寓居人の独言

身の回りのことや日々の出来事の感想そして楽しかった思い出話

想い出話 麻生 暉さんのこと(20130821)

2013年08月21日 07時58分23秒 | 日記・エッセイ・コラム

 昭和36年、私が大学に就職したとき教養科目の実験を担当することになった。理工系学部の学生は数学科を除いてこの授業が必修科目となっており受講者数は400名に上った。50名収容の実験室だったので毎週9クラスを2人の同僚と3人で受け持った。そのため準備・指導が大変であった。そのために実権準備をしてくれる方がいた。それが麻生暉さんだった。私より3才ほど年上の方で色白の丸顔で丁寧な話し方をする方だった。当時、麻生さんは千葉県の柏の方から通勤していた。上野駅で山手線に乗り換えて渋谷から東横線で目的駅で降り徒歩で勤務先へ着くというのが日常的な行動パターンだった。
 大学ではその頃、学生生活協同組合というのが出来ることになった。小さな部屋に文房具や教科書などを並べたりと言う店舗が出来た。そこに販売員として二人の大変美しい女性が勤めることになった。一人は純和風な感じの方で優しい声の方だった。もう一人の方は逆に洋風が似合う活発な感じの方であった。
 麻生さんは、この二人のどちらかの方に恋をしてしまった。その女性は、麻生さんが渋谷駅から乗る東横線の同じ車両に乗ることがしばしばあったという。それで恋い心が芽生えたのかも知れない。麻生さんはそれが恥ずかしいと思い渋谷駅からバスで勤務先へ行くようにしたという。その当時でも普通の若い男性は逆に好ましい女性が乗る電車に時刻を合わせて乗るようにするものだが、麻生さんの場合は逆だった。それには幾つかの原因があったらしいと同研究室の先生が教えてくれた。その一つは、数回この大学の入学試験に失敗したということ。自分の顔に自信が無かったということ、そのために鼻の整形手術を受けたということであった。それから職種が大学にいて教員ではなかったということだったという。
 その二人の女性は相次いで卒業生と結婚してしまった。それは麻生さんにとって辛い失恋であった。その後先生方が麻生さんに縁談を持ちかけても、彼は有馬稲子か岡田茉莉子でなければ結婚しないと断っていたという。

 それで教授の紹介で最大手の製鉄会社の事務担当に転職することになった。そこは会社の研究所で、そこで使用する在庫管理を一手に任されるほど信任されていたということだった。数年して麻生さんに再会する機会が出来た。研究室で4泊5日の旅行(五色沼、白布高湯、蔵王青根温泉、松島、仙台へ往復夜行、宿で2泊という強行軍だった)に行くことになり麻生さんをお誘いした。久しぶりに会った麻生さんはずいぶん変わっていた。よく笑い、よくおしゃべりをし、よく飲みよく食べるようになった。最後の夜仙台で麻生さんは私を労うということでバーへ連れて行ってくれた。感じのよい中くらいの店だった。ウィスキーを一杯飲んでいるところへ30代の男が這入ってきた。その男は店のママと知り合いらしく親しげに話し始めた。何気なしに聞こえてきた会話の中に、
「今度は長かったのね」
「そう、一人やってしまったのでO年食らってしまった。」
 麻生さんと私はOO危険には近寄らず、と言って直ぐ店を出た。2軒目にいったのは仙台駅近くのトリスバーだった。そこには数人の女性客がいた。麻生さんはその一人を誘って狭い店内でダンスを始めた。
 私は、呆気にとられたと同時にあの生真面目で内向性格だった麻生さんがずいぶん変わったと思い、嬉しくなった。

 麻生さんは、事務能力を買われて本社長大建造物関係の部署に転勤し参与として活躍した。

 そんな麻生さんとはしばしば麻雀をやった。会社の同僚とやる麻雀はレートを高くするのが上手いという考えで雀鬼とあだ名されるようになっていた。私はこう言っては何だが麻雀を高レートでやるような腕前ではなかったと思ったものである。
 麻生さんには、いろいろな面で大変お世話になった。ここに感謝の意を表します。


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