙
語の構成は語構成論として文法論になる。国語語彙論は1950年代以降に論じられるようになり、語論とは分ける。しかし文法論の国語に対して言語の考え方が日本語学として1980年代から盛んになる。そのため、語を言語記号として説明し、形態としてとらえようとする。言語記号はソシュール学説による。形態はブルームフィールドの文法論による。したがって、語彙論を行うには語としての定義から出発するとよい。語は意味の最小単位である。言語記号は概念と聴覚映像を説明し、その後にウルマンによって音声、形式と、意味、概念の結びつきを意味の三角形とするようになった。語と言えば音声に意味が表裏一体となるコインのようにたとえることができる。形態は形式として語の音による形式を自立と結合の部分に分ける。接辞を考えればわかりよい。形態論の文法において語よりも、ひくいレベルの単位に語基をおき、語となるときの複合を説明する。 . . . 本文を読む

私説 源氏語り22

2013-09-29 | 源氏語り
藤壺の宮のところで管弦の遊びなどをなさっている。 そこへ帝が若宮を抱き上げて出てきたのである。 この物語りのクライマックスであった。 筋立てを追い、物語を読み、そう思う、それは知らない、知らされない場面でもある。   れいの、中将の君、こなたにて御あそびなどし給に、いだきいでたてまつらせ給ひて しかし、これは作者が用意した世代物語の伏線となっていたのだった。 だれも同じシーンがふたたび、あるとは、思ってもみないことであろう。 紅葉の賀から柏木まで、時を経て語られた、輪廻と言うべきか このことは物語を追えば、ふつうに見て取れる。 読み取れることである。 そうか、源氏物語をわかるとはこういうことだったのかと、ひとり合点をしたのであった。 光源氏の物語ではない、輝く日の宮の物語である、男の青春や栄耀栄華を描くものではない、女の宿世を描くものである。 源氏物語思想があるとすれば、やはり作者は書き手、語り手の仏教的因果律による世界観にある。 . . . 本文を読む

うつとりと実のつて

2013-09-29 | わくわく
八木重吉の詩があった。  秋になると / 果物は何もかも忘れてしまって / うつとりと実のつてゆくらしい 詩題は、果物 これで詩のすべてである。その詩集を取り出す。この詩は、まずしき信徒 に収められている。その次に、壁 と題する。  秋だ / 草はすっかり色づいた / 壁のところへいって / じぶんのきもちにききいっていたい  この詩集を手に入れたのは裏表紙の書き込みによれば、1966年、昭和41年1月のこだ。そこに、初めて自分で手にしたお金で買う、とある。その前に、昭和40年暮れ百貨店の配達アルバイト 自由にできると思い嬉しくて嬉しくて、新本特価市なるもので、こんなものを買う、としたためて、この詩集の価値を知るとある。 ひとつのながれ  ひとつのながれ / あるごとし / いずくにか 空にかかりてか / る る と / ながるらしき  この本をくるんだハトロン紙に詩を抜き書いている。 いつわりのない  こころをもとめ  あいてのないこころをいだき  きょうはすぎた  あしたもゆこう . . . 本文を読む