狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

軍人勅諭

2006-08-16 15:33:47 | 怒ブログ

 私は昭和17年4月旧制中学に入学した。この頃はまだ本屋もあったし、編上靴なども自由に買えた。(2ヶ月ぐらいで底が抜けるような代物だったが)ノートは学校の名入れで紙質もよかった。二年生からカーキ色の洋服、戦闘帽、に制服が変わった。5年生から3年生までは、夏は霜降小倉、冬は黒の学生服だった。
 一年生の1学期は、どの学科も今でいういわゆるオリエンテーションで、音楽の授業には、校歌や愛国行進曲の歌唱をやった。教科書は岩波の「国語」、英語は三省堂のkings Krown Readerを2年まで使った。2年のとき、Reader第一課に、イギリス国歌が載っていたが、削除され空欄のままになっていた。

 ミットウエー海戦の敗北は全く教えられなかった。知らなかった。ガダルカナル撤収の報のあった日の朝礼は異状であった。K教官は朝礼台に上り、
〝かしらぁーなかぁ〟の全生徒の敬礼に答礼するや、いきなり
「米英撃滅せざるベからぁーズ!終わり!」と一言叫んだだけで朝礼台を降りたのである。
 日を追って戦時色は強化されていった。

 軍事教練が必修科目に加わったのは、学校史によると、大正4年(1925)から、中学校に陸軍の現役将校が配属されて、毎週2時間教練の時間が設定されて訓練が行われたとある。
 私たちは1年生のとき、すでに38式歩兵銃の分解分解手入れを行った記憶がある。
 軍人勅諭の毛筆による謹写が夏休みの宿題であった。
 丸ごと暗記までは行かなかったけれど、時折目を落とすだけで諳んじられるようになった。

軍人勅諭とは次のようなものである。
  
   軍人勅諭(陸海軍人に下し賜はりたる勅諭)
 我か国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある 昔神武天皇躬つから大伴物部の兵ともを率ゐ中国のまつろはぬものともを討ち平け高御座に即かせられて天下しろしめし給ひしより二千五百有余年を経ぬ 此間世の様の移り換るに随ひて兵制の沿革も亦屡なりき 古は天皇躬つから軍隊を率ゐ給ふ御制にて時ありては皇后皇太子の代はらせ給ふこともありつれと大凡兵権を臣下に委ね給ふことはなかりき
 中世に至りて文武の制度皆唐国風に傚はせ給ひ六衛府を置き左右馬寮を建て防人なと設けられしかは兵制は整ひたれとも打続ける昌平に狃れて朝廷の政務も漸く文弱に流れけれは兵農おのつから二に分れ古の徴兵はいつとなく壮兵の姿に変り遂に武士となり兵馬の権は一向に其武士ともの棟梁たる者に帰し世の乱と共に政治の大権も亦其手に落ち凡七百年の間武家の政治とはなりぬ
 世の様の移り換りて斯なれるは人力もて挽回すへきにあらすとはいひなから且は我国体に戻り且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき降りて弘化嘉永の頃より徳川の幕府其政衰へ剰外国の事とも起りて其侮をも受けぬへき勢に迫りけれは朕か皇祖仁孝天皇皇考孝明天皇いたく宸襟を悩し給ひしこそ忝くも又惶けれ
 然るに朕幼くして天津日嗣を受けし初征夷大将軍其政権を返上し大名小名其版籍を奉還し年を経すして海内一統の世となり古の制度に復しぬ是文武の忠臣良弼ありて朕を輔翼せる功績なり 歴世祖宗の専蒼生を憐み給ひし御遺沢なりといへとも併我臣民の其心に順逆の理を弁へ大義の重きを知れるか故にこそあれ
 されは此時に於て兵制を更め我国の光を耀さんと思ひ此の十五年か程に陸海軍の制をは今の様に建定)めぬ夫兵馬の大権は朕か統ふる所なれは其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を伝へ天子は文武の大権を掌握するの義を存して再)中世以降の如き失体なからんことを望むなり
 朕は汝等軍人の大元帥なるそされは朕は汝等を股肱と頼み汝等は朕を頭首と仰きてそ其親は特に深かるへき朕か国家を保護して上天の恵に応し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を尽すと尽ささるとに由るそかし
 我国の稜威振はさることあらは汝等能く朕と其憂を共にせよ我武維揚りて其栄を耀さは朕汝等と其誉)を偕にすへし汝等皆其職を守り朕と一心になりて力を国家の保護に尽さは我国の蒼生は永く太平の福を受け我国の威烈は大に世界の光華ともなりぬへし
 朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶訓諭すへき事こそあれいてや之を左に述へむ

一 軍人は忠節を尽すを本分とすへし凡生を我国に禀くるもの誰かは国に報ゆるの心なかるへき況して軍人たらん者は此心の固からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報国の心堅固ならさるは如何程技芸に熟し学術に長するも猶偶人にひとしかるへし其隊伍も整ひ節制も正しくとも忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同かるへし
 抑国家を保護し国権を維持するは兵力に在れは兵力の消長は是国運の盛衰なることを弁へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途に己か本分の忠節を守り義は山岳よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ其操)を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれ

一 軍人は礼儀を正くすへし 凡軍人には上元帥より下一卒に至るまで其間に官職の階級ありて統属するのみならす同列同級とても停年に新旧あれは新任の者は旧任のものに服従すへきものそ下級のものは上官の命を承ること実は直に朕か命を承る義なりと心得よ己か隷属する所にあらすとも上級の者は勿論停年の己より旧きものに対しては総へて敬礼を尽すへし 又上級の者は下級のものに向ひ聊も軽侮驕慢の振舞あるへからす公務の為に威厳を主とする時は格別なれとも其外は務めて懇に取扱ひ慈愛を専一と心掛け上下一致して王事に勤労せよ 若軍人たるものにして礼儀を紊り上を敬はす下を恵ますして一致の和諧を失ひたらんには啻に軍隊の蠧毒たるのみかは国家の為にもゆるし難き罪人なるへし

一 軍人は武勇を尚ふへし 夫武勇は我国にては古よりいとも貴へる所なれは我国の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまし況して軍人は戦に臨み敵に当るの職なれは片時も武勇を忘れてよかるへきかさはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からす血気にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂ひ難し 軍人たらむものは常に能く義理を弁へ能く胆力を練り思慮を殫して事を謀るへし小敵たりとも侮らす大敵たりとも懼れす己が武職を尽さむこそ誠の大勇にはあらされは武勇を尚ふものは常々人に接るには温和を第一とし諸人の愛敬を得むと心掛けよ 由なき勇を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて犲狼の如く思ひなむ心すへきことにこそ

一 軍人は信義を重んすへし 凡信義を守ること常の道にはあれとわきて軍人は信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難かるへし信とは己か言を践行ひ義とは己か分を尽すをいふなりされは信義を尽さむと思はは始より其事の成し得へきか得へからさるかを審に思考すへし朧気なる事を仮初に諾ひてよしなき関係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷りて身の措き所に苦むことあり悔ゆとも其詮なし 始に能々事の順逆を弁へ理非を考へ其言は所詮践むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速に止るこそよけれ古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に踏迷ひて私情の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍に遭ひ身を滅し屍の上の汚名を後世まで遺せること其例尠からぬものを深く警めてやはあるへき

一 軍人は質素を旨とすへし 凡質素を旨とせされは文弱に流れ軽薄に趨り驕奢華靡の風を好み遂には貪汚に陥りて志も無下に賤くなり節操も武勇も其甲斐なく世人に爪はしきせらるゝ迄に至りぬへし 其身生涯の不幸なりといふも中々愚なり此風一たひ軍人の間に起りては彼の伝染病の如く蔓延し士風も兵気も頓に衰へぬへきこと明なり 朕深く之を懼れて曩に免黜条例を施行し略此事を誡め置きつれと猶も其悪習の出んことを憂ひて心安からねは故に又之を訓ふるそかし汝等軍人ゆめ此訓戒を等間にな思ひそ

 右の五ヶ条は軍人たらんもの暫も忽にすへからすさて之を行はんには一の誠心こそ大切なれ 抑此五ヶ条は我軍人の精神にして一の誠心は又五ヶ条の精神なり心誠ならされは如何なる嘉言も善行も皆うはへの装飾にて何の用にかは立つへき心たに誠あれは何事も成るものそかし況してや此五ヶ条は天地の公道人倫の常経なり行ひ易く守り易し 汝等軍人能く朕か訓に遵ひて此道を守り行ひ国に報ゆるの務を尽さは日本国の蒼生挙りて之を悦ひなん朕一人の懌のみならんや
  明治十五年一月四日
御  名

日本史小百科28「海軍」外山三郎:近藤出版社にあるものを、句読点を廃し、仮名の濁点をとり原文に近くした。