『子供たちにとっての本当の教科書とは何か』 ★学習探偵団の挑戦★

生きているとは学んでいること、環覚と学体力を育てることの大切さ、「今様寺子屋」を実践、フォアグラ受験塾の弊害

発想の転換が可能性を開く27

2018年08月25日 | 学ぶ

20年前の原稿です。
国語を「昆虫採集」してみないか  算数も「手づかみ」できるんだよ
 難関中学に入るのは簡単です。素直で子どもらしい感覚の持ち主であること、そして「きちんとしつけをされている子」であれば十分可能です。

 年末の特訓「缶詰!」などに見られる「詰め込み」や、受験の知識だけに「特化した」受験指導は一時しのぎの「勉強」で、心身ともの健やかな成育に「寄与する」ものでは決してありません
  限りない可能性と将来性あふれる子どもたち。彼らのこれからの生き方や人生で、そのバックボーンになるのは、今まで横行していた学習指導のように、「自然を法則のみでとらえる」規格化した見方や「勉強の缶詰」ではなく、「格好の遊びの対象として自然を選べる」余裕、想像力、そして実行力ではないでしょうか。さらに、母として、また私たちを育んでくれるゆりかごとして、「自然に対しても優しい目を注ぐことができる」感性ではないでしょうか
 「地球が遊び場であった」かつての子どもたちとはちがって、子どもたちの多くは「道ばたの花に目をくれる」ことさえしません。できなくなっています。偏った志向の感性ではなく、本来なら子どもが知っておかなくてはならない「身の回りのもの」に、もっと「アンテナ」を向けることができたら、今とは全くちがった子ども時代を過ごせるはずです。たいせつな情報を自らバランスよく吸収できるはずです。本当の「勉強」を憶えてくれるはずです。したくなるはずです

  ふだん、ぼくたちは教科書や本などから「知識」を得、「学び」が進んでいくと考えていますが、実際はそれとは比較にならないくらい膨大な情報が、日々の生活の中でも飛び交っています。そうした情報については、おなじ情報量の中にいても、それぞれ個人が身につけている五感の「アンテナ」の数や感性のちがい(これをぼくは今「環覚」と呼んでいます)で獲得量が大きく異なってきます
 これは情報の入手経路を少し考えてみればよく分かります。
  混んだ車両の中、近くで誰かが「サッカー」や「野球」の話をしていても、「サッカー」や「野球」に全く興味のない人や知らない人は、いつの間にか、それらの会話は耳にとまらなくなるはずです。聞こうとしません。したがって聞こえません。このように知らないものや興味のないものについての知識や情報は増えてきません。

 逆に、興味がある話やよく知っている話だと、スムーズに次々と蓄積されていきます
 たとえば、「田植え」や「稲刈り」を知らない人は「田植え」や「稲刈り」に関係する膨大な情報は入ってきません。すべてとは言わないまでも、それらの中には「学習」にかかわる大切な情報もたくさんあるはずです。
 よい情報に限らず悪い情報についても事情は同じです。「アンテナ」の数で、身につく情報量や質がいかに変わってくるか、ご想像いただけるのではないでしょうか。

 習のみに限らず、ぼくたちが「生きること」は、「見ること」「感じること」「考えること」とともにあり、単に「道を歩いていくこと」だけでも日々「学び」は深くなるはずです。感性の「アンテナ」がきちんと立って、認識のスキーマが揃っていけば、次から次へと新しい情報が入ってきます
 そして、そうした自然に入ってくる「偏りのない」情報の数々がシステム化されていくことで、「発想の転換」や「応用すること」「創造すること」等の学びの進化が生まれます

  学習探偵団のコピー 「国語を昆虫採集してみないか」には、室内での文字だけによる「狭い」情報取得ではなく、自然に「浸る」課外活動や作業で育っていく「バランス感覚」をともなった感性とさまざまな方位に大きく広がった「アンテナ」で、『ことばの森』からあらゆる種類の「情報」を採集してほしいという願いがあります。
 俳句や短歌、詩などのイメージを考えてみても、「外の世界」にふれているかどうかで感動や理解の深さは全く違います。「春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほすてふ 天香具山」に込められている雰囲気やイメージは、「田植え」の時期とも重なり、作業とともに団員諸君の「身体」に入っていきます。実は、「豊かな里山の森」は「豊かなことばの森」でもあるのです

  また、「算数も手づかみできるんだよ」。
 算数は、ふつうに考えれば、おそらく「動き」から最も遠い科目かもしれません。それは大きな誤解です。

 外遊びの活発な動作や「身のこなし」は、「立体視」にも大きく役に立つはずです。「くぐる」「こえる」「のぼる」などで経験する視点が、算数の立体図形のイメージに役に立たないはずがありません。
 虫や魚を追いかけて大きくのばした「網の軌跡」が回転図形の参考にならないはずがありません。もちろん、理科の「遠心力」の理解も伴います

 空中でホバリングしたり、急にスピードを速めたりするオニヤンマは「速さの問題」、 「鶴亀算」の鶴や亀は、鶴が「ゴイサギ」に変わることがあっても実際に彼らの頭の中で檻を出たり入ったりしながら解き方を教えてくれるのです。
 抽象性の高い算数も、「手づかみ」でわかることがいっぱいあります。さまざまな活動や実際の動きの中から「算数」の実感を身につけてほしいという願い、「手づかみできる算数」です。課外での活動が、理科・社会にしめる役割は、もはや「言わずもがな」だと思います。

つるかめ算や過不足算の、頭を良くする「実践的」指導法
 子どもたちの頭を良くする指導法がわかっていない人たちのために。
 たとえば「つるかめ算」などの難問を面積図や代数で解かせて「事足れり」としているところも多いようですが、子どもたちに意味がとれない代入法や面積図では、頭を良くすることはできません
 実際に折り紙や切り抜きでツルとカメをつくり、模型の囲い(檻)のなかから実際に出入りさせ、一頭の入れ替えで脚の数がどう変わるか。きちんと、そのしくみを考えさせること、ちょっとした工夫をすることでこどもたちの理解度と頭のはたらきは大きく変わります。たいせつなのは現実のイメージです。頭の中で動かせるようになるまで、用意すべきは「見える鶴と亀」です。

 さらに、これによって「ツルとカメだけの鶴亀算しかわからない」と考えるのは大きなまちがいで、この指導で子どもたちはつるかめ算の「しくみ」が腑に落ちるし、印象に残ります。そこから鶴亀算の難問に向かい、さらなる理解を図っていくのは、それほど困難ではありません。
 能力の高い子は別(ちなみに、そういう子が大学生くらいになっても継続して頭がよいとは限りません)ですが、ふつうの子に代数や面積図で「これらを理解させるまで指導すること」は並大抵ではありません。おそらく無理でしょう。

学習指導をはじめるようになってすぐ、こうした指導を開始して結果が出始めた数年後、この代数的手法と算数の手法について、ファインマンの興味深い判断に出会いました。
 ファインマンが小学生のころ、高校生で三歳年上のいとこが代数のできが悪くて、家庭教師に勉強を見てもらっていたようです。「傍にいてもいい」と言われたので、ファインマンは傍らで説明を聞いていました。
 そして、そのいとこに「何をしようとしているの」と聞きました。
 「Xがいくつになるか見つけようとしているのさ。2X+7=15とかね」。
 「4じゃないの」とファインマンが言うと、「そうだけど、おまえは算数でやったろう? それを代数でやらなければいけないんだよ」。
 これにたいして、ファインマンは、ぼくは幸せなことに、学校でではなく、屋根裏にあったおばさんの古い教科書で、Xを見つけ出す「しくみ」をすべて学んでいた。算数であろうと代数であろうとXを求めるのには何のちがいもない。代数は、盲目的に計算のきまりに従っていけば、誰でも答えにたどり着けるように考えられたルールに過ぎない。そんなものは意味がない。そのことが分からない彼には代数なんてできっこない。
 これはいとこを責めるのではなく、そんなテキストを金科玉条のように使っている学習指導を責めるべきですが、同じようなことが相変わらず、行われています。
 このファインマンの指摘の重要性を、中学入試の難問を代数や面積図を使い、意味のないルールに当てはめ解答に向かわせる指導を行い、それで「頭がよい」と本人も周囲も勘違いしているエリート校入試という商売に群がる人たちは、肝に銘ずるべきだと思います。

 算数にしろ何にしろ、子どもたちが理屈をわかり、自分の頭で納得できるような指導をするべきで、数式や面積図でも同じですが、意味のわからないまま「当てはめること」「代入すること」を教えて解答に至っても、子どもたちの頭は決して良くなりません。
 団の指導が決してアナクロではなく、「こどもたちの頭のはたらきの正統」を指導しているからの、高卒時の大学受験結果であることを念頭に、頭の使い方の将来を考え、大切なこどもたちの指導方法を精査してほしい、と願ってやみません

 算数では、ほかにもさまざまな指導法があります。
 過不足算であれば、百均で買える小さなバケツとB玉かマジックボールを適当な数用意し、バケツとボールの数の変化で、分ける数と余りや不足がどう変わるかを「実際に眼で」見せましょう。それによって、子どもたちは『過不足算』や『差集め算』のしくみがよく理解できます。

 速さの問題、例えば通過算や追い越し算では、新幹線や電車やトラックや乗用車や自転車のおもちゃ・人形を用意し、机の上で動かせば注意を引き理解が進みます。また子どもたちを公園や運動場に連れだし、ペアになって旅人算の実演(実際の動き)を演出すればよいし、流水算は流れるプールで泳ぎながら説明すれば理解は早く、そして正しく記憶に残ります。

 ちなみに、立体図形や回転図形や動く図形の問題は、外遊びや自然体験の少ない子、運動の苦手な子は、その軌跡や完成図がなかなかイメージできません。投影図から見取り図を思い浮かべることも苦手です。わかりますね、体感が不足しているからです
 日歴算ではカレンダーを用意すればよいし、立体図や平面図では画用紙にそれぞれの展開図を描くことから始めれば的確なイメージをつかむことができます。市販の模型ももちろん役に立ちます。

 いずれにしろ、こどもたちの日常生活の感覚をもとに、どのように指導を展開するかをよく考えることが、彼らの将来に貢献する指導であること。それがぼくたちの使命であると考えています。
 教科以前の現実(くらし)に問題を投げ込みはじめると、教育に関わる日ごろの「専門性」というものが、いかに学習用に「加工」された特別な枠組みの中に閉じこめられた「底の浅い」ものであるかがはっきり分かります
 「役に立つことが少ない内容」になっている「知識」が、現実の「知恵」を呼び、また「さらなる知識を必要とすることになる」学びのダイナミズムは、学校や受験用の「知の枠組み」の中では、うまく機能しません

 算数の受験問題を教えるなら、少なくとも、身近なテーマや日常生活での展開に引き寄せての指導・解法が大切です。それによってイメージしやすく、必要性が感じられ学習に親近感が生まれます。
 子どもたちが、このような学習に出遭い、そこから学びの姿勢を身につけられたとき、彼等は、強いて「勉強」という言葉を使わなくなるにちがいありません。同時に指導する側(先生)も「生業」としてではなく、また教科そのものも教えるための「教材」にとどまらず、日々いのちを削っている自らの人生の実感として「教科」をとらえられるのではないでしょうか。真の「学び」とは、そのような関係性の中にこそ存在するのでしょう
 

 それでは「環覚」と「学体力」のアイデア、英文版7回目です。
  
To teachers all over the world

“Slow thinking” and “Slow watching”

 The good time for children to find things in their surroundings and learning the make-up of those things, is gradually vanishing. And their antennas to be interested in things during their happy childhood seem to be fading away. It’s the exact opposite of Feynman’s father’s way of teaching.
 Without understanding the phases of nature and watching the changes that doesn’t feel them their learning matters to be in reality, and doesn’t give them kinship with such matters. This has been my observation.
 The time to observe and physically interact with many plants and animals during the slow turn of nature, and the time to discuss grade or exam results at school with the hope of reaching the goal as early as possible, are two distinct values and must be kept separate. There is no equivalency.

 This leads us to the next topic. Utility of MICHIKUSA, The Chinese characters道草translates to meander here and there on the way home from school. “道MICHI” means track in this case, and “草KUSA“ usually means weed. In my childhood, every child did MICHIKUSA every day and that was typical of “Slow thinking” and “Slow watching”.

The utility of MICHIKUSA
 Before the high economic growth in Japan, there were few opportunities to travel by car, and almost all school excursions were on foot. Yet that provided lots more beautiful scenery to view here and there in Japan, many people often walked around those places with their children.
 Many children had enough time to be able to find, for themselves, lots of interested things such as Feynman and his father found and observed in the woods.

 On their way from school, children had prime time, during MICHIKUSA to feel interested in animals, plants and other parts of nature, and then they always remembered the school matters to learn at class again. That knowledge was going to help them think about learning the matters deeply.
 Even in any small stream, living creatures and fauna lived various and interesting lives. The huge sum of derived information from the five senses of children, were the most excellent method of study. The environment was a “Splendid Living Science Museum”.
Thinking in totality, those childhood experiences must have been far more valuable and rewarding than playing in an amusement park with gaudy decorations, air-conditioning units filled with commercialism.


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