佐々木澄夫のそれは初め些細な違和感から始まった。
例えば何かの声が聞こえたような気がするといったこ
とや肩先をつつかれたり着ているものを抓まれるよう
な感じの場合もあった。その現象が起きるのは通勤途
中のマイカーの中であったり、夜寝ているときであっ
たり場所や時刻は決まっていなかった。
こういうことは他人に話すと何か悪いことが起きる
ということを母から聞いていたので妻にも他人にも話
さなかった。この時代にそんなことを信じているわけ
ではなかったのだけども特に他人に話すことでもない
と思っていただけだった。しかし、この現象がしばし
ば起こるようになったのでとうとう親友の馬場良明に
相談してみようと馬場に電話を掛けて大学構内の食堂
で会うことにした。「初めは1年ほど前に起きたのだ
けど特に気にもならなかったので無視していたんだ」
「俺は全くそんな経験をしたことがないがなー」
と馬場良明。さらに続けて、
「誰にでも起きるというならそれはもう怪奇現象とし
かいえないがな。しかしお前だけに起きるということ
は単なる気のせいじゃないのか」
「他人には話したくなかったから他の人のことは解ら
ないけれども」
「それは若しかしたら何かに当たったとか接触したと
かと言うことじゃないのか」
「いや。いつも一人でいるときに起きるんだぜ。少な
くとも直ぐ近くには誰もいないときに起きるんだ」
「どうだ、一度心理分析を受けるとか、精神科の医者
に相談してみるか。俺の仕事仲間に丁度いいやつがい
るぞ。紹介状を書いてやろう」
「チョット待ってくれよ。そんなに急ぐこともないだ
ろう。もう少し様子を見てみたい」
「様子を見るなんていうのは俺たち医者が何が原因か
解らず診断できないときに使う言葉だぜ。悩みが大き
くなる前に病院に行ってこいよ。本当は俺が見てやれ
ればよいのだけどな。俺は内科の医者だから専門外と
いうわけだ」
といって馬場は直ぐに紹介状を書き、その精神科の
山下十郎助教授に電話をかけてくれた。友人とは嬉し
いものだと思った。
馬場に紹介された精神科の山下助教授は佐々木澄夫
と同年配で、職業がらか人懐かしい方だった。佐々木
は馬場に話したとおりのことをまた話した。医師は時
どきうんうんとうなずきながら静かに聞いてくれた。
私が話し終わっても山下助教授はしばらく目を閉じ
て沈黙していた。佐々木が落ち着かなくなる前に医師
は目を開けて話し出した。
「これは医師の守秘義務に関わることですのでお話しし
て良いかどうか迷っています。でもあなたのお話と全
く同じように思いますのでお話ししましょう。その方
はAさんと言いますが、1週間ほど前にも佐々木さん
と同じような経験をしたと言って相談にお出でになり
ました。Aさんは1年ほど前から誰もいないのに背中
を押されたり、何か訳のわからない外国語のような言
葉のようなあるいは単なる音のようにも感じるものが
耳からではなく突然頭の中に聞こえるようになったと
いうことでした。それで私はAさんの生活歴を少し調
べさせて貰いました。結果は簡単に言えば、精神的に
何か圧力があったとか事故などは全くなくごく普通に
生活していたようでした。佐々木さんの場合は耳から
聞こえたのですか」
「いいえ私の場合は少し前に嫌な低い雑音が聞こえて
それから不思議な感じのする音が聞こえてきました。
接触感の前には雑音はありませんでした」
「そうですか。Aさんの場合と少し違っているようです
ね。正直に申し上げますが、今の状態では何とも言えま
せん。Aさんと同じように心理分析を受けて頂くことと
耳鼻科と五感検査室の検査を受けていただけませんか」
「分かりました」
「それでは予約をしましょう。出来れば1回で両方受診
できるようにしましょう」
「ありがとうございます」
「都合の悪い曜日がありますか」
「いいえこういうことですから出来るだけ早い日にお
願いします」
「分かりました。 少し外の待合室でお待ち下さい」
「はい、お願いします」
というわけで佐々木澄夫はこの件に関心を嫌でも持つ
ことになってしまった。
「佐々木さん。どうぞお入り下さい」
と看護士に呼ばれた。
「はい」
といって佐々木は再び精神科の診察室へ入った。
「佐々木さん、来週の火曜日午前9時に心理分析室へ行
って下さい。そのあとで耳鼻科で精密検査をしていただ
きます。結果は更に1週間後の火曜日に9時にここへお
出でください」
「はい、わかりました。ありがとうございました」
佐々木は礼を言って、退室し病院の外へ出て馬場に電
話を掛けた。馬場は電話に出ることが出来ないと看護士
がいうので、相談が終わって帰るところだと伝えてくれ
るように頼んで電話を切った。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます