狸便乱亭ノート

抽刀断水水更流 挙杯消愁愁更愁
          (李白)

末期の症状

2006-08-11 21:37:13 | 怒ブログ

私は中学3年の昭和20年1月、××空廠という海軍の航空機やエンジンなどの組立、修理が行われるところに動員された。
次いで3月にはわが中学校の2年生までがこの空廠に送り出されたのである。

この模様を当時中学2年生だったY兄は「戦中派の中学時代」という著書の中で次のように述べている。

>わが中学では19年7月、4,5年生は通年動員で市内T電機製造(株)と(株)N鉄工所へ送り出した。そして残る3年生にも出動の日が来た。20年1月30日××空廠へと学窓をあとにした。校内はガランと空き教室が目立ち、2年生が最上級生という異例の状態となったのである。

3年生の後を追う様にして、在校2年生に動員の命が下ったのは3月始めのことである。
この日7日(前日に入廠所注意あり、後大掃除を行う)校庭で隊伍を整えた2年生×学級全員は、何時戻れるか予定のない母校を後に約×㌔を徒歩で××空廠へ入った。

飛行機部養成班前の広場に、学徒は訓示台に向かって整列した。右側から甲乙丙丁組の順にそれぞれが4列縦隊となった。台の左右には第一種軍装の海軍士官、技官が連なった。最初に登壇した海軍士官は次のような訓示を行った。

「今や戦況は深刻である。全戦線に亘って憂慮すべき段階に直面した。第一線の将兵は歯を喰いしばって戦っておる。もはや一刻の猶予もならぬ。我々は1機でも多く飛行機を前線へ送らなければならない。この重大時期に諸君は学業をなげうち、産業戦士としてこの××空廠に馳せ参じた。誓って皇運の打開に尽力することを期待し切望するものである」。>

 私たちはy兄たちより僅か2ヶ月ちょっとだけ入廠が早いが、まだこの頃はそれほどの切羽詰った認識はなかった。
廠内の「巨大」な大型組立て工場(東西約110㍍、南北約180㍍、坪数にして約6000坪)内には、「天山」「零戦52型」「雷電」「零式輸送機(ダグラスDC3の国産機)が処狭しとばかり並んでいて、鋲打ち作業の騒音、電探(レーダー)装備の作業、塗料のシンナーの匂いで、活気付いていた。新鋭機「雷電」32型には操縦席後部に斜め銃を装備し排気タービンが取り付けられてあった。

私達ははじめ、養成班という所で所定の訓練を受けた。訓練とは鉄板を鏨による切断、鑢賭け、きさげ(ピストン状のアルミの物体の上部を精巧な平面に削る)作業、そのほかノギス、マイクロメータの使い方などを、訳1週間で習得、速成工員となった。
私たちは戦局について、大本営発表を伝える、ラジオと新聞以外に知るすべもなかった。何しろ数え歳15~6歳のまだ子供であったのだ。
しかし最早どうにもならないほど戦局は末期的症状を呈していたのである。