牧師雑感

聖書のことばを中心に毎日の出来事を書いています。

余命一年通告から3年目の夏

2013-08-13 10:36:08 | Weblog
2011年8月の今日、総合病院の主治医から。牧師さんと奥さんですから、正直に言いますね。肺がんレベル4で余命一年。

抗がん剤も手術も放射線治療もできません。自動車の運転も、スイミングスクールも何でも好きにしてくださいと言われました。


2年間貧しい食生活ですが、温野菜療法で入院もなく、普通に主婦の生活を続ける恵みが与えられています。

主治医も不思議がっています。でも余命を医者が一度宣告したら、そのままです。いのちは神様のものだからと、会うたびに不思議がりながら、素晴らしいお医者さんで、今は家内のことより、主人はどうですかと尋ねるそうです。

何があっても永遠のいのちを受け、すべてに感謝し、平安で喜びながら、二人で生きています。お祈りありがとうございます。今日もまた天国の一日です!

 2011年の7月末、ちょうど種子島の礼拝が終わった時、家内からの電話で、ガンとわかりましたとの電話でした。九州での集会の予定をすべて終わり、帰った時はもい8月になっていました。

近畿大学奈良総合病院から、家内と一緒に来るようにと言われ、病院へ行ったのがちょうど今頃です。

 先に書いたように、牧師さんだからほんとうのことをと言われ、パソコンを示しながら詳しく説明され、余命は一年ですと言われました。家内は感謝しますと、その余名宣告をうけました。

末期がんの方を何人も見送った病院で、末期がん、しかも余命一年宣告を受けるとは思いもよらないことでした。

いつも今日もまた天国の一日です。生きていても天国、地上のいのちが終わると永遠の天国と告白しています。けれどももっとも身近にいる者が、余命を宣告され、治療の方法が一つもないと言われ、やはりショックでした。

その日から多くの恵みが与えられ。2年間ブログにはほとんど書きませんでした。3年目を迎え、家内も書いても良いと言ってくれました。少しずつ書いて見たいと思います。

どうか、お祈りの隅にでもお加えくだされば感謝です。

家内と二人、死を見つめつつと言うより、天国を仰ぎながら、今日もまた天国の一日ですと告白しています。

コリント人への第二の手紙

4:7 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。

4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。

4:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

4:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

4:12 こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです。

4:13 「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。

4:14 それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。

4:15 すべてのことはあなたがたのためであり、それは、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現われるようになるためです。

4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。

4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。

4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

恩を忘れないで

2013-08-13 05:58:17 | Weblog
聖書の一言=創世記40:23 ところが献酌官長はヨセフのことを思い出さず、彼のことを忘れてしまった。

ヨセフの夢の解き明かにより、死をまぬかれtたパロ(エジプト王)の献酌官長は、2年間もヨセフのことを(恩)を忘れていました。

2年間どころか、ずうっと愛なる神に生かされ、守られていることを忘れている人間。

神の愛と恵みだけでなく、生み育ててくれた親の恩を忘れ、教師や上司、その他数え切れない世間にお世話になったことを忘れてはいませんか。

不平不満だらけ、いや感謝していても自分のことしか考えていない自己中心のままではいでしょうか。

このみことばは、恩を忘れてはいけないことを思い出させてくれます。ハガキ一枚、電話一本。きれいな笑顔、やさしいことばひとつでも親や、お世話になった人のことを思い出してみましょう。

そして何よりも、神様、きょうまで生かし、与えてくださった恵み(恩)に感謝します。これからいただく多くの恵み(恩)をありがとうございます。アーメン。今日もまた天国の一日です。

哀歌

3:22 私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。

3:23 それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。

3:24 主こそ、私の受ける分です。」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。

3:25 主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。

3:26 主の救いを黙って待つのは良い。

3:27 人が、若い時に、くびきを負うのは良い。

3:28 それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。

3:29 口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。

3:30 自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。

3:31 主は、いつまでも見放してはおられない。

3:32 たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。