15歳で司法試験に合格した中学生も!天才少年「その後の人生」

2018年06月06日 | 日記
15歳で司法試験に合格した中学生も!天才少年「その後の人生」
6/6(水) 11:00配信 現代ビジネス
15歳で司法試験に合格した中学生も!天才少年「その後の人生」
写真:現代ビジネス
 「神童も二十歳すぎればただの人」とはよく言われるが、天才少年が天才のまま大人になることは稀。どこかで挫折を乗り越えてきた。

高2で相対性理論を理解
 ちょうど20年前の'98年春、千葉県在住の高校2年生・佐藤和俊さんは、新聞各紙、テレビ各局で大々的に取り上げられた。それは日本初の「飛び級」で千葉大学工学部に入学を果たしたからである。

 佐藤さんは、千葉大学が行った物理学の分野で優秀な人材を募集する「飛び入学」選抜に合格した天才少年だった。

 いまや37歳となった佐藤さんは、現在の仕事についてこう語る。

 「トラック運転手をしています。時間は不規則で、朝の3時から走り出すこともありますね。ただ、日曜と祝日は休みなので、家族と過ごせる時間がきちんとあることがありがたいです。

 保育園のときに菅原文太さん主演の映画シリーズ『トラック野郎』を観て大型車が好きになったんです。いつか乗ってみたいなと憧れていたんですよ」

 どんな道のりを歩んで、神童はトラック運転手になったのだろうか。佐藤さんはこう振り返る。

 「中学2年の終わりころ、数学の授業で先生から『今見ている星は消滅している可能性がある』という話を聞いたんです。それから、『光ってなんだろう? 』って考え始めたんですよね。

 いろいろ勉強してみたくなり、それこそ相対性理論だったり、量子力学だったり……だから、数学と理科をやらなきゃ理解できないって思ったんです。本気で勉強を始めて、中3のときは、数学と理科の試験は何度も満点を取りました」

 高校受験は志望していた地元の進学校に進む。高校では化学部に所属。加えて、数学、物理、化学を重点的に勉強した。

 「数学、物理、科学、英語の試験はだいたい満点で、この4科目は学年1位のことがほとんどでした。国語や社会は赤点だったりもしましたけど(笑)。高2の夏休み前から相対性理論を勉強し始めて、秋には理解できるようになっていたと思います。

 飛び級制度は、高2の夏ごろにたまたま知って挑戦することを決めました。量子力学などの勉強を早くしたかったんです。高校の物理は、自分が疑問に思ったことに対してあまり答えが出てこなかったんですよ」

 佐藤さんは高校3年生を経験しないまま、千葉大学工学部物質工学科に通うことになった。新聞やテレビから次々と取材を受けて、周囲がザワつくこともあったが、佐藤さんは特に気にならなかったという。吹奏楽のサークルにも入り、大学生活を満喫した。

 「大学3年になって研究室に入り、半導体について勉強していました。将来は研究者になりたいと考えるようになりましたね。やはり、紙の上だけでなく、実験をやることが楽しかったんです」

 佐藤さんは千葉大学大学院に進学する。修士課程を終えると、宮城県にある財団法人の研究所で研究職に就いた。だが、昨今、大学院を出ても研究者として安定した職を得るのは困難というのは、よく知られた話である。それは元「天才少年」でも同じだった。

 「研究職として月給は手取りで約20万円でした。しかも、1年契約で何年更新できるかもわからなかった。大学院生時代に中学時代の同級生と結婚して、娘も生まれました。

 子どもがいる状態で、1年契約の仕事をすることは不安でしたね。安定した生活にシフトしたいという気持ちになり、研究職は1年で辞めて、地元の千葉に戻りました」


「普通に生きるのは大変だ」
 佐藤さんの頭脳は、セカンドキャリアを探すときに生かされた。トラック野郎に憧れた佐藤さんは学生時代に大型免許、大型特殊免許、牽引免許を教習所に通わず、独学で試験を受けて取得していたのだ。佐藤さんはすぐに大型トラックの運転手の職を得られた。

 その半年後、縁があって研究職に戻り、千葉大学特任研究員を1年半務めた。ただし、研究をしながらも、家族を養うために予備校講師のアルバイトもしていたという。

 「予備校では物理を教える際、数学を応用したり、講師はすごく楽しかったですね。

 研究員を辞めた後も、予備校講師として約3年半ほど働きました。ただ最終的には不安定な職なので、トラックの運転手に戻ったんです。免許を持っていれば、まず仕事にあぶれることはありません。

 今の会社は今年で4年目です。手取りで月30万~35万円ほど。研究職のころに比べると収入は安定していますよ」

 研究職に未練はまるでないと言うように、佐藤さんは笑顔でこう続ける。

 「デコトラ(装飾がついたトラック)にも乗りたいんですが、入れてくれない現場もあるのでなかなか難しいんです、でも、自分のトレーラーには、怒られない範囲で電飾はつけています。

 仕事のやりがいを聞かれると困るんですが、とにかくトレーラーは走っているのが楽しいんですよね」

 大学入学当時のことを佐藤さんはこう思い返す。

 「周りからいくら凄いね、と言われたからといって、プレッシャーは感じていませんでした。自分がすべき勉強は変わらないと思っていた。飛び級の経験がマイナスになったことはありません。

 プラスになったかどうかは、飛び級をしなかった人生と比べられないので、わかりませんね。

 いまも家庭教師をやっていますよ。医学部を目指している高校生を教えていて、その成長が楽しみです。これといって今後のプランはありません。トレーラーをメインに、学生に教える仕事も増やせればいいなとは思います。教えることは本当に楽しいですから」

 研究職にこだわるよりも、家族との時間や安定した収入を得られるトラック運転手を選んだ。佐藤さんの笑顔に後悔は感じられなかった。

 '91年、司法試験一次を史上最年少の中学3年生、15歳にして合格した三好正記さんも、当時大きな話題となった。

 三好さんは司法試験に専念するために、高校は単位制に進んだ。高校では法律ではなく、コンピュータに興味を持ったという。高校卒業後はITの会社を起業した。

 だが、三好さんが立ち上げた会社は'16年に解散していた。本誌は自宅や実家を訪ねたが、いずれも転居しており、近所住民は誰も三好さんの近況を知らなかった。彼は起業した当時のインタビューでこう答えている。

 「天才というレッテルを貼られて普通に生きていくことが大変だ」

 同じく'91年には6歳の幼稚園児・竹下龍之介さんが書いた童話『天才えりちゃん金魚を食べた』が福島正実記念SF童話大賞を受賞。竹下さんは4作の童話を発売し、累計100万部を超えた。だが、'95年以降は絵本の創作活動はしていない。

 その後の竹下さんは慶應大学法学部に進み、司法試験に合格。現在は離婚問題に強い弁護士として活動している。神童時代とは違う道で努力を実らせたのだ。

 '04年に日本漢字能力検定の1級に当時の最年少記録である11歳、小学5年生で合格したのが、岐阜県在住の鈴木太郎さん(25歳)である。漢検1級は合格率約10%前後という難関である。鈴木さんはこう振り返る。

 「それ以前は影が薄い少年でした。でも、テレビ出演や新聞での紹介のおかげで、学校の中でも一目置かれるようになったかもしれません」

 鈴木さんは高校3年生のときには国際地理オリンピック日本代表にも選ばれた。そんな鈴木さんにも挫折の瞬間があった。

 「国際地理オリンピックに世界中から集まった高校生はとてつもなく優秀でしたね。『自分が神童なんてとても言っていられない』と感じました。まったく歯がたたない同世代がいたことを知ったのが、挫折の一つですね。

 そしてもう一つが、大学受験の失敗です。僕は京都大学へ行くと公言して、落ちてしまった」

 自分が天才でないと悟った。では、そこからどうやって自分の道を切り開いていったのか。

 「ここに集まっている人なかで、自分の得意なことはなんだろうと考えるようになりました。そこで、気さくに話しかけられるような役回り、人の輪を作るような役割を担っていきたいと思った」

 そして神戸大学理学部に入学。新聞部に入った。それが転機となり、鈴木さんはいま、中日新聞で記者をしている。

 「『神童』と呼ばれたことが、自分に自信を持つきっかけとなったので、ありがたいと思っています。当時の肩書や栄誉は取材先での話のつかみとしては役立ちますが、それぐらいですよ。漢字は自信があるのですが、パソコンなので打ち間違えることはありますね(笑)」

 突出したIQ、末は博士か大臣かと囃された神童――。それが幸せとはかぎらない。元天才少年の「その後」はさまざまだ。

 「週刊現代」2018年5月5日・12日合併号より
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