さし伸べる手 私説 源氏語り18
詞にあったように、まみ、口つきは笑っていた。
いや、絵詞の原文に即して、笑ひ給ふきみ、であったのである。
いま、絵を見ていると無表情にも見えるが、静かに眠るとも、そう見てもさしつかえない。
しかし、この手が差し伸べられていたのであったら、これは明らかに笑って愛くるしい薫である。
この場面の絵に修正があったとすることは、まちがいない。
そして、それは何らこの場面を表すに絵詞、物語の原文によって加えられる変化ではない。
そこに物語のテーマの深さ、遠さがある。
源氏物語を一枚の絵で表した、とするのは、もちろん極論である。
光源氏の親子の対面を、ほほえましく思うか、複雑に絡み合った思惑があると見るか、それは読者にゆだねられる。
物語をたどって、このくだりを読み、光源氏の生涯に、この場面が二度目であること、その表現の類似性に驚愕したことがある。
この場面は繰り返されている。
詞にあったように、まみ、口つきは笑っていた。
いや、絵詞の原文に即して、笑ひ給ふきみ、であったのである。
いま、絵を見ていると無表情にも見えるが、静かに眠るとも、そう見てもさしつかえない。
しかし、この手が差し伸べられていたのであったら、これは明らかに笑って愛くるしい薫である。
この場面の絵に修正があったとすることは、まちがいない。
そして、それは何らこの場面を表すに絵詞、物語の原文によって加えられる変化ではない。
そこに物語のテーマの深さ、遠さがある。
源氏物語を一枚の絵で表した、とするのは、もちろん極論である。
光源氏の親子の対面を、ほほえましく思うか、複雑に絡み合った思惑があると見るか、それは読者にゆだねられる。
物語をたどって、このくだりを読み、光源氏の生涯に、この場面が二度目であること、その表現の類似性に驚愕したことがある。
この場面は繰り返されている。