寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

思い出話 佐渡島つれずれなるままに(20100423)

2014年07月15日 21時45分02秒 | 日記・エッセイ・コラム

私は旅が好きです。10日も家の中で仕事をしていると、何処どこの山ももう新芽に彩りされたかなー、等とそわそわしてくる。このブログではもう一度行きたい場所の旅の思い出を書き綴っていこうと思う。

①佐渡が島の佐和田町の海岸のきれいな貝塚層をもう一度見に行きたいと思う。こぢんまりした旅館では、たいそうなもてなしを受けた。一人で化石貝殻の収集を行っていた頃のことであった。海岸は砂の層で約7,8メートルの高さがあった。砂浜から3メートルほどの高さのところに貝化石の層があった。そこを横穴を掘る要領で掘るとたくさんの貝化石が出土する。そこで私は、幸運にも生きていたときの状態のタマキ貝の仲間の化石を発見した。しっかりとふたを閉じた状態で貝化石が発見されることは滅多にないということを聞いていたので、大切に保存しておいた。ふたを開けると中はとてもきれいな状態であった。最近の科学技術があればそこから有機物を採取して遺伝子解明ができたことだろう。そうすれば現代の同じ種類の貝との関係が明らかになったかもしれない。その貝は、今は私の手元にはない。私が研究テーマを変えるときに愛知県にあるA大学の研究者に差し上げてしまった。この研究者とともに再度佐渡に行った際に、私が案内人になって佐和田海岸に行った。そこは縦横奥行きそれぞれ30cmほども掘ると100個以上の貝化石を採集できた。これらを試料として使って、この研究者と行った化石(炭酸塩物質)の研究報告は20編もあるだろうか。その方は50歳になる前に不運にも病没してしまった。いろいろな測定器・分析器を購入して、これから研究を重点的に行おうとしていた矢先のことであった。非常に残念であった。佐和田町へはもう一度行きたいと思うが、希望を叶えることができるかどうかわからない。(20100423)


思い出話 沖縄つれづれなるままに②(20100426)

2014年07月15日 21時42分02秒 | 日記・エッセイ・コラム

沖縄

 1972年、沖縄県は26年ぶりにアメリカから返還された。当時私は、公立T大学に職を得ていた。そこの地理学科の方から沖縄復興計画というプロジェクトで沖縄県の自然調査を行うことになったので協力してほしい。といわれ石垣島の河川の調査を行うことになった。

Photo  学生時代に沖縄から来ていたクラブの仲間がいた。彼の話では、この大学に入学するのに渡航証明書が必要であったという。この返還でその必要がなくなったわけである。喜ばしいことであるが、後々まで尾を引く問題が残された。それは今も問題になっている米軍基地がたくさん残されたことである。当時はまだ、東南アジアはいろいろな国家間の問題が存在し不安定であった。戦略的に重要な地域であった沖縄に米軍基地が置かれることになったという。日本の独立を考えると複雑な感情がわいてくるのは私だけではないだろう。この問題は近いうちに取り上げたいとおもう。

 その年初めて沖縄に行く機会を得たのである。羽田から那覇空港へ行き、そこから400kmほど南西方向に飛ぶと石垣島がある。返還当時の石垣島は、現在のように整備されず野性的なところが多かった。島の中央に於茂登岳526メートルがある。この山は沖縄県で最高峰になる。この山を中心にいろいろな方向に川が流れている。北部の方はなだらかな丘陵地が広がり最北端に小さなラーメン屋があった。     

Dsc_0115_edited Dsc_0152                          名代の観光地は西海岸にある川平湾である。ここでは真珠を養殖していた。それは海水の流れが速く真珠貝に栄養分を運んでくるので、よく育つわけである。それは自然に存在しているサンゴにも好い影響を与える結果になる。川平湾には船底をガラス張りにした観光船が運航されている。海流が静かなときにはサンゴがよく見えるし、サンゴの中に泳いでいるいろいろな魚を観察できる。近年 はいろいろな観光スポットが出現し名物料理も食べられるようになった。石垣島を起点にして周辺の島々への観光も可能である。次回はそれらの紹介をしようと思う。


思い出話 私の好きな色(20101006) 

2014年07月15日 21時40分36秒 | 日記・エッセイ・コラム

  好きな色は、周辺の条件によって変わることがある。私の思い出に残る色の一つは、海を現すうすい青色である。                                              

 小学校5年生の9月頃だったと思うが、夏休みの宿題でいちばん想い出に残ることを絵に描いて提出するということがあった。

 私は小さい頃、多分4,5歳くらいの時だったと思うが、母に連れられて大森(現大田区)の海へ行ったことがある。その頃現在の大森駅のすぐ近くに海岸があった。私は、麦わら帽子をかぶり、砂浜に立って遠い海の果てに浮かんでいた真っ白な雲を見ていた。何故かそのときのことが思い出されて絵に描いてみようと思った。

 海は濃い青色であった。空は対照的に薄い青色であった。空に浮かぶ雲は真っ白であった。この色を表現するのに大変苦労した。絵の構図は、砂浜に立つ私が画面のほぼ中央に位置し、海の景色を2分している。そして左側は、海の色を強調し、右側は、空と雲を強いコントラストで描いた一枚の絵ができあがった。

 私は得意になって、その絵を兄たちに見せた。兄たちは一応絵を褒めてくれたが、海の青色が濃すぎると意見をいった。青色をもっとうすくした方が、本当の海に見えるというのだ。しかし画用紙は、学校で配布された絵を描いた一枚しかなかったので、このまま提出するしかないといった。すると兄は海の青色のところを水を含んだ筆(習字用の筆だったような気がする)でうすめればよいと教えてくれた。

 私は海の部分を水を含んだ筆で何回もなぞり青色をうすくしていった。これではうすすぎると思う程うすくした頃には、画用紙が濡れてよれよれになってしまった。

 途方にくれていると、兄たちは濡れている方を下にして風通しの良いところにぶら下げてゆっくり乾かすと良いと教えてくれた。私は左側をしたにして、物干しばさみで画用紙の右側の端をはさんでぶら下げて乾かすことにした。

 翌朝、乾いた絵を丸めて学校へ行き先生に提出した。先生は私の絵を受け取ると、少し眺めていたかと思うと他の子のとは別のところへおいた。その翌日学校へ行くとローカに沢山の絵が張り出されていた。私は自分の絵を探したが見つからなかった。私は海の青色をうすくしたのがいけなかったのかと思った。そして授業が始まった。初めはホームルームの時間だった。先生はいろんな連絡事項を話した後で、私の絵を手に持ってみんなに見せた。私は恥ずかしくなって下を向いた。先生の話は何も聞こえなかった。少ししてクラスのみんなが拍手をした。私はびっくりして先生の方を見た。先生はニコニコして私を立ち上がらせた。そして私の絵を見ながら、この絵は郡の展覧会へ出すことになったといった。先生は私の絵をほめてくれたのだった。

 とくに、海の色がとっても良いということだった。私はこうして兄が教えてくれた海の色がとっても好きになった。私はその後、絵を描いたという記憶がないので、その絵が私の描いた最初で最後の絵になった。遠い過去の想い出である。


町の酒屋さんで(20101010)

2014年07月15日 21時37分55秒 | 日記・エッセイ・コラム

 昨日(201009)午後、近所の酒屋さんで楽しい催しがあった。気の置けない10人程の人が集まってフランスワインの試飲会が催された。初めに店の若奥さんのフランスワインの特徴と産地やボルドー地方のワインの貯蔵法などが説明された。興味深いお話であった。その後で、6種類のボルドー産ワインと店の方の心づくし食べ物と集まった人たちとのお話、一時間30分の予定が3時間にも及んでしまった。86歳の方は、昔話を語りながら試飲のワインを次々に胃の中に入れていた。秋雨がさらさら降るなかはじめに2種類の白ワイン、そして4種類の赤ワイン。この日まで、私はドイツのモーゼルワインを好んで飲んでいた。それというのも何回かいったフランスで美味しいワインに出会わなかったからだ。今日試飲させていただいた6種類の中で、白ワイン(シャトー・ド・ベッサンヌ)、赤ワイン(シャトー・ラ・メゾネット)は、特に美味しかった。これからはフランスワインも飲むようにしよう。試飲会の終了間近、問屋さんの方がオーストラリア産の貴腐ワインを提供してくれた。恥ずかしながら貴腐ワインを初めて飲んだ。色は琥珀色で甘みが強くとろりとした舌触り、印象深い香りがえもいわれぬ感じであった。和やかな中、ワイン試飲会はお開きになった。今日集まった人たちとまたお話をしたい。そとは小降りの雨が降っていた。


書棚の整理をしました(20101013)

2014年07月15日 21時36分33秒 | 日記・エッセイ・コラム

   重さで2Fの床が抜けると家族に言われ続けていたので、沢山の解説書や取扱説明書を捨てようと思った。だがこれらはないと困る場合があることに気がついた。書棚を軽くしたい。と考えているとき、PC雑誌に書籍の電子化という記事が出ていた。これだと思って早速スキャナーで頁ごとに取り込み始めた。50頁くらい取り込んで面倒になってしまった。まず時間がもったいない。もっと効率よく出来る方法がないかと探し始めた。

 そこでPC雑誌を探していると、ドキュメントスキャナーというものがあるという。100頁くらいなら4,5分で取り込めるという。これだ!と思って早速注文することにした。ここでまた思考が停止してしまった。書籍をばらさなければならないらしい。雑誌をよく見ると裁断機というものがあるという。A4専用機で2万円程だという。スキャナーと併せて5万円を超える。高いと思ったが。書籍を整理する時間を考えたら、それほど高価ではないと思い注文した。最近は注文品が2,3日で届くので便利になった。開梱してPCに接続、ドライバーの導入など1時間程で使用できるようになった。

 私のPCは i7 というCPUを搭載している。速いのが自慢である。早速、取説1冊(約300頁)を裁断してスキャナー(カラー・200DPI)で読み込みを始めた。5分程で取り込みが終わり、PDFファイルとして保存できた。これを開いてみると、かなりきれいで画面上で読めることがわかった。さらに頁ごとに分かれていたり、少し工夫するとキーワード検索も出来るので大変便利である。裁断機は13mm厚さが限度なのでそれ以上の厚さのものは、ばらしておく必要がある。

 1日がかりで全ての取説と解説書それと数年分の雑誌(約100冊)を電子化することに成功した。電子化した書籍?はDVDとHDDに保存した。こうして書棚は空になった。めでたし、めでたしである。


一畑電鉄・宍道湖

2014年07月15日 21時34分57秒 | 日記・エッセイ・コラム

  随分昔の話で恐縮ですが、ふと思い出したので書き留めておこうと思いました。

島根県へ旅したのは昭和39年頃だったと思います。調べれば明確な年代が判りますが敢えてそうしないことにしました。京都で会合がありそのついでに島根県の小泉八雲記念館や宍道湖を見てみたいと思いました。同じ勤め先の仲間2人と京都駅から列車に乗りました。筆者は旅行で目的地へ着くまでは昼間列車に乗ることにしています。途中の駅に着くと必ず駅弁を買って食べるのが大きな楽しみでした。この旅でも鳥取駅の鳥めし駅弁を買い求めみんなで食べました。鶏そぼろがご飯の上に一面に広がり、一部に炒り卵とデンブが彩りを添えていました。僅かに甘くとても美味しかったのを思い出しました。あの駅弁は今もあるのでしょうか。

 そうこうしているうちに列車は、松江駅に着きました。何しろ若かったので宿屋を予約することなんてしないで来てしまいました。それでも運良く眺めの良さそうなホテルに入ることが出来ました。ホテルの窓から宍道湖が見えるいい部屋を案内してもらいました。その日は小泉八雲の記念館を見てから松江城(跡)を散策してゆっくり過ごしました。夕暮れ時の宍道湖は夕焼けを写して幻想的な美しさを見せてくれました。宍道湖を二つに分ける橋もその美しさを際立たせるものでした。夜は電灯を消してテラスへ出ると星が降るように近くに見えました。宍道湖の方を見ると、漁り火でしょうか湖面に明かりを映していました。美しい夜景を見ながら、将来の夢を語り合いました。

 翌日の朝は、宍道湖でとれたしじみ汁を添えた朝食を食べて出雲神社へ向かいました。バスに乗ってしばらく行きますと出雲大社駅に着きました。バスで駅に?と思いましたが、そこは一畑電鉄(イチバタデンテツ)という宍道湖の北岸を走る鉄道の駅でした。

 出雲大社は荘厳なとはいえませんでしたが、しっとりとした社と境内の広い神社でした。ここは神無月に、日本中の八百万(ヤオヨロズ)の神様が集まって日本中の婚姻を取り仕切る神社だそうで、若い二人連れがたくさんいました。私たちの中には、一人だけ独身者がいたので神様によくお願いしなさいといいましたが、彼はお参りをしませんでした。そのためかもしれませんが、とうとう後期高齢者になるも結婚しませんでした。

 その後、日御碕という所へ行きました。ここは玄武岩のような岩石が屹立した断崖でした。断崖の先端に立って周辺を見渡すと断崖の中に洞窟のようなものも見えました。のんびりと散策をして、その日は日御碕の国民宿舎へ止まることにしました。この国民宿舎は、大社作りの各部屋が広いすてきな宿舎でした。夜は周辺に明かりが無く、満天の星が見えました。

 次の朝、私たちは出雲大社駅に行き、一畑電鉄で松江に向かうことにしました。小ぶりな車両は、東急車輌製であることが明記されていました。私は座ることはなかったのですが、特別席(今のグリーン席)の切符を買いました。これも想い出の一つですね。電車は宍道湖の北岸を一生懸命?走りました。どこかで乗り換えたように記憶しているのですが、今となっては不明です。かなり時間がかかって終点につきました。帰りは松江駅から京都へ向かい、京都から夜行列車で東京へ戻りました。

 このときは未だ新幹線がありませんでしたので、旅はゆっくりしたものでした。


セミとカラス(20110818)

2014年07月15日 21時32分19秒 | 日記・エッセイ・コラム

  今年の蝉の鳴きだしは、例年より遅かった。毎年詳しく観察しているわけではないが、梅雨明け時期と蝉の鳴きだしの関係などを観察していると、大体のことがわかる。

 今日この頃のことであるが、午前4時40分頃からヒグラシが鳴き出す。一匹が鳴き出すととたんに至る所で一斉に鳴き出す。しばらくすると、アブラゼミとクマゼミが鳴き出す。ヒグラシは約1時間ほどで鳴き止み、六時前には静かになる。しかしクマゼミは、騒音としかいえないようななきかたをする。クマゼミがこの辺で鳴き出したのは、10数年前のことであったと思う。筆者が初めてクマゼミに出会ったのは30年ほど前に九州の学会に出席したときであった。学会が終わり雲仙温泉へ行った。地獄巡りをしていると、いやにうるさい鳴き声が聞こえたので店の人に聞くと、クマゼミという蝉だと教えてくれた。その人の話では、クマゼミという名は、体長は小さいのにその鳴き声のすごさに驚いて付けたらしいと言うことである。

 そのクマゼミかアブラゼミか不明であるが、最近は数は少ないが夜間にも鳴いていることがある。

 さて、カラスである。8月には行ってカラスの鳴き声が少なくなった。春から初夏にかけては早朝4時頃から鳴き出す。我が家の近くの杉林に巣があるようで夜明けの気配とともに鳴きながら飛び出してゆき、各所の電柱に止まってことさら大きな声で鳴き出す。その鳴き声は、何かを連絡しあっているように聞こえる。更によく観察すると、カラスが止まっている電柱の下には生ゴミの集積所があることがわかった。ということは、カラスは住民が生ゴミを出す時間帯に電柱に止まり監視をしているのである。ある電柱に止まっているカラスが時々大きな声で鳴くと、周辺のカラスが違ったトーンで答えるように鳴く。また、一段と高い高圧線に止まっているカラスが、一段と高音で鳴く。このような状態が9時頃まで続き、その後しばらくすると電柱から撤退する。この頃は、真夜中にも蛇にでもおそわれたかのように激しく鳴くことがある。昔から鳥は夜は目が見えないので静かに眠ると聞いてきたが、そんなことは昔の話のようである。カラスも群れの数が増えると生存争いが激しくなるのだろう。

 6月から7月にかけて、カラスはゴミ出しの監視をそっちのけにして雌を巡る明日の壮絶な戦いが始まる。つがいが決まると、全く違った鳴き声を出す。そして争いに負けた他のカラスはどこかへ消えていく。

 そして、数週間すると幼い鳴き声が聞こえるようになる。親カラスは、育児に忙しいらしくあまり鳴かなくなる。8月中旬の今頃はカラスの鳴き声はあまり聞こえない。

 蝉の鳴き声もやがて、ツクツクボウシとミンミンゼミに代わる時期が近い。猛暑日が新記録を更新しているが、自然は秋の気配を感じるようになってきた。

 

 秋の果物が美味しくなっている。体重管理に気をつけなければならない。蛇足まで。


忌避剤について(20140715)

2014年07月15日 19時13分49秒 | 日記・エッセイ・コラム

 我が家の玄関脇にあるスチール製物置の中にネズミの糞と思われるものが見つかった。食品を置いてあるわけでもないのでネズミが入るとは思えないのだが、念のために猫いらずを買いにスーパーへ行った。店員に猫いらずはどこにおいてあるのかと尋ねると除草剤などをおいてある棚の所へ連れて行ってくれた。

 猫いらずを探したが多くは猫や犬の忌避剤で種類も多数あった。その他にクモやハエ・カ等、また毛虫やダンゴムシなどの忌避剤も多数あった。ネズミ用のものは隅の方に1種類だけあった。売られていたものは食品に混ぜてネズミに食べさせてネズミを殺してしまうというものでなく、それを置いておくとネズミがいなくなるというものであった。つまり忌避剤である。それを買い求め早速物置においた。どれほどの効果があるのか予想もつかないが、生き物を殺してしまうのではなくいなくなってしまうというところが少しばかり嬉しかった。しかし心配もあった。我が家の物置から出て行ったネズミはどこへ行くのだろうか。我が家からいなくなればいいかと思うのは少し無責任のような気がするのは人間らしくないのかなー?。

 


囲碁の話「大勢を見失うと」(20140714)

2014年07月14日 09時07分42秒 | 日記・エッセイ・コラム

 大勢を見失うととんでもない結果を招くことがあるという話です。

 昨日隣市の囲碁クラブとの対抗戦に参加しました。第1局目の対戦相手は、三段と言うことで向こう先番で始まりました。序盤から中盤にかけて地合で圧倒的に優勢でした。しかし相手はこれでは負けになると思って勝負手を打ってきました。私の方から見て右辺から下辺の白地と思っていたところへ打ち込んできたのでした。私はもう勝負はついていると思い気軽に相手のいいなりに打っていました。するといつの間にか星に打ってあった石の下辺と右辺が寸断されてしまいました。私はようやく気がついて両方の安全を計りましたが時既に遅く両方の石を取られてしまいました。終局になって数えると10数目足りず負けになってしまいました。

 その前日(一昨日)町の定例会で打っていたときに突然打つ手が乱れ全くおかしなことになってひどい負けが続きました。その影響を引きずっているのかと思い今日の対戦はせめて五分に持っていきたいと思ってその後の3局は少し緊張して打ちました。その結果残り3局を連勝してまあまあの成績に持って行くことが出来ました。

 初めに負けた原因を検討してみました。上にも書きましたが相手が勝負手を打ってきたときに、私は相手を甘く見ていたことに気がつきました。それからその時全体を見ることをしなかったことに気がつきました。つまり大勢を見極めてどこまで譲歩しても良いかを検討しなかったのです。いつも下位の人と対戦するときに言っていたことを自分で忘れてしまったのですね。何ともお恥ずかしい次第です。

 囲碁に限らず大勢を見極めないと思わぬ結果を招くという自らへの戒めとします。


囲碁の話「拾った話?」(20140713)

2014年07月13日 22時22分53秒 | 日記・エッセイ・コラム

 隣の市の囲碁クラブとの親善囲碁対抗戦が終わりました。A,B,C,D4グループ、各グループ4名のグループごとの総当たり戦です。総計64局の対戦になります。今年も我がチームの30勝34敗と負け越してしまいました。4戦全勝者には賞品がでます。

 碁を打ち終わって負けると自尊心の強い人ほど5目負けたとか、あそこでこう打っていれば3目勝っていたとかいいます。しかし勝負事は大敗しても僅少差で負けても負けは負けで負け方が評価されることはあまりありませんし、負けたことの言い訳にはなりません。

 B氏は本日の最後の対戦を最後まで打ち続けて70目ほどの負けになりました。

これほどの大差を最後まで打ったのを初めて見ました。少し恥ずかしかったですね。B氏の技量が疑われても仕方ないですね。

 本日の親善囲碁会で全勝したC氏はおそらく 5段以上の実力を持っていると私は思うのですが、本人はいたって謙虚で非常に好感を持てます。来年度は実力相応の段位になると思い今後が期待されます。ちなみに私は3勝1敗でまあまあの成績でした。