家づくり、行ったり来たり

ヘンなコダワリを持った家づくりの記録。詳しくは「はじめに」を参照のほど。ログハウスのことやレザークラフトのことも。

ストレス耐性のある子供に育てたい 「快適でも不快でもない」ことの重要さ

2008年08月03日 | 家について思ったことなど
無差別殺傷事件が相次いでいる。
被害者の親族・友人の心中を思うといたたまれなくなる。
また加害者の親はいったいどのような心持ちであろうか。まともな人間であるならば親としての責任を考えずにいられないはずだ。育て方が間違っていなかったか、と。

どの加害者にも共通しているのは相当にストレスフルな状態であること。
孤独感、疎外感、失業への危機感、非モテ…
もちろん、どんなにストレスがたまっていようとあんなことをして許されるわけはない。憎むべき所業である。
ただ、「彼らにストレスがたまっていなかったら、あんなこともしなかったろうに」と思わずにはいられない。

私は自分の子育てを考える上で、ストレス耐性をつけることを意識している。
少々の不都合はストレスだと感じないように、ストレスを溜め込まないように…

我慢しすぎるとストレスを溜め込むことになるが、まずは我慢する能力を高めておかないとつまらないことまでストレスになってしまう。
子供は図太く、我慢強い性質に育てたい。また、いろいろな楽しいことを体験させてストレスを発散するスキルも身につけさせたいし、ささいなことでも幸福を味わえるような性質にしたいとも思う。

「子供は風の子、大人は火の子」っていう言葉がある。
これは生活の知恵なんだと思う。
子供だって冬は寒い、コタツに包まっていたいだろう。
しかし―、
風を知らなければ火のありがたさもまた知ることができない。
子供の環境適応能力を育むためにもコタツに包まりっぱなしではいけない、
方や大人は徐々に環境適応能力が衰えていく、
だから火のそばにいる時間は、子供と大人で異なっていていい。
そんなふうに解釈している。

現代の家ではコタツが必要でなくなってきている。それは家の性能が向上し全体を「コタツ化」できるようになってきたからだ。
だからこそ風の子の教訓を忘れないようにしたい。

当地方は温暖だ。厳寒の地と比べれば気候面で恵まれている。
家全体をコタツ化するのが可能であっても、やや寒い程度の時期は子供のストレス耐性をつけるためにもコタツ化するまでもないと思っている。大人の誰か1人が寒いと感じてすぐに全館暖房してしまったりすれば、子供にストレス耐性を身につけさせる機会をそぐことになる。「寒くなりはじめ」「温かくなりはじめ」くらいの時期は部屋の戸を閉める局所暖房でいい。省エネでもあるし。
「家の中で子供を鍛える」のではなく「日常生活における少々の負荷は慣れさせる」というイメージ。

今は夏。
猛暑日になることもあってさすがの我が家もエアコンを使う場面が出てきたが、稼動時間は短い方だと思う。通風によって涼がとれるとか、時には暑さを楽しんでもいいと思っていることもあるが、安直にエアコンの快適さに埋没したくないという気持ちがある。

快適なのは素敵だ、だけど、常時快適でなければ不幸だというようには私は思わない。
そもそも「快適でない=不快」と考えるからおかしいのだ。「快適」「快適でも不快でもない」「不快」の3つくらいに分けるべきだ。
「快適でも不快でもない」ことまで「不快」と感じてしまうのだとしたら、それは不幸だと思っている。
最近の住宅は快適さを競うあまり、「快適でも不快でもない」時期まで快適にしてしまうことがある。
そのために昔の人だったら何てこともない状況を現代の人は不快だと感じてしまう、そんな例が増えているように思う。貧乏性の私はそれは損なことだと受け止める。

社会では人間関係などで昔より精神的なストレスが生じるシーンは増えている。そうしたなかで身体面でもストレスを感じやすい性質に育ったならば、ストレスに押しつぶされるリスクは高まる。
逆に「快適でも不快でもない」とする環境の幅が大きい人間ならば、快適空間がストレス解消により有効に働く。常時快適空間にいて「快適でない=不快」と感じる人間なら、その効果も期待薄だ。

我が家は子育てにおいて、食べ物の好き嫌いをなくすことを心がけている。嫌いなものがあったとして、せめて「好きでも嫌いでもない」レベルにさせようと努める。健康のこともあるが、嫌いなものが少ない方が幸せに生きられるから。
それと同じように、少々の温度差や環境変化をいちいち不快だと感じるより、不快だと意識しない方が幸せに生きられると思っている。それには子供のころの日常の過ごし方が重要だと考えている。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿