独り居の充実ライフを求めて!

ご訪問を頂きまして有り難うございます

幕末を駆け抜けた 越後の 「河井継之助」 の足跡、他を訪ねる旅

2008年10月17日 00時18分41秒 | 千葉実年歴史倶楽部(友の会・同好会を含む)

                  千葉実年大学校 歴史倶楽部 10月定例会
       1. 開催日  平成20年10月15日 (水)  ~ 16日 (木)  一泊二日    
    2. 旅  先  15日 (水) 
             小千谷市 「慈眼寺」、長岡市 「山本五十六公園、同記念館」、「河井継之助記念館」、「如是蔵博物館」、「阪之上小学校伝統館 (米百俵)」
            16日 (木) 魚沼市 「奥只見湖遊覧」、「西幅寺」(小出町)
    3. 参加者  48名 (男子 25名、女子 23名) 
    4. 宿泊先  新潟県魚沼市 「大湯温泉」 
    5. 昼食等  15日 昼  食 : わたや平沢店 (小千谷市) 
            16日 昼  食 : 奥只見ターミナル (奥只見湖畔)
            16日 夜弁当 : 登利平 (駒寄PA) 

  
                奥只見湖観光船乗船を前に参加者48名の皆様
 一日目 10月15日 (水)  
千葉 NTT前 7:00  スタート
夜遅くまで降り続いた雨音に眠りも浅く4時半起床の目覚まし時計を止めてもう少しと、目覚めたときの時間にもうダメ?に、何とか6時45分集合の48名の車中の一人となることが出来ました。
貴重な資料を沢山ご準備いただき、担当役員さんのユーモアを交えながらの丁寧な説明に5時間余の車中も有意義に最初の訪問先、小千谷市到着(12:20) 
ボランティアガイドさんから4年前に起きた中越地震の被害状況等を伺い、復興状況などのお話に一同大きな  を贈りました。
先ず「慈眼寺」へ。ボランティアガイドさんの説明を聞く。
長岡藩の命運を決した 「会談の間」 へ。
北越戊辰戦争を語るには欠かすことの出来ない史実、小千谷会談の行われた場所。
河井継之助の懇願は届かず、岩村精一郎はわずか30分で席を立ち、会談は決裂した。
本堂に入ると右側には、二人が対面した部屋が当時のまま残されています。
勿論、地震で崩壊 (写真を参照) したあとに復元されたものです。
本堂内には、各種資料も展示されていました。                                  

   
             慈眼寺山門                      「小千谷会談の間」
     真新しい灯籠が中越地震を物語っています            復元後の 「小千谷会談の間」 にて説明を聞く

 小千谷市を襲った地震による傷跡の写真が展示されておりましたので収めて参りました。

            崩れ落ちた伽藍                   崩壊した 「小千谷会談の間」
 

        
                            展示資料より撮影
又、ガイドさんから小千谷の特産品として重要無形文化財の小千谷縮、越後上布の原料となる苧麻 (からむし)のお話に、とても懐かしく興味深く伺いました。
2年ほど前の事ですが、ある呉服屋さんで、初めて苧麻 (からむし)に出会い、伝統工芸に魅せられたのでした。
帯の絵は新潟地方の山々が描かれております。

                        
         
昼食は 小千谷名物 「へぎそば」 を初めて頂きました。
    

そばのつなぎに 「ふのり」 を使い、打ち方も伝統の技に工夫を凝らし、しなやかで腰が強くとても美味しく独特の風味がありました。
「へぎ」 とは、幅30cm ・ 長さ50cm程の大きなセイロの様な箱、そばを一口程度に丸めたものを30個ほど並べ、3~4人で囲んで食べます。
大勢で同じ「へぎ」からそばを摘んで食べれば心も通い合うと言うことです。
名前の由来は、杉や檜などを薄く削って作った 「折ぎ板」 に入っているから「へぎそば」と呼ばれるようになったそうです。
又、茹でたそばを手を振りながら水からあげ、へぎに盛りつける特有の動作から「手振りそば」とも呼ぶそうです。

山本記念公園 
 山本五十六の生誕の地は、生家高野家が市に寄贈し、記念公園として整備されたものです。園内には生家が復元され、胸像が建っています。
 この胸像は元は全身像で、かつては霞ヶ浦の海軍航空隊にあったそうです。終戦後の1948年に進駐軍による取り壊しを恐れ、二分し密かに霞ヶ浦の湖底に沈めた。
 後に引き上げ、胸部のみを長岡の山本元帥景仰会が貰い受けてブロンズ像に鋳直したものです。
 生家の見学及び、胸像についてガイドさんのご案内を頂きました。         
       
    
           復元された山本五十六の生家                  山本五十六の胸像

山本五十六記念館
明治17年(1884)、儒学者の家系に生まれた高野五十六は、聡明で、中学の頃からベンジャミン・フランクリンを尊敬、猛勉強するなど広い視野をもっていた。
旧長岡藩家老・山本帯刀家を継ぎ、旧会津藩士族の娘と結婚。
文武両道、質実剛健、常在戦場の長岡らしい精神に磨きがかかる一方、石油や航空に早くから注目。
リンドバーグの大西洋横断にも触発され、特に航空の重要性を力説。
太平洋戦争開戦時、その先見性を世界に実証した。開戦にはあくまでも反対だった。
「この身滅ぼすべし、この志奪うべからず」と、わが身の危険を省みず、日独伊三国同盟に断固反対した姿勢は、人々を愛し、郷土を愛し、慈愛の心を強く保っていたからこそである。
しかし、その意に反し連合連合艦隊司令長官として未曽有の大戦争の指揮をとった。
昭和18年(1943)ブーゲンビル島 (現在のパプア・ニューギニア) で戦死。 山本五十六 享年 59歳 合掌
激動の世紀に、しなやかかつ強い心で生きた山本五十六の人間性を、21世紀に語り伝えたいと関係者のお話でした。
館内には、家族や親友に宛てた手紙や軍服などの遺品、ブーゲンビル島で撃墜された搭乗機「海軍一式陸上攻撃機」の左翼などが展示されています。

 
           山本五十六記念館                      撃墜された搭乗機の椅子
                                    
 
      ブーゲンビル島で撃墜された当時の搭乗機                 墜落現場に残る碑
河井継之助記念館
幕末の長岡藩の、それもたかだか百二十石取りの子息が、封建の枠に囚われず、自由な発想で思うが儘に生き、そして死んだ。
その反面、道理だとか義理人情には厚く、弱きを助け、強きをくじく、真の勇者だった。
司馬遼太郎の代表作「峠」から見えてくるものは、運命の負を甘受し、最期は武士であろうとした河井継之助の姿がある。
この継之助の人間的魅力を知れば、今を生きる者も元気が貰える。
長岡藩には 「常在戦場」 の精神、 「米百俵」 の精神、 「互尊独尊」 の精神がそれぞれあった。
藩に伝わる 「牛久保の壁書」 は、牧野家が戦乱の地で培った武士の心得18条を纏めたものである。
250年間の統治によって深く長岡の地に根を下ろし 「常駐戦場」 の4文字は、かつて藩士達の一番の信条で、継之助もこの言葉を書にして肝に銘じたという。
          
                       入 館 券
  
              河井継之助記念館
                                 

            馬遼太郎 「峠」 の直筆の原稿                        河井継之助が両親に宛てた手紙                                                   

コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする