上御霊神社の西口から西へ引き返しました。もと来た道を今度は西へたどることにしました。
この道が上御霊前通であることは、烏丸通との交差点に建つ標識にも示されています。中世戦国期にはこの通りが上京と洛外を限る境界線にあたり、この通りから南側が当時の「洛中」にあたる地域でした。
「洛中洛外図」の上御霊前通の描写をみると、通りに沿った南側に土塀が連なります。いわゆる上京の惣構の土塀にあたります。
ですが、現在は烏丸通の両側で上御霊前通の旧路が市街地化し、上御霊前通は北へややずれてしまっています。それで室町通との辻まではクランク状になっています。その辻の西側には上図の生谷家住宅が位置します。築140年余、京都市内でも数少なくなった京町屋の遺構として、国登録有形文化財、景観重要建造物、歴史的意匠建造物に指定されています。
この生谷家住宅の前を南へ進むことで上御霊前通のルートに戻ります。
これが現在の室町通からの上御霊前通です。車一台やっと通れるかという幅です。中世戦国期には広かった道も、それ以降の近世期において宅地に浸食されてしまっています。戦国期にはこのあたりに零細かつ雑多な階級の住民が多く暮らしていたことが文献史料類からもうかがえますので、街路の宅地化はすでに戦国末期には進行していたようです。その後の豊臣秀吉による街区街路の再編成、再開発事業も大きく影響した筈です。
「洛中洛外図」ではほぼ真っ直ぐに描かれる上御霊前通ですが、現在は幅も半分以下となり、宅地の拡張をあちこちで受けて道が狭まるだけでなく、屈折してしまいます。
衣棚通との交差点で大きく食い違いになって北へ寄ってしまいます。地図でみると通りの東西軸線はそれ以上北へはずれませんので、たぶんこの辺りの道の北辺が、かつての「洛中洛外図」の上御霊前通の北辺に近いのでしょう。
この辺りから南は中世戦国期の上京の街区となり、室町幕府の有力被官層の屋敷地が並んでいました。例えば上図の辻で左折して衣棚通を南下すれば、戦国期の松永弾正の屋敷地の西側を通ります。
さらに西へ進みました。ゆるやかに北へカーブしていますが、これも南側から宅地が膨らんで旧街路を浸食していった結果でしょうか。その道の北辺が、いまの上御霊前通の北限であるので、「洛中洛外図」の上御霊前通は、南にもっと広げた姿でイメージ出来ます。 (続く)