牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

悪魔や悪霊が原因と言わないで

2013-08-25 05:58:38 | Weblog
聖書の一言=創世記49:23-24 弓を射る者は彼を激しく攻め、彼を射て、悩ました。しかし、彼の弓はたるむことなく、彼の腕はすばやい。これはヤコブの全能者の手により、それはイスラエルの岩なる牧者による。

創世記は50章、後半12章がヨセフの記録です。試練や困難、悲しみの中を歩みましたが、すべてが益となり、祝福と繁栄、ゴールデンルールに生きた記録です。

弱さという字は、弓が二つあり、しかも羽も二つあります。回りから強く攻められられたり、悩まされたりします。全能の愛の神は、その御手で守り支え、平安と同jにすべてを勝利に導いてくださいます。

それはヨセフの時も、4000年後の今も変わらず、イエス・キリストの十字架と復活、聖霊の助けにより現実に実現します。

「しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」(コリント人への第二の手紙12:9-10)

とある通りです。弱さは恥ではなく、むしろ感謝であり、「私が弱い時にこそ、私は強いからです」は真実です。

今朝は退院2年目の朝を迎えています。左右脳内出血、小脳内梗塞、肉体の弱さをシッカリ体験している日々です。自分だけでなく家内も、友人たちや教会員にも、肉体だけでなく様々な意味で弱さを持つ者があります。

生駒聖書学院も、エリムキリスト教会も、それは恵みであり、常に平安であり、悪魔や悪霊との戦いでもなく、イエス・キリストに有って生きる祝福と信じています。

霊的戦いあを否定はしませんが、それに捕えられてすべてを悪魔や悪霊のせいにする現今のキリスト教会の生き方は不思議です。

生駒聖書学院で教えを受けた卒業生たちが、健全な聖書の教えから逸脱しないようにと祈りながら、9月2日の二学期を待つこのころです。

十字架のより滅ぼされた悪魔を恐れないで、主がともにおられる喜びを日々体験したいものです。

小学3年生のとき、同級生に石を投げられ逃げました。すると5年生のお兄ちゃんが、両手を広げてかばいながら、義之に石を投げると、ぼくが許さんぞ!と強く言うと、腕白どもが雲の子を散らすように逃げ去り、その日から誰も意地悪をしなくなりました。

16歳でクリスチャンになり、もうすぐ72歳(9月2日)まで、5年生の先輩ならぬ、十字架のいのちを捨て、3日目に復活されたイエス様は、いつもともにおられて「わたしはあなたを見捨てず、離れない。世の終わりまであなたと共もにいる」と、聖霊によって常に臨在され、共におられます。

「その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした」(ヘブル2:14-15)

十字架により滅ぼされた悪魔を恐れないで、イエス様とともにある平安を常に体験してください。

悪魔は嘘ツキの父(ヨハネ8:48)で、欺きの天才です。騙され欺かれないように、くらまさらないようにしてください。すべての問題を悪魔のせいにしてはいけません。霊的問題の原因を悪魔だと言うのは、アダム以来の人間の罪の性質です。問題の本質は自分の罪が原因です。エデンの園のアダムのように責任放棄、責任転嫁しているのです。

イエス・キリストは第二のアダムとして、すべてを十字架に背負いいのちを捨ててくださいました。

アーメンとイエス様を心に受け入れるだけで救われます。日本がすくわれるために、十字架の救いを語り続けている日々です。

すべてのことに感謝し、今日もまた天国の一日です。ありがとうございます。素晴らしい礼拝の一日です。

ぜひお近くのキリスト教会へ、お出かけください。

学院教会は、午前10時より。大阪エリムキリスト教会は、午後2時より。

ヘブル人への手紙

2:14 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、

2:15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

2:16 主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。

2:17 そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。

2:18 主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。