狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

浪士石油を掘る

2006-08-12 20:34:44 | 日録
ボクは恥ずかしながら「若い人」の石坂洋次郎は知っていても、石坂周造は、その名前すら全く知らなかった。
ブログで反戦の老闘士M氏を知った。氏のブログ上でのプロフェイルによると、
〝海と周辺国に向き合う日本人の歴史〟が主著のように思われるし、ブログの論調の出発点も、全てが日本書記に立脚しているように思えてならなかった。堅い家永三郎の容貌をイメージしていた。
今日やっと、氏の「浪士石油を掘る」を入手した。
まず驚いたのは、その表紙カバーの折込部分にあった氏の写真である。1932年山口県生まれ。
安倍晋三と比したらぶん殴られるかもしれないけれど、彼よりも若い!!うんと若い。勿論10数年前撮影のご写真と推測できるが、その分を加算しても、司馬遼太郎の白髪に比してのイメージは困難である。この若さからあの歯切れの良い反戦論説連日更新されるのだ。


さて「浪士」石坂周造とは架空人物ではなかった。まさに異色の維新史である。

>石坂 周造(いしざか しゅうぞう、天保3年1月1日(1832年2月2日) - 明治36年(1903年)5月22日)は、幕末の彦根藩士。尊皇攘夷論者。明治期には石油産業の祖として知られる。幼名は宗順(そうじゅん)。

近江国に生まれる。

江戸で清河八郎と共に尊皇攘夷運動に荷担し、幕府を欺いて浪士組を結成。浪士組(後、新選組と新徴組に分離)頭取の一人に就任して文久3年(1863年)3月、京都に入った。京都に入ってからも清河八郎らと尊皇活動を続けて、水戸藩出身の芹沢鴨や佐幕派の近藤勇らに反感を買う。石坂自身も上洛道中より近藤達に良い感情を抱いていなかったらしい。

やがて京都から江戸へ帰還するよう命令が下ると、大半の浪士達を率いて江戸へ戻るが、幕府を欺いた罪により同年4月13日、幕臣・佐々木只三郎らに清河八郎は斬殺され、石坂もまた翌14日に幕吏に包囲されて5年間投獄された。預かり先を転々としながら幕府瓦解を獄中で過ごし、慶応4年(1868年)3月15日に山岡鉄舟預かりの身となる。その後赦免されて民間事業に取り組み、石油産業で成功した。

明治36年(1903年)、死去。享年72。

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