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中世上京を歩く その5 小川通の本法寺

2021年01月19日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 扇辻子すなわち清蔵口の交差点より南に進んで小川通を進みました。道幅は狭くなり、各所で折れています。豊臣秀吉の洛中街区再編による宅地の拡張により、多くの通りがこのように細くなりました。さらに近世期にも宅地拡張の動きが続いて、どんどん道が細くなってゆきましたので、平安京の頃には大路であったのが今では路地裏道になっているケースは少なくありません。

 

 小川通を進みました。右手には二階建ての長屋のような建物が続きます。位置的には本法寺の東側にあたりますので、寺の関連施設でしょうか。もともとは、この位置に小川が流れていたのですが、埋め立てて暗渠化しているため、その上に建つ施設は細長い形になります。

 

 南へ進むと、やがて右手にかつての小川の跡が見えてきます。水はすでに流れておらず、空堀のような形になっていますが、これが中世戦国期に小川通に沿って流れていた小川の痕跡です。

 

 この小川跡を正面とする寺が、本法寺です。現地はもとは足利将軍家の息女が入寺する尼寺であった大慈院の所在地で、「洛中洛外図」にも「南御所」と記されます。天正十五年(1587)に豊臣秀吉の聚楽第建設に伴う都市整備の一環として多くの寺院の移転および整理が行われ、一条戻橋付近に在った本法寺がここに移されてきました。

 

 本法寺は山号を叡昌山といい、室町期に創建された日蓮宗の本山です。永享八年(1436)に東洞院綾小路に設けられた「弘通所」を開闢の地とし、その後破却と再建を繰り返し、位置も四条高倉、三条万里小路、泉州堺、一条戻橋付近と転々としたのちに現在地におさまっています。
 上図は小川通に面する山門の仁王門で、江戸期の建築です。この仁王門も含めて寺の主な建物はみな京都府指定有形文化財に指定されています。

 

 仁王門をくぐり、ちょっと境内を歩いてみました。十数年ほど前に塔頭の教行院が何かの催しで特別公開されたのを見に行った記憶があります。長谷川等伯ゆかりの地のひとつで、宝物館にも彼の作品の複製が展示されています。
 本法寺の公式サイトはこちら

 

 今回は寺の見学が目的ではないので、すぐに引き返して仁王門を出て、その前の石橋を見ました。これが小川に架かっていた石橋で、そのまま往時の姿をとどめています。かつての「南御所」大慈院の遺構とする説があるようですが、橋そのものはそこまで古くはないと思いますので、本法寺の移転整備にともなう新造の橋だろうと推定されます。

 

 小川通より石橋、そして本法寺仁王門を見ました。小川通は上京のメインストリートの一つで、東の室町通と並ぶ西側の南北路であったため、多くの寺院や屋敷はこの小川通に正面を向けています。本法寺も例外ではなく、東に正面を向けて小川通に面しています。

 

 本法寺からさらに南へ進むと、左手に表千家不識庵の表門があります。文政五年(1822)に紀州10代藩主徳川治宝の不審庵御成りにあたって紀州徳川家が建てたもので、櫓門の形式を示します。徳川治宝は利休茶道の皆伝を受けるほど茶道に通じており、表千家9代の了々斎の晩年には治宝を家元とし茶事を催していたほどに親密な関係でした。

 ですが、個人的にはこの表千家不識庵の敷地が室町期には細川典厩家の屋敷地であったことのほうに関心があります。細川典厩家は、管領細川京兆家と並ぶ細川氏の嫡家で、代々の官途が右馬頭(うまのかみ)であったため、所轄の馬寮(めりょう)長官職の唐名である典厩を称しました。

 その細川典厩家の屋敷地の中心部が平成十六年に発掘調査され、溝や柵列や通路とみられる空間の痕跡が確認されました。出土遺物は室町後期の土器、磁気類が主でしたが、中国製の陶磁器類が多く、青磁大皿などの優品が含まれていました。これによって有力者層の邸宅跡であることが確かめられ、「洛中洛外図」にも描かれる細川典厩家の屋敷地の一端が明らかになりました。
 その南隣が室町幕府の管領職をあずかった源氏の名門中の名門、足利氏支流の細川京兆家の屋敷地でありましたが、その範囲での発掘調査事例は、残念ながらまだ無いようです。  (続く)

 


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