車椅子で卓球@渡邊剛

2013年より車椅子卓球をスタート。備忘録の意もこめてここにブログを綴ります。
内容は基本パラ卓球、時々食文化。

新大関の言葉が響く

2020年07月16日 22時28分20秒 | 日記
ニュース番組を流していた。

僕はキッチンにいて画面は見ずに音声だけを聞いていた。

すると、スポーツのコーナーで相撲の話題を取り上げていた。

その中心は親大関だった。

この状況下、課題はあれどこれまでとは異なり思うような稽古が出来なていないといった報道だった。

けれど、そんな新大関のコメントが耳に響いた。

「これまで自分がやってきたことを信じて」

キッチンで作業をしながら、さすがだなと思った。

信じられるだけのことをやってきたからそう言える。

胸を張れるだけのことをやってきたからそう言える。

僕の胸に刺さった。

この言葉を口にするのは至極容易い。

でも、その言葉にどれだけの重みがあるか、真実味があるか、それは「誰が言ったのか」によって異なる。

それはもちろん聞き手によっても異なるものだけど。

僕の場合、彼が言うから耳に響いたのだと思う。

いや、他にも響く方は大勢いる。

でも、正直、響くかどうかは人による。

また、例えば試合前、自分がそう言われたとしよう。

「信じるだけのことをちゃんとやってきたか?」

もしかしたら自問自答するかもしれない。

それはいわゆるメンタルに直結する。

ただ、どれだけやってきたか、それは相手と比較できることでもない。

だから、「俺の方がやってきたんだ!」と思えるだけのことをやる、やり続ける。

それしかない。

そう思える人の「これまで自分がやってきたことを信じて」という言葉は重さが違う。

アスリートであれば尚の事。



「お前が偉そうにいうな」

「知った風な口をきくな」

と叱咤されるかもしれない。

だから、そう言われないくらいにやっていく、積み重ねていくしかない。

言われたくなければそうするしかない。

文化人であれば積み重ねるべきは知識や教養だから、ある意味それは見た目から判断できるようなことではない。

けれどアスリートであれば、競技によりその違いはあれど、まずフィジカルに表れるから案外見た目で分かりやすい。

だからこそ、その見た目で言葉の重さ、説得力は異なってくる。



若い頃に覚えた言葉がある。

「努力は必ずしも報われるものではない」

この言葉には続きがある。

「けれど、勝つ奴は必ず努力した奴」

という。

その言葉からすると、努力をするということは単にそのステージに上がるための必須条件なだけであって、その中で競い合うのは努力以上のものということになる。

「これまで自分がやってきたことを信じて」

という言葉には、単なる努力だけでなく、その更に向こう側にそれこそまさに血のにじむようなものが存在しているのだと思う。



僕の友人のパラリンピアンの名言も心に留めている。

「努力は絶対自分を裏切らない。でもそれで結果が得られなかった時、それは単に自分の努力が足りなかっただけの事。相手の努力の方が上だったってこと。」

どれだけやればいいのか、どれだけ積み重ねなければならないのか、誰にも分からないし、おそらく、絶対の答えは存在しない。

さらに、次の試合がいつになるのか全く持って不明な今のこの状況ではモチベーションの維持もままならない。

でもやる。やり続けるしかない。

そうでなければ、「これまで自分がやってきたことを信じて」なんて言葉を発することは出来ない。

不安な状況はまだまだ続く。

今年は雨の日が一段と多く、しかも長く続いている。

でもやる。

その向こう側に青空が広がっているはず。

いざその時の為に、今頑張る。

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