我家の犬くんに咬まれた事を日記にしている。(「我が犬に噛まれる(2015.02.21)」)
咬まれた翌日からは、不安と恐怖に葛藤する日々の連続であったことを、記録(日記)として書き残すかについて迷っていた。
半年という時間の経過で、落ち着きも取り戻す事が出来ている(と思う)今日この頃である。
咬まれた事によるリスクが、完全に払拭されたとは、今もって云い難いが、残そう(日記として)と意を決した。
2015年2月20日の夜、犬くんの行った”不始末”に怒りを覚え、強く叱責した。
犬くんは防衛本能で、私に攻撃を仕掛けてきた。
そして、出血を伴う”咬み傷”を私は受けた。
「明日、病院に行こう!」と思った。
翌朝となって、出血が止まった傷口の手当をしながら、30数年前に、同じく犬に咬まれ病院で手当てを受けた時の言葉が”トラウマ”となって蘇るのである。
以下は日記の抜粋である。
病院の院長(女医)が診察した。
犬に嚙まれた部分の手当てをして、治療は終わった。
若い男性医師が「血清を投与?しましょう!(医療の常道では?)」と提案した。
「ワクチンを投与する事と、狂犬病による発症を比較すれば、投与しない方が良い」
加えて「この三十年程は狂犬病(発症)の事例はこの地域にはない」と説明した。
しかし、若い男性医師は「結果は(院長の責任で)知りませんよ!」
院長は、現状の発症(この地域での狂犬病の)から投与(注射)しない判断をしたということであった。
院長と、若き医師の問答”ワクチン接種=副作用・若しくは後遺症”と言う言葉の意味が重く圧し掛かって、昨夜の「病院へ行こう」と言う意識が抑制される。
ワクチンの接種による新たなリスク(前記の後遺症や副作用)への恐怖心が勝って、受診(受診=ワクチンの接種)しようとする意識が失せるのである。
そして、夜を迎える。
NETで「狂犬病」というキーワードで、不安を解消する言葉を捜す。
目に付く事、それは「発症すると100%死」と言う記述しか見当たらない。
「明日は、病院へ行こう!」
翌朝を迎え、陽光穏やかにして「(ワクチンを接種しなくても)大丈夫!」と言い聞かせる。
医師をする甥に電話をする。
「犬は、雑菌を多く持っているから病院へ行くこと!」と進言された。
そして「ワクチンは接種されるでしょう!」という。
「さて!どこの病院へいこうか・・・?」と調べは、した。
やがて、夜を迎える。
不安に押しつぶされそうになる。 明日は病院へ行くぞ!
朝となって、息子や犬を飼っている友人に電話する「何度も咬まれるが(病院に行っていない)大丈夫!」
又しても、夜を迎え”発症すれば”死”と言う恐怖感が襲ってくる。
朝を迎え、動物病院の診察開始時間を待ち焦がれて「狂犬病」に関する情報を得ようと電話をする。
「海岸近く(注1)居て、野犬と喧嘩し、咬まれる様な事がなければ(犬が)狂犬病を発症することはい」
「もし、発症したとなったら大問題になる!」 注1:海岸近く・・とは密航してきた犬が居たとしての話し。
太陽が沈み、静寂が訪れると「獣医はあのように云ったが、100%狂犬病が無くなったのではない」と不安な気持が目覚めるのである。
咬まれて、此れだけ日数が経過したのだ、今更、ワクチンを接種しても、駄目だろうから(注2)、悩むのは止めようと、気分転換に努力をした。
注2:狂犬病を持つ犬に咬まれたとして、間髪なくワクチンの接種を受けると、略100%発症することはないとのこと
楽天的、それとも優柔不断な性格からか? 30数年前の女医が発した言葉の重みか? 受診する事をためらい、今日まで居る。
世界の事例(一年後?に発症した)からも、発症するリスクから開放された訳ではない。 脳裏にその不安は今もある。
それでも、過去の、夜と昼の精神状態からは開放され、記録(日記)として残そうと思う”穏やかな”日々を取り戻している。
あれ程の、夜と昼の精神状態の違いを、経験したは無かった。
当の犬くんは、自分が咬んだ事を日記にしているとは知らないのだろう、暑いのか板間に腹ばいとなって、忙しそうに息をしている。
咬まれた翌日からは、不安と恐怖に葛藤する日々の連続であったことを、記録(日記)として書き残すかについて迷っていた。
半年という時間の経過で、落ち着きも取り戻す事が出来ている(と思う)今日この頃である。
咬まれた事によるリスクが、完全に払拭されたとは、今もって云い難いが、残そう(日記として)と意を決した。
2015年2月20日の夜、犬くんの行った”不始末”に怒りを覚え、強く叱責した。
犬くんは防衛本能で、私に攻撃を仕掛けてきた。
そして、出血を伴う”咬み傷”を私は受けた。
「明日、病院に行こう!」と思った。
翌朝となって、出血が止まった傷口の手当をしながら、30数年前に、同じく犬に咬まれ病院で手当てを受けた時の言葉が”トラウマ”となって蘇るのである。
以下は日記の抜粋である。
病院の院長(女医)が診察した。
犬に嚙まれた部分の手当てをして、治療は終わった。
若い男性医師が「血清を投与?しましょう!(医療の常道では?)」と提案した。
「ワクチンを投与する事と、狂犬病による発症を比較すれば、投与しない方が良い」
加えて「この三十年程は狂犬病(発症)の事例はこの地域にはない」と説明した。
しかし、若い男性医師は「結果は(院長の責任で)知りませんよ!」
院長は、現状の発症(この地域での狂犬病の)から投与(注射)しない判断をしたということであった。
院長と、若き医師の問答”ワクチン接種=副作用・若しくは後遺症”と言う言葉の意味が重く圧し掛かって、昨夜の「病院へ行こう」と言う意識が抑制される。
ワクチンの接種による新たなリスク(前記の後遺症や副作用)への恐怖心が勝って、受診(受診=ワクチンの接種)しようとする意識が失せるのである。
そして、夜を迎える。
NETで「狂犬病」というキーワードで、不安を解消する言葉を捜す。
目に付く事、それは「発症すると100%死」と言う記述しか見当たらない。
「明日は、病院へ行こう!」
翌朝を迎え、陽光穏やかにして「(ワクチンを接種しなくても)大丈夫!」と言い聞かせる。
医師をする甥に電話をする。
「犬は、雑菌を多く持っているから病院へ行くこと!」と進言された。
そして「ワクチンは接種されるでしょう!」という。
「さて!どこの病院へいこうか・・・?」と調べは、した。
やがて、夜を迎える。
不安に押しつぶされそうになる。 明日は病院へ行くぞ!
朝となって、息子や犬を飼っている友人に電話する「何度も咬まれるが(病院に行っていない)大丈夫!」
又しても、夜を迎え”発症すれば”死”と言う恐怖感が襲ってくる。
朝を迎え、動物病院の診察開始時間を待ち焦がれて「狂犬病」に関する情報を得ようと電話をする。
「海岸近く(注1)居て、野犬と喧嘩し、咬まれる様な事がなければ(犬が)狂犬病を発症することはい」
「もし、発症したとなったら大問題になる!」 注1:海岸近く・・とは密航してきた犬が居たとしての話し。
太陽が沈み、静寂が訪れると「獣医はあのように云ったが、100%狂犬病が無くなったのではない」と不安な気持が目覚めるのである。
咬まれて、此れだけ日数が経過したのだ、今更、ワクチンを接種しても、駄目だろうから(注2)、悩むのは止めようと、気分転換に努力をした。
注2:狂犬病を持つ犬に咬まれたとして、間髪なくワクチンの接種を受けると、略100%発症することはないとのこと
楽天的、それとも優柔不断な性格からか? 30数年前の女医が発した言葉の重みか? 受診する事をためらい、今日まで居る。
世界の事例(一年後?に発症した)からも、発症するリスクから開放された訳ではない。 脳裏にその不安は今もある。
それでも、過去の、夜と昼の精神状態からは開放され、記録(日記)として残そうと思う”穏やかな”日々を取り戻している。
あれ程の、夜と昼の精神状態の違いを、経験したは無かった。
当の犬くんは、自分が咬んだ事を日記にしているとは知らないのだろう、暑いのか板間に腹ばいとなって、忙しそうに息をしている。