『いつも、いつでも元気炸裂!』

どんな環境やどんな状況でも、どんな人とでも明るく元気な笑顔で交流するよう心がければ自他ともに更に元気な心が増幅します。

想いは仙台に・・・そして果てしなく・・・第二弾

2020-06-07 09:53:28 | 喜怒哀楽をポジティブに
私が初めて仙台を訪れたのは20代の後半、会社の夏期長期休暇(10日間)を
利用し、『放浪の旅シリーズ』の名のもとに車で東北を巡る旅をした時だった。

すでに結婚していたが何しろ『放浪の旅』という名前を付けたので
単身、なんの予定も計画もなく行き当たりばったりで・・・・
東北にしたのもその朝、洗面道具や着替えを車に積み込みむとまだ1歳を
過ぎたばかりの長男の寝顔を見て出かけることにした時・・・。

友人がつけてくれた息子の名前『将太郎』とその友人の子どもの名前の
『龍一郎』の由来が当時二人で読みあさっていた歴史小説や、戦国武将の
物語などをヒントにしたものだということを思い出し、大好きだった真田幸村や
上杉謙信にまつわる場所へは何度も行っているので今回は東北にしよう・・・と
一瞬で東北の戦国武将伊達政宗を見に行くことに決めたのだ。

埼玉を出発したのが夜の8時頃・・・50年も前のことだから当然東北自動車道も
まだ開通していない時代だが交通量も少なく、仙台には夜中に到着。
仙台はかなり強い雨ではじめは青葉通の並木道に駐車して朝を待つことに
したがやはり少しでも静かなところが良いと考え、少し走ってある工場脇の道路へ。

ところが上方の電線から車の屋根に落ちる雨音でうとうともできないまま朝を迎えた。
幸い7時頃には雨も上がり、早速伊達政宗の銅像の下へ・・・。
さすがに見応えがあった。

想像を巡らしながら蒸し暑さを感じることもなくむしろ清々しい思いで公園内を
ゆっくりと歩き、車に戻ったことを今もはっきりと覚えている。

仙台城址(青葉城址公園)をゆっくりと見た後は広瀬川へ・・・曲がりくねった川と
城との関係なども考えてしばらく歩き続けた。
後に『青葉城恋歌』がヒットした頃に、私もゆっくりと川縁を歩いたことを
本当に懐かしく誇らしげに思ったくらいである。
落ち着いた東北の街、杜の都はまさに仙台を表すようにぴったり。

今のようにどこへ行ってもコンビニがある時代ではなかったので朝食を
摂るのにも一苦労(?)・・・そうだ家族への連絡のためにと電話ボックスに
入った後、しばらくして小銭入れを忘れたことに気づき、取りに戻ったときには
硬貨でいっぱいだった小銭入れがなかったことも一つの思い出となった。

その後青葉区、太白区などの学校の周りを回り、その建物が醸し出す雰囲気
からも想像を広げ、そこにいるだけであたかも多くのことを学んだかのように
錯覚、妄想し、一人楽しんだものである。

その後、瑞巌寺の静けさと厳かな中でゆっくり時間を過ごし、心洗われた思いで
松島へ・・・観光船には乗らず、海岸へ打ち寄せる波を見て『あ~、松島だ!』と
何故か感激し、岩手から青森へ・・・1週間の旅のうち半分は車中泊だったが
東北各地の温泉でも東北ならではの情緒を味わうことができ、その後前述の
友人達と一緒に車の旅をした九州にひけを取らない一生忘れることのない
良い旅となったのだ。

仙台を含む宮城県は40年以上も前に『宮城県沖地震』の被害に遭い、
その後も2003年に宮城県沖、宮城県北部、その後も岩手や宮城での
度重なる地震発生による大きな痛手を受け、2011年の『東日本大震災』
(東北地方太平洋沖地震)では壊滅的な被害を受けているが国の支援も
十分ではない中、今人々は苦しみながらも力強く生きている。

その後・・・あまり放浪とも言えないような旅を終えて何十年も経過し、
定年退職後に始めた運送業でもしばしば東北を訪れ、連日長距離を
走る私にとって仙台は至近距離と感じるようになり、4時間走行は軽い
ウオーミングアップ程度に思えるので自分にも委託する側にも好都合であった。
泉ヶ丘へ向かう457号線で危うく事故に巻き込まれそうになった事なども
今となっては懐かしい。

運送の仕事を続けた16年間もあっという間に過ぎたが東名高速を走るよりは
東北自動車道が帰りのことも考えると快適であった。
コンピューターのパーツを扱う会社からの時間指定の依頼などには自信を
持って対応でき、おかげで仙台市内の会社、学校、病院等への仕事が
多くなったこともある。

魚介類を食べない私には無縁であるが「笹かま」や、「銘菓萩の月」などの
お土産は誰からも喜ばれその笑顔を見るのも嬉しく楽しかった。
東北での仕事で時間に余裕のあるときは仙台~山形間を高速利用せず
道路の両脇が延々と木で囲まれたまさに森の中を抜けるような国道286を
快適にひた走り、車窓から入る新鮮な空気をいっぱい吸い込んで笹谷峠で
休憩し、居合わせた見知らぬ人と話をした時にやっぱり人間は常に話し相手が
必要なんだなと感じ、久しぶりの会話だったので何故かほっとしたことも
今となっては良い思い出となっている。

その後、家族の希望により年齢も考え、長距離を辞めてスポットやチャーター
での仕事の時も時々東北へも関西へも行ったが、2年前に現役を引退するまでの
直近3年間は毎日220キロ走行の定期コース専用で走ったため、今や仙台は
懐かしい場所となってしまった。

コロナが収まったらまたあの286号を通り、天童の大きな将棋の駒を
見に行ったり、国道4号線をゆっくり、のんびりと盛岡に向かって走れる日が
来ることを期待しよう。

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 妻の絵手紙仲間への連絡から... | トップ | 現政権よりはミカンの小さな... »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
是非とも (ケンスケ)
2020-06-07 18:20:49
山形には美味しい物が多く
仙台で出歩くより山形に行く機会の方が多く
蕎麦街道を訪ねて蕎麦屋巡りをしております
勿論仙台も良い所ありますよ
コロナ収束を待ち望み出かけようではありませんか
お供いたしますよ
返信する
いずれもう一度・・・ (fumiel-shima )
2020-06-07 20:15:31
仙台、山形間は意外に近いんですね。
山形に親戚のある人の話によりますと高速バスが本数も多く、時間的にも料金的にも良いということでしたが・・・いずれ必ずもう一度行ってみようと思っています。お会いできる日を楽しみにお互い自分らしく元気で過ごせるようにしましょう。
返信する

コメントを投稿

喜怒哀楽をポジティブに」カテゴリの最新記事